058

 知らぬ間に、名前の顔がどんどん険しくなる。眉間にははっきり縦に線が入り、視線は自信のなさから来る棘をはらんでいた。
 吹く風の爽やかさも感じない。照りつける日のきらめきすら、目に入らない。そうして名前がひとり、自分の内にこもってむっつり考えこんでいると、
「苗字さん、なんか拗ねてる?」
「えっ!?」
 名前を気遣ってか沈黙していた黒尾がおもむろに、名前に向かって問いかけた。思いがけないその問いかけに、名前は目をぱちぱちと瞬かせる。
「私、拗ねてるつもりはなかったんですが」
 たしかに黙り込んではいたのだが、拗ねたりだとか怒ったりだとか、そういうたぐいの心の動きは自分では自覚していなかった。どちらかといえば、今後のことを考えて不安になっていたくらいだ。
 黒尾は名前の顔をつぶさに見つめる。まるで名前の表情のなかに、隠された何かを見つけ出そうとするようなその視線に、名前はわずかにたじろいだ。
 やがて黒尾は、ふーぅと、長く息を吐き出し言った。
「そう? じゃあまあ、俺の勘違いだったかな。けど、機嫌いい顔ではなかったぞ」
「すみません……気を付けます」
「気を付けなくていいけど、何に拗ねてんのか教えてくれると助かる」
「拗ねてないですってば」
「じゃあ、拗ねてないけど面白くもなかった、その理由」
「理由……」
 苦い笑顔で再度問いかけられ、名前は返答に窮した。
 名前には自分が拗ねていたという自覚はない。そもそもここまでの出来事の中で、名前が拗ねなければならないようなことは、ひとつだって存在しなかった。強いて言えば女子のファンがどうこうというくらいだが、それに対して色々と思うところがあったとしても、拗ねるような道理はない。
 一方で、黒尾の「面白くなかった」という表現には、どこかしっくりくるものがあった。子供じみた表現ではあるのだろうが、面白かったか面白くなかったかと聞かれれば、それは間違いなく面白くなかったはずなのだ。
 だが、何が面白くなかったのかまでは分からない。黒尾がやりたい仕事をして、充実した日々を過ごすことだろうか。けれどもそれは、名前にとって応援したいことではあっても、間違っても面白くないことではない。
 自分でも整理できていない心情を、黒尾に言葉で伝えることはできない。困ったように黙る名前に、黒尾はしばらく待ってから、わずかに表情をやわらげ尋ねた。
「恋人のふりしてもらったの、嫌だったかい」
 その言葉に、名前はちょっと悩んでから、ゆっくりと首を横に振った。
「……たしかにびっくりはしましたけど。でも、嫌ではなかったですよ。びっくりはしましたけど」
「悪かったって。けど、嫌じゃなかったなら何? また前のときみたいに焼きもちやいた?」
「ちょっと、言い方が悪いですよ」
 ずばりとものを言う黒尾を、名前はすかさずやんわり睨んだ。黒尾は平然と微笑んで、歩きながら名前の顔を覗き込む。
「妬いてくれてもいいんだけどって、俺、前にそう言わなかったっけ」
「言われたかもしれないですけど、でも、そうそう妬いたりしないです」
「ふうん、それは残念」
 さして残念でもなさそうに黒尾が笑った。今度は名前が、黒尾を見上げる番だった。先ほど黒尾が名前にしたように、黒尾の表情から何かを探り出そうと、名前はじっと目を凝らしてみる。じっと、じっと、穴が開くほどにじっと黒尾を見つめる。
 しばらくそうして見つめながら歩いていたが、しかし結局名前に分かったことはといえば、黒尾が人目を惹く容色をしているということくらいだった。そんなことは今更気付くまでもないことで、要するに何も分からなかったということでもある。
 とはいえ、こうしてとくと見つめる黒尾の表情に、名前の胸がときめいたのはたしかだった。
 正当派の美形というわけではないから、黒尾に対しイケメンという言葉を使うのは、どうもしっくり来ない気もする。それでも黒尾が人として、異性として魅力的に見えるのはたしかだった。表情のつくりかたや所作、雰囲気によるところも多分にあるのだろう。
 黒尾さんが動画に出ることで、黒尾さんのことを好きになる人は、きっとたくさんいるんだろうな……。
 冷静にそう思う一方で、本当の意味で黒尾の魅力にあてられているのは、こうして黒尾のそばにいる人間だけなのだろうとも思う。
 黒尾をより魅力的に見せている要素の多くは、画面ごしの動画よりも、こうして目の前にいる黒尾からこそ強く感じられるものだ。画面を隔てていない黒尾の隣にいるからこそ、名前は黒尾のことをどうしようもなく好きになる。画面越しの恋だったなら、今頃名前はこんなにも苦労していなかった。
 そこまで考えたとき、ふと、名前の心にわだかまっていたもやに、針を刺したような光が射しこんだ。
 画面越しにしか黒尾を知らないファンのことを、軽んじようというつもりはない。けれど、一年でも友人としてそばにいた自分のことも、軽んじる必要はない。黒尾から受け取った優しさは、画面越しの何万人という人間に、均等に配られるようなものではなかったはずだ。
 そう考えたら、ふっと胸が軽くなった気がした。靄が晴れ、気持ちも晴れる。思わず名前の頬がゆるんだ。こんな当たり前のことに、今更気付くとは。
「あれ、どうしたの。笑ってない?」
 目ざとい黒尾が名前の表情がゆるんだことに気付き、名前の顔を不思議そうに覗き込む。名前は頬をゆるめたままで、隣を歩く黒尾を見上げた。
「なんか、いろいろ考えてたら気持ちが楽になりました」
「え? 俺まだ何もいい感じのこと言ってないんだけど」
「いい感じのこと言おうと思っていたんですか?」
「そりゃあまあ、言えるときには言っておきたいよな」
 わざとらしく真面目くさった顔をする黒尾に、名前もふざけて澄ました顔をつくる。
「今からでもいい感じのこと、言ってくださっても大丈夫ですよ?」
「自力で気分上げられた人間に、後からいい感じのこと言うの? それ相当ださくない? 大丈夫?」
「黒尾さんならちょっとださくても大丈夫だと思いますよ」
「ださいのはださいんかい」
 視線の先には入退園口の門が見える。いつのまにか、先ほどまでふたりの間に漂っていたぎこちない空気も消え去っていた。自分が勝手に思い悩んだりしていたせいだという自覚があるから、雰囲気を持ち直したことに名前は胸を撫でおろす。
 手に持ったペットボトルの冷たさに手が濡れるのを感じながら、名前は先に行った研磨に思いを馳せた。ちょっと飲み物を買うだけの予定が、なんだかずいぶんと時間を食ってしまった。心配していないといいのだが、と考えたところで、研磨ならばきっと心配はしていないだろうなと思い直す。
 と、やおら黒尾が「苗字さん」と名前を呼んだ。
「なんですか?」
「今度さ、前に言ってたマグカップ買いに、一緒に出掛けてくんない?」
「マグカップって……、ああ、黒尾さんがうちに置くって言ってた?」
「そう。忘れないうちにさ」
 そういえば、そんな話もしていた。マグカップを買いに行こうというのは、黒尾の家に遊びに行ったときに、名前が贈ったマグカップをめぐって出た話題だ。あれから一か月半ほど経ったが、新生活で忙しくしているうちに名前はすっかり忘れていた。
 黒尾と出掛けることに抵抗はない。遠出ならば多少身構えるが、マグカップを探すくらいならば、それほど大がかりなことにもならないだろう。黒尾に好意を寄せる名前からすれば、むしろ大喜びで頷きたいくらいの誘いだ。
 だが、同時に懸念もある。今日のように、それほど観光客の多い場所でもないマイナーな行き先ですら、黒尾に声を掛けてくるファンはいたのだ。街中で買い物などしていたら、今日以上に話しかけられる可能性もある。いくら名前が気にするのをやめるといっても、黒尾に迷惑がかかることは極力避けたい。
 そんな名前の胸中を見透かしたように、
「心配?」
 と黒尾が尋ねる。何を、と言わないのは名前の気遣いだろう。その優しさを感じて、名前は素直に頷いた。
「また今日みたいにファンの人に声掛けられたらどうします?」
 上目遣いに黒尾を見上げて、名前は黒尾に尋ねる。だが黒尾は飄飄と笑って、
「その時はまた苗字さんに恋人のふりしてもらいたいね」
 深刻さの欠片もない声でそう嘯いた。
 黒尾がそういうつもりなら、名前がこれ以上心配するのも筋違いだろう。名前は胸にわいた懸念を、努めて腹の底に押し戻した。 
 そして笑顔を顔に貼り付けると、
「今度はネットとかにいろいろ書かれるかも。まとめ記事とか作られちゃって」
「『注目のバレーボール協会のイケメンの経歴まとめ! 出身高校は? 彼女は?』みたいな記事か。そんなの書かれたらさすがに困るな」
「困るんじゃないですか」
「まあな。いや、それよりイケメンのところつっこんでもらわないと、普通に恥ずかしい」
 そうして黒尾は、やや表情をあらためると、視線を前方に投げかけた。
「けど、俺は動画の仕事を研磨にオファーした時点で、表に出る覚悟はしてる。苗字さんに迷惑かかんなければ、それでいいんじゃないのかね」
 気負うことも、見栄を張ることもなく、黒尾は淡々とそう述べた。そのとき、風がふわりと吹きぬけて、名前の帽子をふわりと浮かせる。慌てて帽子をおさえようとしたが、荷物で両手がふさがっていた。
「おっと、あぶね」
 黒尾が気付いて、名前の頭を帽子の上から押さえた。頭の上に、帽子ごしの重みを与えられ、名前は顔を俯け視線を伏せる。
 帽子ごしでは黒尾の肌の温度など感じるはずもない。それなのに、名前の顔はゆるゆると熱を溜め始めていた。
 片手に鞄、片手で名前の帽子をおさえた黒尾は、機嫌がいいのそうでないのか、やはり淡々と言葉を続ける。
「まあ、そもそもそこまで俺が注目されることもないと思うんだけどな。今日はたまたま俺のこと知ってくれてる人に会ったけど、本来動画だってあくまでも研磨ありき、ゲストありきだし」
「分かんないですよ。黒尾さんかっこいいから」
「お、苗字さん俺のことかっこいいと思ってるんだ」
「前から黒尾さんのことは格好いいって言ってるじゃないですか」
「そうだけど、言われたら言われただけ嬉しいだろ」
 くしゃりと帽子の上から頭を撫でられた。親しさに裏打ちされたじゃれ方に、名前の胸がきゅうっと甘く、もどかしく痺れる。思えばこんなふうに黒尾の方から触れてくるのなんて、本当に久し振りのことなのだ。心が過剰に反応しても仕方ない。
 名前が記憶している限りでは、まだ出会って間もない頃に一度、黒尾に頭を撫でられたことがあったはずだ。しかしそれ以降は、たとえ触れることがあったとしても、肩を軽くたたいたりする程度が精々だった。事故のように思いがけず触れ合う機会はあっても、普段の黒尾は存外名前との距離をきちんととる。
 少しは距離が縮んでいるのだろうか。それとも、意識していないからこそ気軽にじゃれてくるのだろうか。
 頭上に重みを感じた今の名前には、顔を上げて黒尾の表情をたしかめる術はない。それにたとえ黒尾の表情を確認することができたとしても、どんな顔をしているのか知るのは、少し怖いような気もする。
 好きだから、今の距離を保っていたい。
 好きだから、もしも近づいていたのなら嬉しい。
 どっちつかずな心に惑い、期待しては予防線を張っている。
「で、マグカップ買いに行くのは付き合ってくれるかい」
 黒尾にふたたび問いかけられ、名前はゆっくりこくりと頷いた。考えるのは今でなくてもいい。どれだけ時間が残されているかは分からないが、今すぐ黒尾のそばにいられなくなるわけではないのだから。
「じゃあ、黒尾さんが土日休みの日に」
「オッケー、土日休み確認して連絡する」
 藤の花のにおいなどここまで届かないはずなのに、前を向いた名前の鼻先を、甘い蠱惑的なにおいが掠めたような気がした。
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