006

 次に名前が黒尾に会ったのは、買い物帰りにばったり出くわした日の、ほんの数日後のことだった。
 アルバイトを終えたその足で、駅前の商店街に向かう。建物によってできた日陰の中を縫うようにして歩いていると、少し離れたところから「おーい、苗字さん」と名前を呼ばわる声がした。
 足を止めて振り返れば、そこには今日もシャツにスウェット姿の黒尾が立っている。ひらひらと手を振る姿は気だるげで、暑さのためか心なし髪がしんなりしていた。
 日陰の中で、黒尾が近づいてくるのを待つ。長い足でのんびりと寄ってきた黒尾は、名前の前で足を止めるとにこやかに名前を見下ろした。
「やっほ、苗字さん。よく会うな。さすが近所」
「行動範囲が近いんですかね」
「まあ、休日に用もなく遠出はしないしな」
 この日は世間は平日だったが、黒尾の休みは週末とは限らない。黒尾のラフな出で立ちからして、今日は一日オフだったのだろう。まだ黒尾と知り合う前に彼の祖母から聞いた話では、黒尾は休日でも忙しく飛び回っているとのことだったが、名前が知り合ってからの黒尾は案外、休みの日には近所でのんびり過ごしている印象がある。
「今日もまたおひとりなんですか?」
 名前が尋ねると、黒尾はにやりと笑みを深めた。
「そうですよ。駅の方になんか食べに行こうかなと思ってたところ」
「自炊とか……は、面倒ですもんね」
「まあね。一応冷蔵庫の中のもん勝手に使っていいって言われてんだけどさ、自分の分一食分だけ作るくらいなら買うか店行くかする」
「そうですね」
「苗字さんは自炊するんじゃないの?」
「しますけど、面倒なものは面倒です」
 そんな話を交わしながら、名前と黒尾は肩を並べて駅の方角へと歩き始めた。
 陽はまだ高くまばゆい光で満ちている。すでに時刻は夕方の六時になろうとしていたが、往来はまだ夜の訪れを感じさせないほど明るい。
 夏の日を浴びながら、名前はサンダルから覗く自分の爪先を眺めていた。黒尾との間に流れる沈黙は気にならないし、話題探しに焦るということもない。だが今日は、先日名前のマンションまで荷物を持ってもらったときの、黒尾の言葉が心の何処かで引っかかっていた。
 黒尾の家族の話について、黒尾の方から話す時が来るまでは、けして聞くまいと名前はひそかに決めている。しかしだからといって、まったく気に掛からないわけではないのだ。黒尾のことを少しずつ知り始めている、今の名前には特に。
 茹だる暑さに頭が煮え、ぼんやりとした思案は果てなく続く。
 黒尾のことを知りたい。いつの間に、自分はそんなことを思うようになったのだろう。ただの茶飲み友達として知り合っただけの、偶然に出会い、自分の意思で選んだ友人ですらない相手。
「苗字さんは? どっか行くところだった?」
 ふいに話しかけられて、名前は弾かれるように黒尾の顔を見上げた。その拍子に額から汗が流れて、耳をなぞって首筋に落ちる。
「すみません、黒尾さん。もう一回お願いします」
「ん? だから、どっか行くところだったのかって」
「ああ、はい。そうですね。私もなんか食べるもの買いにいこうかなって思ってたところでした」
 作り置きの料理はなかったし、こう暑くては料理をする気力もわかなかった。アルバイトをするばかりで、名前には特に散財する趣味もない。たまにこうして外食するくらいの懐の余裕はあった。
 その名前の返事に、黒尾は一瞬口許に手をあて思案を巡らせる。かと思えば、すぐに身体を腰から曲げて、歩きながら名前の顔を覗き込んだ。
「ふうん。じゃあ折角だし、どっかで一緒に飯食わない?」
「えっ、食事……ですか」
「苗字さんさえよければだけど」
 名前はじっと、黒尾を見つめていた。黒尾の物言いに、何処か引っかかるものを感じ、それを言葉にしていいものなのか思案する。
「それはあの……はい、もちろん喜んでお付き合いしますが」
 歯切れ悪く頷きながら、名前は一度視線を落とす。それからまた、黒尾の顔を見上げた。黒尾はきょとんとした顔をして、名前の言葉を待っている。
 言うか、言うまいか。家族の話と同様に、これもまた、安易に踏み込んでいい話かどうか、判別が難しい。他人の振る舞いや言動について物言いをつけるような真似は、極力したくはない。
 だけど、家族の話ほど繊細な話題ではないはずだ。逡巡の末そう判断した名前は、ごほんとひとつ咳払いをした。何時の間にか止まっていた歩みを再開し、大仰にならないように気を付け言う。
「前から少し思ってたんですけど、黒尾さんってかなり私の……というか、相手の意見を聞いてくれますよね」
「え、俺そうだった?」
「さっきも、私さえよければって。そんなに下から言わなくたって、普通に『暇なら一緒にご飯でも』くらいのラフさでおかしくないのに」
 言いながら、名前の胸はどきどきと早鐘を打っていた。思ったことを口にしただけで、黒尾に対して何か物言いをつけたわけではない。どちらかといえば、強引さがなくスマートな黒尾の振る舞いには、いつも感服しているくらいだ。
 返事のない黒尾に不安になり、
「あっ、すみません。別に黒尾さんの言い方が嫌だとか、そういうわけではないんですけど」
 言い訳めいた台詞を付け足してしまう。おそるおそると表情を窺うも、黒尾はことさら気分を害しているというふうもなかった。ただ、その視線は遠くに向けられている。
 束の間、沈黙が続く。二人分の足音だけが、暮れ始めた夕方の道にざりざり響く。
 黙り込んだ黒尾に注意を払いながらも、名前はすでに後悔にさいなまれていた。やはり、慣れないことはすべきではない。それほど親しいわけでもない相手に、あんなことは言うべきではなかった。
 ぞんざいに扱われているというのならばともかく、黒尾の名前に対する接し方は今のところ至って親切そのものだ。下にも置かない扱いを受け、むしろ名前の方が恐縮することもたびたびだ。
 しかし、それが嬉しいのかと問われれば、名前にとって、過ぎた丁寧さは必ずしも嬉しいとはいいがたいものだった。もちろん、ぞんざいに扱われたいわけではない。だが必要以上に丁寧にされたいわけでもない。茶飲み友達という間柄はあまりにも馴染みがないうえ曖昧で、それだけに自分が黒尾にどう接するのか、あるいはどう接されるべきなのかが定まりにくくて難しい。
 踏み込んでいい話題、避けるべき話題。大切に扱うことと、気さくに接すること。その塩梅が難しくて、ときおり過剰で、嬉しくて、もどかしい。こんなことを茶飲み友達相手に思うことから、もしかしたらもうおかしなことなのかもしれない。
 悶々と思い悩む名前の隣で、黒尾が低く呻き声のようなものを発した。びくりと名前が肩を揺らす。そのままつと視線を上げると、黒尾はわずかに眉尻を下げ、困ったような顔で名前を見下ろしていた。
 視線と視線がぶつかり、交わる。自分が黒尾を困らせていると、瞬時に名前の心に罪悪感が湧いた。
「あっあの、本当知ったような口きいてすみません……! さっきのは聞かなかったことにしてください……」
「え? ああ、いや。全然怒ってるとかではないぞ」
「でも、困らせましたよね。リアクションしにくい話題振ってすみません……」
「リアクションしにくいっつーか……いや、そうじゃなくて、苗字さんって案外鋭いなと思ってた」
「鋭いですか? 私、かなり愚鈍なんですが」
「愚鈍。また強めな語彙できたな」
「愚鈍ですみません……」
「声に出して言いたい日本語。『愚鈍ですみません』」
 黒尾が茶化して、名前に笑いかけた。その表情に無理はなく、名前はようやく黒尾が名前のために冗談めかしているわけではないと知る。
 黒尾は、ごく短い間瞑目し、それから小さく唸ってから口を開いた。
「まあ、そうだな。たとえばこれで、誘う相手が男友達とかだったら、俺もそういう適当な誘い方するだろうな。だけど今は相手がほら、苗字さんだから」
「……私、気を遣わせてますか?」
 少しだけショックを受けながら、名前は眉を下げて黒尾に尋ねた。その顔を見て、黒尾はまた笑う。
「そうだけど違う。苗字さんが気を遣わせてるってわけじゃない。ただ、苗字さんは俺がきちんと気にして、気を遣っていかないといけない相手ではあるんじゃないかなと思う。……うん、これだな」
「よく分からないです。それって、私が黒尾さんに気を遣わせているのとは違うんでしょうか」
「違うぞ。ぜんぜん違う」
 きっぱりした口調で言い切って、黒尾はしっかりと名前に視線を合わせた。
「苗字さんは気にしてるか分かんないけどさ、俺はひよっことはいえ社会人で男で、苗字さんは学生で女の子だろ? だから俺が普通にしてるだけでも、力関係は俺のが強くなっちゃうと思うんだよね。ついでに言えば、俺は苗字さんの働いてる店の常連の親戚ってことで、広い意味では従業員と客でもあるし」
 分かる? と黒尾が問う。名前は頷く。
「だけどそれは、なんというか……黒尾さんに申し訳ないです」
「なんで?」
「だって、普通に楽しく話をしていたいだけでも、黒尾さんは私より余計に、気を遣い続けないといけないってことですよね? 社会人とか学生とかはともかく、この先も黒尾さんが男の人で私が女ってところは変わりないわけですから」
 黒尾が男に生まれつき、名前が女に生まれついたこと。それは自分たちにはどうしようもないことだ。黒尾の言い分が正しいことは、名前にも分かる。茶飲み友達としてやっていくためには、最初から存在する彼我の差をならす努力は必要だ。
 だからこそ、当たり前のようにその負担を受け持とうという黒尾に対し、名前は申し訳なさを感じるのだ。感じたところで、何がどうなるというものでもないことをも分かったうえで。
 ぎゅっと唇を噛み締める。名前が浅い部分であれこれ考えている間にも、黒尾はもっと深い部分ですでに行動を起こしている。そのことを、名前はしみじみと思い知る。
 そのとき、ふいに名前の頭に重さがかかった。名前が視線を上げれば、隣を歩く黒尾が、あくまで遠慮がちに名前の頭に自らの掌をのせていた。
「黒尾さん、」
 こぼれるように呼んだ名前に、黒尾がふっと表情をやわらげた。
「思うんだけど、苗字さんの言い分な、あれ逆じゃない?」
「逆ですか」
「そう、逆。俺が苗字さんに気を遣うことを、苗字さんは申し訳なく思うんだろうけど、そうじゃなくて。俺がほんの少し気にしてるだけで、俺と苗字さんが普通に楽しく過ごせるなら、それでいいんじゃねーのかなと俺は思う。それに、そういうことを面倒だと思うくらいなら、俺は無理に苗字さんと仲良くしない」
 そう言って、黒尾はぽんぽんと二度、軽く名前の頭を叩く。その手つきは甘やかさや艶めいたものとは程遠い、さっぱりと清潔な触れ方だった。
 わだかまる胸の奥が、すっと清涼に澄むのが分かった。きっとこの人は、私が心を許しても正しく受け止めてくれる人だ。そう思ったら、途端に名前の気持ちが楽になった。
「苗字さん。そういや夕飯何がいいとかあった? なかったらそのへんのファミレスでもいい?」
「……今、ちょうど駅前のファミレスで夏野菜フェアが始まったばかりですよ」
「夏野菜? また渋いところを。苗字さんそれ食べたいの?」
「私は生姜焼きを食べますが」
「なんなんだよ」
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