059

 ゴールデンウィークが明けて、最初の金曜日。名前は会社の最寄り駅で、黒尾と待ち合わせをしていた。
 研磨と黒尾と三人で藤棚を見に行ったその日の晩――帰宅した名前のスマホに、黒尾から五月中のあいている土日の日付を記したメッセージが届いた。日中話したとおり、マグカップを買いに行く日を決めるためだ。
 しかしいざ予定をすり合わせてみると、あいている土日は名前か黒尾どちらかにすでに先約が入っており、うまく互いの休みが重ならない。結局、いっそ金曜日の退勤後ということで話がついた。
 名前の職場の近くに、ちょうど大型のショッピングビルがある。立地的にも黒尾の通勤路の途中にあり、双方にとって都合が良い。悩んだすえ、金曜日は仕事を早めに切り上げて、そこで買い物することにした。

 金曜の夕刻、定時に無事に退勤し、名前は会社の最寄り駅へと急ぐ。退勤してすぐにスマホを確認すると、ちょうど数分前に黒尾から「今から職場出る」というメッセージと、到着予定時刻の検索結果のスクリーンショットが送られてきていた。黒尾が着くまでにはまだ余裕がありそうなので、名前は髪型が崩れない程度の速さで歩いて駅に向かう。
 見上げると、空は淡い水色に染まっていた。裾の淡い橙色に向けてグラデーションになった空を見ていると、自然と名前の目の裏に黒尾の顔がちらつく。
 黒尾と外を歩くのは夕方か夜に近い時刻が多い。だから名前のなかでは、黄昏は黒尾の刻というイメージになっている。
 さほど歩くこともなく、駅に到着した。待ち合わせ場所で足を止めると、途端に汗が噴き出してくる。
 ゴールデンウィークが明けてからというもの、めっきり暑くなった。梅雨の気配はまるでなく、連日真夏のような気温が続いている。待ち合わせ場所の改札前に到着すると、名前は鞄から取り出したハンカチで額に滲んだ汗をおさえた。黒尾にはこれまでも散々くたびれた姿を見られているが、こうして仕事の後に待ち合わせをするとなると、また少し気分が変わる。
 そばにあった柱に背を預け、名前は息を吐き出した。仕事自体に疲れているわけではないが、金曜ともなればそれなりに疲労も蓄積している。特にゴールデンウィークが明けた今週は、なんだかんだと退勤後まで予定を詰め込んでいた。黒尾と会うのは良くも悪くも名前にとって心やすらぐことなので、張っていた気がゆるんだというのもあるかもしれない。
 知らず、溜息を吐き出す。と、視線を向けた足元に、ふいに影がさした。
「よ」
 声につられて顔を上げると、黒尾が名前の目の前に立っていた。
「乗ろうと思ってた電車より一本前のに乗れたおかげで、苗字さんのこと待たせずに済んだな」
 そう言って微笑む黒尾は暑さのためか、ジャケットを腕に引っかけている。黒尾のワイシャツ姿は見慣れているはずなのに、不覚にも名前は胸をときめかせた。
 名前の会社にも同年代の男性社員はたくさんいる。だが黒尾ほど若くして、スーツやワイシャツをこれほど着こなしている男性はひとりもいない。
 そもそも、黒尾さんはスタイルがいいんだよなぁ。黒尾の姿をしみじみ眺め、そんな今更なことを考える。
 似合ってるからかっこよく見えるのか、かっこいいから似合って見えるのか。おそらくその両方なのだろう。ついでに言えば、惚れた欲目というのも多分ある。
 そう結論が出たところで、名前はまだ黒尾に挨拶していないことに気が付いた。
「黒尾さん、おつかれさまです」
 ふだん通りに接したつもりだが、黒尾にうっかり見惚れたせいで声がわずかに上擦った。耳ざとい黒尾は目を細めて、名前の顔を覗き込む。名前の背後には冷たく固い柱。黒尾が至近距離かつ正面に立っているせいで、名前は閉じ込められているような気分になる。
「ん? 苗字さん? 何だね、その顔は」
「別に何でもないです」
「あ、もしかして久し振りに俺のスーツ姿見てかっこいいなと思ってる?」
 ずばりと言い当てられ、名前は思わず目を見開いた。
「なんで分かるんですか?」
「いや、苗字さんにスーツで会うのも久し振りだなと」
 相変わらずの洞察力に、名前は内心舌を巻いた。とはいえ自分に無関係なことならばすごいすごいと喜べるが、自分の動揺を見透かされているのだと思うと背中を冷汗が伝う。
 幸か不幸か、黒尾はそれ以上名前の動揺を深追いしなかった。代わりに先ほどの名前と同様、黒尾は名前の全身を上から下へひと通り眺めて言った。
「苗字さんも仕事だとそういう感じなんだな」
 そういえば、と名前も気が付いた。名前の就職した会社はそれほど大きな会社でもなく、また社外に出ることもほとんどない。服装規定はないに等しいが、それでも一応、名前は普段着よりも多少かっちりした格好で出勤していた。黒尾の前でこういう格好をしたことはないから、少し目新しく見えるのだろう。
「変ですか?」
「いや、なんかそういう恰好してると、普通に仕事してるおねえさんだなーと」
「普通に仕事してるおねえさんなんですよ」
 といっても、社会人になってまだひと月あまりしか経過していないのだが。ほとんど研修しかしていないのに大きな口を叩いたような気がして、名前はひそかに赤面した。幸い、今度は黒尾に何を言われることもなかった。
 挨拶も済んだところで、黒尾とふたり、ショッピングビルの方に歩き出した。ビルは駅から連絡通路で直結しており、わざわざ屋外に出る必要もない。
 黒尾がちらりと腕時計を確認する。
「ちょっと買い物して、適当にどっかで飯食って帰る感じでいい?」
「もちろんです」
「何食うかなー。苗字さん何の気分?」
「お酒が飲めればどこでもいいですね」
「言うと思ったけど、本当にぶれねえなぁ」
 暑くなってきたから、ビールを飲めたら嬉しいかもしれない。そう思ったところで、胸がぐっと詰まった心地になる。吐き気というにはささやかだが、無視するには気分が悪いその感覚に、名前は思わず顔を顰めた。今日は朝からずっとこんな調子だ。
 名前がさりげなく手で口許をおさえていると、
「苗字さん何か疲れてる?」
 黒尾がわずかに腰を曲げ、そっと覗き込むように名前の顔色を窺っていた。どうやら気持ち悪いと思っているのが顔にまで出てしまったらしく、それを黒尾に見とがめられたらしい。
 名前は正直に、体調が絶好調ではないことを申告するか逡巡したのち、黒尾には伝えておくことにした。今日この後しばらく一緒にいるのであれば、先に話しておいた方がむしろ黒尾に余計な気を回させないで済むような気がする。
 ビルの自動ドアを通過しながら、名前は「……実は」と申し訳なさげに切り出した。
「昨日まで、退勤後三日連続飲み会で」
 言っているうちに、申し訳なさを恥ずかしさが上回る。黒尾の気遣うような視線にも、不審さが色濃く滲んでいた。
「おいおい、ド平日だろ。元気だな」
「というか縁故さんが、ものすごい勢いで飲み会をセッティングしてくれるんですよね……。それでなんというか、断り切れず……」
 しゅんと名前が項垂れる。ゴールデンウィークが明けてから、縁故さんの勢いは留まるところを知らない。名前が三日連続で飲み会をしているということは、その場をセッティングしている縁故さんも同じく連日飲み会に参加しているということだ。
 そもそもの社交能力の差なのか、それとも単に肝臓が強いのか、名前がここまで疲労困憊になっているにも関わらず、縁故さんは元気いっぱいなのが恐ろしい。それどころか同時進行で自分の恋愛の相手も探しているというから、なお恐ろしい。もはや名前にとって縁故さんは、尊敬を通り越して畏怖の対象ですらある。
 とはいえ、名前が疲労しているのは単に飲み会続きだからというだけでもない。名前はこれでも酒好きとして、かなり酒には強い方だ。だからむしろ名前の抱える疲労は、酒そのものよりも酒席のメンバーに原因がある。
 縁故さんによって集められた生え抜きの精鋭男子――彼らが日替わりで、名前とともにテーブルを囲んでいるのだった。もちろん二人きりということはないのだが、それでも名前にとっては見知らぬ男子がいる場に連日引き摺り出されているわけで、疲労しないはずがない。
「俺の写真見せて、付き合ってるふりしてねえの?」
 黒尾がむっつりとした顔で言う。名前は黒尾から視線をそらし、力なく微笑んだ。
「いやー、一応それっぽいことは話したんですけど、信じてもらえてないのか何なのか……」
「ちゃんと彼氏いますって言った?」
「好きな人がいるって話を……」
「おいおいおい。その結果、余計ぐいぐい来られてんのかよ」
「そうなんですよ……」
 名前が溜息を吐き出すのと、黒尾が呆れているのか抗議なのか、もの言いたげにふうと息を吐くのが同時だった。黒尾の表情を窺う気力もなく、名前はがくりと項垂れた。
「なんで彼氏って言わなかったの?」
 黒尾の問いに、名前はゆるりと視線を上げた。やけに不満げな黒尾と視線がぶつかり、うっ、と言葉に詰まる。
 黒尾に言われたとおり、一応は縁故さんにも例の写真は見せている。彼氏なのかと聞かれもした。だが、やはり名前はこんなことで嘘をつくというのにどうしても気が咎め、ただ好きな人だという表現にとどめてしまった。
 その結果、何がどう作用したのか、縁故さんはさらにお見合いお姉さん業に血道を上げ始めたというわけだ。自分で蒔いた種といえなくもないこの事態を、もはや名前は受け容れるしかなかった。
 酒好きが幸いして、連日の飲み会自体はさほどの苦痛ではない。人付き合いに疲弊するというのは、名前にとって想定外のことだった。
「俺のこと彼氏だって言っておけば、少なくともほかの男を紹介されるような場には連れていかれなかっただろうに」
「だって、黒尾さんは彼氏では……ないじゃないですか……」
「正直ものか!」
 黒尾に突っ込まれ、名前はさらに言葉に詰まった。これ以上この話題を続けたところで、名前にとっていいことは一つだってなさそうだ。胸のむかむかした気持ち悪さは、話をしているうちに多少ましになった。
 名前はしゃんと背すじを伸ばすと、黒尾を見上げて話題を転じた。
「そんなことよりほら、マグカップ! マグカップいいの探しましょう!」
「ったく……。ま、いいか」
「黒尾さんどんなのがいいですか? やっぱり大ぶりでいっぱい入るのがいいですよね?」
「あんまりでかくても苗字さんちで場所とるだろ。普通でいいよ、普通で」
 フロア案内を見て、雑貨屋が固まったフロアを探す。目的地にあたりをつけると、名前は気持ち悪さがぶり返さないうちにと、いつもより少し大きな歩幅でどんどんエレベーターに向かった。

 ビルの中はほどよく冷房がきいており、名前の体調も各段にましになった。それでも黒尾は、名前の顔色を気にするようにちらちらと名前に視線を寄越す。
 目的のフロアでエレベーターをおりたところで、
「飯、やめとくか?」
 黒尾が気遣うように名前に尋ねた。フロア内には目ぼしい雑貨店がいくらかあり、その中から良さそうな店を探すため視線を巡らせていた名前は、黒尾の声に「えっ」と声を上げた。
「なんでですか?」
「いや、だって疲れてんなら早めに帰った方がいいだろ。この時間、多分どこもそこそこ混んでるだろうしな」
「でも、せっかく黒尾さんと出掛けてるのに……」
 はーぁと溜息を吐くものの、黒尾の言い分の方が正しいことも、それが名前のためを思ってのものであることも、名前はちゃんと分かっている。分かっているからこそ、失態を演じた自分に対して溜息を吐きたくなるのだ。
 だが、こればかりはどうしようもない。体調管理ができていなのは名前の自業自得だし、実際問題、はやく解散した方がたっぷり休息をとれてありがたい。恋する者の心情としては少しでも長く黒尾と一緒にいたいが、無理をすれば却って黒尾に迷惑をかけかねない。
「あ、じゃあお酒はなしで、ごはんだけ食べて帰りませんか? ここじゃなくても、別に音駒で電車おりてからでもいいんですけど」
「俺はいいけど、苗字さんは大丈夫なの?」
「むしろ帰って食事の準備をする方が嫌です」
「なるほど、一人暮らしは大変だな」
 黒尾がしみじみとした調子で言う。それから名前の顔を見下ろすと、なぜだか黒尾は変なものでも食べたような顔をして、名前に負けず劣らずの深い溜息を吐き出した。
「苗字さんさぁ……」
「なんですか」
「そういう顔をされると、俺が拗ねづらいだろ」
 やけに神妙な顔で指摘され、名前は両手で両頬をおおった。そういう顔、と言われても、自分で自分の顔を見ることはできない。どんな顔をしているか分からなかったが、特におかしな顔をしている自覚はなかった。
「というか黒尾さん、拗ねてたんですか?」
 依然両頬を隠したまま、名前が尋ねる。黒尾が目を眇めて、口の端を歪めて笑った。
「まあね。少しね」
「……なんで?」
「悔しいから絶対言わない。苗字さんには教えない」
「なんでですか! 私にはそういうときには言ってって言うのに!」
「じゃあ拗ねてない」
「大人げないことを!」
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