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 芸能人さながらの扱いを受ける黒尾を、名前は黙って眺める。
 名前の身の回りで押しも押されもせぬ有名人といえば、真っ先に頭に思い浮かぶのは研磨の顔だ。しかし研磨がなかなか外に出ないこともあり、名前は研磨が有名人らしい扱いを受けているところなど、ついぞ見たことがなかった。もちろん名前に見せていないだけなのだろうが、一番最初に「黒尾の幼馴染」として紹介されてしまったから、名前にとっては研磨はただの同い年の友達だ。
 だから知り合いがこうしてちやほやされているところを見るのは、これがはじめてのことだった。女子ふたりは黒尾しか目に入っていないのか、熱のこもった声で黒尾と研磨のファンぶりを伝えている。黒尾の顔を見ようと思うと勢い見上げる形になるから、そもそも名前が視界に入っていないということも十分ありえる。
 対する黒尾の笑顔はどこかぎこちない。動画に出演したというからには、こういう事態になることも、ある程度は黒尾の思惑通り――というようにはとても見えないが、とはいえぎこちなさは単にちやほやされ慣れていないだけとも考えられる。名前には如何とも判別がつかない。
 もしもそういう事情ならば、名前はおそらく、この場にいない方がいいのだろう。依然ぎこちなく笑う黒尾を見ながら、名前は半歩後ずさる。黒尾がどのような毛色の人気を得ているのか分からないが、一般的に異性から人気を得ようという場合には、特定の異性の影がない方が好ましいことは明白だ。
 黒尾さんに限って、自分をそういう売り方するとは思えないけど、まあ、念のため……。
 そう思いつつ、名前はさりげなくもう半歩後ずさった。
 今はフェードアウトして、彼女たちが去った頃にまた合流しよう。
 名前はそのまま、そっと黒尾から距離をとろうする。だが、名前が立ち去ろうとしたまさにその時。今の今まで黒尾に熱視線を送っていた女子のうちのひとりが、ふいに黒尾の顔から視線を下げた。
 下げた先にいるのは名前で、うっかり互いの視線が絡む。「あっ」と名前が声を上げるより、向こうがはっと息を呑む方が早かった。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。
「も、もしかしてそちらの女の人は協会さんの……?」
「えっ!?」
「あっ、そうですよね! オフのときに話しかけちゃってすみません……!」
「いや、待ってください……!」
 何か大いなる誤解を招いている気配を察知し、名前はおろおろと狼狽えた。オフのときに話しかけるべきではないというのは正しいにしても、それ以外はまったくの的外れだ。恋人ですか、とまで露骨に問われてはいないものの、そう思い込まれていることは彼女たちの反応から明白だった。
「ちっ――」
 違います。そうきっぱり否定しようと口を開きかけ、しかし名前は発しかけた言葉をぐっと飲み込んだ。部外者の名前が、迂闊に口を開くべきではないと気付いたからだ。
 こういうときの対応は、どう考えても黒尾の方がうまい。そもそも名前が何かを言うよりも、黒尾の口から否定してくれた方が彼女たちには響くはずだ。
 名前は窺うように黒尾を見上げた。ちょうど黒尾も名前に視線を向けたので、今度は黒尾と視線が絡む。気付かぬうちに不安げな表情をしてしまっていたのだろう。名前を見た黒尾はほんの一瞬、申し訳なさそうに眉を下げた。
 どうしてそんな顔をするのだろう。名前の胸に、小さな疑問がさっとかすめる。しかしそんな些少さしょうな違和感は、すぐに何処かへ吹き飛んでしまった。
 名前から視線を外した黒尾が、どういうわけか唐突に、ずいっと名前との距離を詰めたからだ。
「――っ!?」
 驚く名前をしり目に、黒尾はついさっきまでのぎこちなさをまるで感じさせない、極上の笑顔を顔に貼り付ける。そして、
「大丈夫だけど、一応はSNSとかには書かないように、よろしくお願いします」
 否とも応ともつかない煙にまくような言い方で、黒尾は女子たちに何やら漠然とした念を押した。隣で聞いていた名前は思わず、ぽかんと呆気に取られて黒尾を見る。
 事実を肯定してはいないが、さりとて否定もしていない。というより、これでは暗黙のうちに相手の勘違いを認めているも同然だ。
 案の定、女子ふたりは先ほどまでとは別の意味で目をきらめかせ、何度も大袈裟なまでに頷いた。
「もちろんです!」
「絶対に誰にも言いません!」
「これからも応援してますっ」
「お幸せに!」
 勘違いに勘違いを重ねた台詞を口々に言い残し、女子たちはきゃあきゃあ言いながらその場を小走りで去っていった。おそらく黒尾の極上スマイルと、やたらと意味深に響く台詞が彼女らの琴線に触れたのだろう。残念なことに、名前にもその気持ちは嫌というほど分かる。
 女子たちの背が完全に見えなくなったのを確認してから、名前は深々と溜息を吐いた。距離を詰められたときにはどきどきしたが、今はそれ以上に女子たちへのあの振る舞いへの戸惑いの方が大きい。黒尾に対しどのように抗議すべきか思案したが、なんとなく眉間に皺を寄せるくらいしか思い付かなかった。
 黒尾と名前、どちらからともなく歩き出す。来た道を引き返して歩いているはずなのに、先ほどまでとはまるで違う道を歩いているように感じられた。
 名前の眉間の皺を見て、黒尾が困ったように笑む。
「悪かったな、なんか急に巻き込むみたいになっちまって」
「それはいいんですけど、いえ、いいというか……。黒尾さんこそ、いいんですか? 多分あの人たち、いろいろ誤解してますよ……」
「まあ、別に大丈夫だろ。研磨と違って俺は一般人だし」
 そういうものだろうか。先ほどの女子たちの興奮ぶりを見れば、黒尾だって立派に有名人として扱われているように名前には見える。一般人というのは名前のような人間を指すのであって、公共の場で若い女子に騒がれる男性は一般人とは言い難いのではないか。
 しかし今はそんなことを問題にしている場合ではない。今問題なのは、黒尾のファンだという女子たちに、無用な誤解を与えてしまったことだ。
 当の黒尾は特に気にする様子もなく、けろりとした顔をしている。ファンに誤解を与えたことよりも、名前の眉間の皺を気にしているくらいだ。
 しばし、眉間を寄せた名前と困り顔の黒尾が、見つめ合う格好になった。途端に胸がざわつくが、自分から挑むように目を合わせた手前、引っ込みがつかない。名前は黒尾から視線を逸らせず、むっと唇を尖らせた。
 視線だけを絡めたまま、ふつと会話の糸が切れる。
 ややあって、先に口を開いたのは黒尾だった。困り顔をわずかに歪めた黒尾は、演技めかしく伸びをした。
「それにしても、あれだな。俺のこと彼氏って言えばって、さっき苗字さんに言ったばっかりなのに、俺のが先に苗字さんに恋人のふりさせちゃったな」
「……そう言えばそうですね。びっくりしました」
 実際には、名前はただ立っていたというだけで、特に何もしていない。だがファンの女子の勘違いを放置したという意味では、名前も黒尾の共犯だ。名前がそう正直に答えると、黒尾はばつが悪そうに首の裏をかいた。
「なんていうか、急に悪かったな」
「いえ、謝っていただくようなことでは」
「けど、ちょっとくらいはそれっぽい感じにした方がいいかなと思って。長引かれても困るだろ」
「……そうですね」
 頷きはしたものの、名前はけして、黒尾の言葉に納得したわけではなかった。だから自然と、口調も弱気になった。
 話を早めに切り上げたかった、という黒尾の言葉には納得できる。しかしだからといって、わざわざ名前と付き合っているふりをする必要はなかったはずだ。黒尾ならば話をうまく切り上げるすべなど、他にいくらでも思い付くだろう。
 だがそう指摘するだけの勇気が、名前にはなかった。指摘すれば、黒尾はきっと何かしらの返事をする。その返事がどういうものであったとしても、名前にとって喜ばしいものであるとは思えない。
 言葉が続かず、名前は黙りこくる。束の間、気まずい沈黙がふたりの間に落ちた。鳥のさえずりや木々のざわめきがやけに白々しく大きく響き、名前の気持ちを一層気詰まりにさせる。
 五月の風の爽やかさは、気詰まりな沈黙を吹き去るどころか、かえって明瞭に浮かび上がらせた。自分の方から、何か話を切り出したほうがいいだろうか。名前がそんなことを考えた矢先、今度もまた、黒尾が先に口を開いた。
「考えてたんだけど、研磨の変装ばっか気にしてないで、俺も変装とかした方がいい感じになってきてるのか……?」
 大真面目にピントのずれたことを言う黒尾に、名前は呆れた顔をしながらも、本心ではほっと安堵した。わざとピントはずれな話題を出したのは、黒尾なりに場の空気を和ませようとしているからだ。自分と黒尾が同じように気まずく思い、そして同じように空気を変えたいと思った。はなはだ単純だが、名前にはそのことが嬉しく思えた。
 それなのに、名前の心はまだ晴れない。
 無意識に視線を落とした先には、履き慣れたスニーカーのつま先がある。足の先に小石が転がっていることに気付き、つんと蹴とばし転がそうかと思ったが、躊躇ためらいののちに名前は石を無視した。気が晴れなくて小石を蹴とばすなど、いくら何でも子どもっぽすぎる行いのように思えたからだった。
「黒尾さんが有名人になっちゃったら、普通に一緒に遊びに行ったりできなくなりますね」
 冗談めかして笑ってみるが、思ったよりも気持ちは晴れてくれない。黒尾が名前に調子を合わせるように、
「そのときは、変装してお忍びだな」
 と笑い返してくる。
「こんなに身長大きくて目立つ人が、ちょっと変装したくらいで忍べるとは思えませんが」
「案外どうにかなるんじゃない? 研磨ほどの知名度があるわけでもないし」
 そうだろうか。むしろ長身で体格がいいぶん、中途半端な変装はかえって人目を惹くような気がする。だからといって変装をしないでいても、今日のように黒尾のファンに見つかってしまう。そうなると、そもそも研磨のように無闇に出歩かないというのが、もっとも手っ取り早いということになり、結果一緒に遊びに行くなどできっこないような気がしてくる。
 むろん、テレビに出ている芸能人のように黒尾の顔が売れているというわけではないのだろう。研磨のフォロワー数が世界中でも上位数パーセントという話は名前も知っているが、動画を視聴している人間のほとんどは当然ながら研磨のファンであり、黒尾のファンではない。そもそも研磨は顔を出さない動画も多い――というよりもそちらがメインなのだから、研磨の顔にすら興味ないという層だって相当いるはずだ。
 そう考えれば、黒尾の人気も一過性、あるいは局地的なものと言えなくもない。街中でファンに話しかけられるなんてことも、そうしばしば続くものではないのかもしれない。
 でも、もしもそうじゃなかったら?
 もしもこのまま、黒尾が遠い人になってしまったら。ふとそんな思考が脳裏をよぎり、すっと名前の胸を冷ました。
 今でこそ黒尾は名前の近くにいるが、それはたまたま黒尾が名前を面白がってくれているだけだ。社会人になってからは、去年までのような定期的なお茶会すら開けていない。何の約束もない関係は、多分名前が思っている以上に脆くて危うい。
 そもそも黒尾は、本職であるバレーボール協会の仕事だけでも十分すぎるほどに忙しい。そのうえ本腰を入れて研磨のチャンネルの動画というメディアで露出を始めたら、いよいよ忙しさに歯止めがかからなくなり、名前と遊ぶどころではなくなるだろうことは容易に想像できる。
 名前と黒尾は、黒尾と研磨のように深い絆でつながっているわけではない。たかだか一年の付き合いしかない名前が、仕事で充実している黒尾の生活の中に、果たして招き入れてもらえるだろうか。考えてみたところで、答えは分かり切っている。とてもではないがそんな自信は名前にはない。
 ぐるぐると終わりのない思考が名前の中でとぐろを巻いて、内側から名前を圧迫するようだった。ほんの十数分前までは、今この状況こそが幸福そのものなのだと思い込んでいたというのに、あっという間に高い所から突き落とされてしまったようだ。
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