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 やいのやいのと言い合いながらの買い物ではあったものの、本命のマグカップについてはあっさり、一軒目で良さそうなものを見つけることができた。ただ黒尾の性格を考えるに、気に入ったものをすぐに見つけられたというのが嘘ではないにせよ、あまり買い物を長引かせないようにという優しさから一軒目で買い物を終えたというのもあるのだろう。それが分かるから、名前も手早く買い物を済ませる黒尾に従った。
 購入したマグカップは、名前が自宅に持ち帰ることになった。黒尾のものとはいえ、名前の家で使うことを想定して買ったものだ。当然、名前が持ち帰った方が都合がいい。
 だが黒尾は会計を済ませると、マグカップの入った袋を自分の手で受け取った。そして店を出てからもしっかり紙袋を握ったまま、一向に名前に渡す素振りを見せない。
 隣を歩く黒尾の素知らぬ顔を見上げ、名前はぼそりと呟いた。
「そういうところ、黒尾さんはいつも黒尾さんですよね」
 マグカップひとつくらい、さほど重たい荷物でもないというのに。口調は自然呆れるようなものになったが、内心ではもちろん黒尾の優しさに頬がゆるみっぱなしになっている。そのゆるみは顔にも出ていたようで、名前を見下ろした黒尾はにんまりと楽しそうに口角を上げた。
「お、なんだなんだ。苗字さん俺のこと褒めてる?」
「もちろん」
 揶揄う声音で問われたが、実際名前は黒尾のことを尊敬していた。その思いで素直に頷くと、黒尾は何だか変なものでも食べたような顔で、ぎこちない笑顔のまま空いた方の手でぽりぽりと首の裏をかく。
 エレベーターに向かって歩くかたわら、黒尾はもの言いたげに溜息を落とした。
「常々思ってるけど、苗字さんって俺に対する評価が激甘じゃない? いとこくんには割と辛辣だって聞いてるけど」
 何を言い出すかと思えば、今更も今更、しごく当然のことを言いだす黒尾だった。矢巾は名前の親戚で、幼いころから互いによく知った仲なのだし、そもそもどちらかといえば遠慮も礼儀もあったものではないのは名前より矢巾の方だ。黒尾と比べてどうこうというよりは、誰に対してであろうとも、矢巾に対する以上には礼儀正しくなるというものだ。
 名前は首を傾げつつ、黒尾の顔を見上げた。
「そりゃあまあ、秀くんと黒尾さんでは……」
 と、そこで、名前ははたと気が付いた。
「というか、え? 黒尾さん秀くんと連絡とってるんですか?」
 そう言いながら、名前は黒尾を凝視する。黒尾は「おっと、失言」とさも慌てたように口許を手で覆って見せるが、実際にはまったく焦っていないのは余裕しゃくしゃくなその表情から明らかだ。むしろ寝耳に水の名前の方が、大いに慌て狼狽えた。
「ちょっと! そんな話聞いてないんですけど! えっ、いつからですか? バレンタインのとき!?」
「まあまあ。あ、それより飯このへんで食ってく? 家の周りつってもファミレスくらいしかないだろ」
「露骨に話をそらすし……!」
 とはいえ、今日の名前は不調を黒尾に気遣ってもらった恩がある。今はもう黒尾との買い物を楽しめる程度に回復したが、先に受けた恩に免じてこれ以上、この件について追及するのはやめることにした。

 夕食は適当にファミレスで済ませることにした。ちょうど店が混みあう時間なので、電車で音駒まで帰ってから駅前のファミレスを使うということで話がつく。
「そういえば、黒尾さん。音駒の駅の反対側に、今度新しくカフェができるの知ってます?」
「え、そうなの? あっち側あんまり行かねえから知らんかった」
「私も外観見た程度しか知らないんですけど、なんかちょっとおしゃれな感じのカフェですよ。『猫目屋』のお客さんとられたらどうしよう」
「おしゃれな駅前のカフェは『猫目屋』の競合にはならないから安心しなさい」
「分かんないじゃないですか」
 他愛のない雑談に花を咲かせながら、ふたりはビルを出て直通の駅に出る。数分後に来る電車に乗るため、名前と黒尾が話をしながら改札を通ろうとしたまさにその時、
「あれっ、名前ちゃん?」
 ふいに背後から呼び止められ、ICカードを改札にかざそうとしていた手を名前は止めた。呼ばれるままに振り返り、「あっ」と声を上げる。
 そこにいたのは仕事帰りの同期――名前が縁故さんと呼んでいる、同じ部署の同期だった。
「名前ちゃん定時で帰ったんじゃなかったっけ?」
「そうなんだけど、買い物してて、今から帰るところ」
「金曜日だもんねぇ」
 名前が職場を出たときには縁故さんはまだ残っていたから、たまたまここで鉢合わせになったのだろう。そんなことを考えつつ、名前はすぐ隣にいた黒尾を見上げた。縁故さんが微笑みを目元に浮かべて黒尾を見ている。黒尾もまた、やや胡散臭くはあるがそつのない笑みを浮かべていた。
「黒尾さん、こちら職場の同期です」
「どうもこんにちは」
「こちら、知り合いの黒尾さん」
「どうも、知り合いの黒尾です」
 名前の紹介を復唱する黒尾を、縁故さんがまじまじと見つめた。縁故さんはきれいな微笑みを崩すこともなく、しかし抜け目のない視線を黒尾から外そうともしない。まるで骨董品の真贋鑑定でもしているような鋭い視線に、黒尾よりもむしろ名前の方がおどおどしてしまう。
 当の黒尾はそういう視線に慣れっこなのか、少なくとも表面上は困ったそぶりすらなく、堂々と縁故さんの視線を受け止めている。
 やがて縁故さんは、口の端をぐいっと上げてにんまり笑むと、黒尾から名前へと視線を戻した。そして名前にずいっと近寄って、
「ねえ、名前ちゃん? この間のお昼に写真見せてくれたけど、もしかしてこちらが例の……?」
 語尾に含みを持たせ、縁故さんが可愛らしく首を傾げる。同性の名前が見惚れてしまうような愛らしい仕草だが、あいにくと今は見惚れている場合ではない。
「あ、いや、ええと……」
 狼狽する名前に、今度は黒尾が「ふうん、写真見せはしたんだ?」と笑いかけてくる。気付けば黒尾は肩を寄せて――といっても肩の高さは随分違うのだが、名前の方に頭を傾けてきた。さながら縁故さんの動きを鏡写しにしたような仕草だが、さすがに身長百九十近い男性に小首を傾げられたところで、可愛さなど微塵も感じない。ただひたすらに距離が近いと感じるだけだ。
 ここのところ黒尾との距離が物理的に近いことが多くなっているので、これしきのことではもう名前もおたつかない。名前は呆れたような顔で黒尾を見た。
 だが縁故さんは、目のまえで繰り広げられる黒尾と名前のその遣り取りこそを、ふたりの親しさの証左だと勘違いしたらしい。そして勘違いついでに、名前と黒尾の関係についても何やら勘違いを生じさせたようだった。
「やっぱりそうなんだ!? ちょっと、そういうのは言ってよ!」
 ぱっと顔を輝かせ、名前の両肩に手を置いた。そのまま縁故さんによって名前は勢いよく前後に揺さぶられ、鳴りを潜めていた名前の不調がうっかり再び顔を出す。
 そんな名前の窮状に気が付いたのか、黒尾がやんわりと名前と縁故さんの間に割りこんだ。
「ちゃんと言ってたら、苗字さんに男を紹介したりしなかった?」
「うわ、名前ちゃんから聞きました? 大丈夫、もうしない。約束します」
 そう言って縁故さんはようやく名前を解放すると、黒尾に向けて何度も大きく頷いた。名前はほっと息を吐く。名前は一言も黒尾が自分の恋人だなどとは口にしていないのだが、結果的には縁故さんにそう勘違いさせたまま話が進行してしまった。ちらりと黒尾を横目で見ても、黒尾は普段通りに読めない顔で笑っているばかりだ。縁故さんの勘違いを訂正しようという気はないらしい。
 まあ、もともと黒尾さんは彼氏がいるってことにすればいいって言ってたもんね……。
 縁故さんを勘違いさせたままにしておくのは心苦しいが、嘘を吐いたわけではない。名前はそう自分に言い訳した。何より、巻き込まれる黒尾がまったく意に介した様子がないのだ。それが名前のことなどまるで意識していないという、黒尾の心情のあらわれなのだろうかと思うと悲しさや虚しさを感じないでもなかったが――ともあれ。
 今後もう男性を紹介しないと言質をとったのだから、今はひとまず縁故さんの勘違いをそのままにしておくことにした。
「それにしても」縁故さんが、ふと発する。「改めて会うとなると、写真で見るよりもずっとかっこいいね……」
 まじまじと黒尾を見つめる縁故さんの目には、一切よこしまな感情は滲んでいない。ただただ感想を口にしているだけのようで、名前としては却ってリアクションしづらいものがある。
「そ、そう……?」
 一応そんなふうに聞き返してみたものの、よく考えればここで名前が否定するのもおかしいような気がした。恋人を褒められて謙遜するのならばまだしも、実際の名前は黒尾の恋人でも何でもない。黒尾の容姿を褒められて名前が勝手に謙遜するなど、どう考えても失礼な話だ。
「そうなんだよね、かっこいいんだよね……」
 悩んだ末、それだけ返事をした。恥ずかしくて黒尾の顔を見ることができない。
 名前の気もしらず、縁故さんはきゃっきゃとはしゃいでいる。
「わぁ、名前ちゃんってそんな惚気るタイプだったんだ?」
「違う、違うんだけども……!」
「でも、かっこいいと思ってる?」
「……そうなんだけども」
 今頃黒尾はにやにやしていることだろう。見なくても分かる。黒尾が名前のことをある程度分かっているのと同様に、名前も黒尾のことは何となく分かるのだ。というかこの状況で、黒尾がにやついていないはずがない。
 電車の到着を告げるアナウンスが流れ、路線の違う縁故さんとは改札で別れた。ふたりきりでホームに向かいながら、名前は気恥ずかしさを押し殺したむっつり顔で黒尾を見上げる。
 案の定、黒尾は憚ることなくにやにや笑いで名前を見下ろしていた。目と目が合った途端、名前は顔に熱が集中するのを感じる。何も言葉を口にしなくても、黒尾のそのにんまり歪んだ瞳が雄弁すぎるほど雄弁に語っていた。むしろ言葉にされないぶん余計に、名前の羞恥心はあおられる。
 しばしののち、名前は沈黙に耐えかね黒尾に抗議した。
「ちょっと黒尾さん、なんですかその顔!」
「どんな顔か自分では分かりかねますなぁ」
「ほら、もう行きますよ! 早く夕飯食べて帰るんでしょう」
「いやー、今日はいい日だな」
 上機嫌の黒尾を置き去りにするように大股で名前は歩く。だが残念ながらコンパスの長さが名前とは違う黒尾は、平然とした顔で名前の横につき、ぴったり貼り付くように駅内を闊歩した。
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