056

 昼食を終え、しばらくぼんやりと過ごしたのち、日が傾く前に帰路に着こうということになった。気温は初夏さながらで寒さはないが、頭上の空にはうっすらと雲がかかりつつある。終日晴れの予報ではあったが、あまり長居はしないことにした。
 名前はレジャーシートを片付けて、荷物についた芝の草を払う。分担して荷物を持っているが、昼食以外はほとんど手ぶらのようなものなので、帰りの荷物はそれほど重たくない。
 ふと、鞄から水筒を取り出し喉を潤そうとしたところで、名前は自分の水筒の中身がからなことに気が付いた。
「すみません、水筒のお茶がなくなっちゃったので、自販機で買っていってもいいですか?」
 自販機はたしか、藤棚から芝生広場への順路に置かれていたはずだった。帰りは藤棚周辺の混雑を避けるため、人気ひとけの少ない道を通って出入口に向かうつもりだったので、自販機に寄るとなると一度自販機まで引き返し、それから帰ることになる。
 黒尾と研磨には先に車に戻っていてもらい、名前は後から自分も合流するつもりだった。だが名前と視線が合うと、黒尾がにっと口角を上げた。
「あ、じゃあ俺も行く。研磨は?」
「おれは先に戻ってる。荷物持っていく?」
「いや、大した量じゃないし自分のだけ持ってって」
 研磨が手にしていたからのランチボックスを車のキーと交換し、黒尾はひらりと研磨に手を振った。研磨はそのまま名前たちに背を向けると、とぼとぼとひとり出入口に向かって歩いて行く。背中を丸めて猫背な姿勢で去っていく研磨の後ろ姿に、名前は若干の申し訳なさを覚えた。
「孤爪くん疲れちゃったんですかね……」
 花見に行こうと言い出したのは黒尾だが、ほかにも誰か誘おうと強硬に主張したのは名前だ。ほかにも誰か、と言えば黒尾が研磨に声を掛けることは分かっていたから、実際には名前が研磨を誘ったも同然だ。
 研磨が普段、あまり家から出ない生活をしていることも知っている。ことさら花見に興味があるわけでもないだろう。付き合いで引っ張りだし、挙句疲れさせてしまったとなれば、名前としても罪悪感を覚えないわけではない。
 しょぼくれる名前に視線を落とし、黒尾は「大丈夫だろ」と軽い口調で答える。
「久し振りに朝から動いて日の下にいたから、多少は疲れてるだろうけどな。まあ、あいつだって鈍りつつあるとはいえ、基礎体力はそこそこあるはずだし、心配するほどでもないだろ」
 その口ぶりは名前を励ますための方便というわけでもなさそうで、名前はほっと安堵した。
「そうですよね。孤爪くんだって全国大会出場経験のあるスポーツマンですもんね」
 わずかに頬をゆるめると、名前は研磨の背から視線を剥がし、荷物を抱えて自販機に向け歩き始めた。黒尾が相槌を打ち、名前のすぐ隣に並ぶ。
「そういや研磨のやつ、体力落ちてきたからリングツィット買うって言ってたぞ」
「逆にゲーマーなのに今までやってなかったんですね」
「まあ、研磨が好きなタイプのゲームと違うし」
 研磨がひとり、リング状のコントローラーを握り運動にいそしむ姿を想像し、名前はふっと忍び笑いをこぼした。研磨のことだから、ゲームとなれば手を抜かずに本気で挑むことだろう。だからこそ、これまで手を出さなかったのかもしれないとも思う。
「リングツィットもいいですけど、黒尾さんがジムとかに誘ってあげたらいいんじゃないですか?」
「いやー、誘ったところで行かないだろ、あれは。リングツィットやるだけ偉い」
 話をしているうちに、視界の先に目的の自販機が見えた。その少し先には休憩所があり、女性ふたり連れの来園客が藤棚を眺めながらいこっている。
 そのときふと思い立ち、名前は黒尾にそうと気づかれぬよう黒尾の横顔を盗み見た。当然だが、黒尾は完全に気を抜いている。そのことを確認すると、名前は目線を自販機に固定し、息をつめ――
 黒尾が名前に視線を寄越すより先に、勢いよくそこから駆け出した。
 えっ、何、と背後で黒尾が声を発するのが聞こえる。急に走り出した名前に驚き、追いかけてきているのだろう。しかし自販機までそれほど距離はない。黒尾に追いつかれるより先に、名前は自販機まで辿り着いた。
 だが日頃、全力で走ることなどほとんどない名前だ。使い慣れない筋肉を使い、駆け出したはいいもののうまくブレーキを掛けることもできず、あわや自販機に突撃しかけた。すんでのところで自販機に腕をつく程度で済み、名前がほっとしたところで、黒尾が後ろから追いついてきた。
「急に走るからびっくりした。どうした? 大丈夫?」
「も、ちろん、大丈夫、です」
「大丈夫のわりには息切らしてるけどな」
 全力で走り肩で息をする名前と違い、同じ距離を走ったはずの黒尾は平然とした顔をしている。やはりこれが日頃の運動習慣の差か、と当然のことを考えながら、名前はすばやく鞄から財布を取り出した。
 自販機に千円札を一枚吸い込ませ、名前は黒尾に笑顔を向ける。
「そんなことより、黒尾さん、冷たいお茶でいいですか? コーヒーとかのがいいですか?」
「じゃあお茶で。え、それより、なんで今走ったの? そこの説明ないの?」
 黒尾の不審げな視線をいなし、名前はペットボトルのお茶を二本買う。うち一本を黒尾に手渡してから、ゆっくりと呼吸を整えた。
 胸の鼓動と呼吸が落ち着いてきた頃、名前はようやく黒尾の問いに答えた。
「だって、黒尾さんのことだから一緒に自販機まで来たら絶対、『小銭ねえな、苗字さんは何がいい?』って二人分しれっと買うじゃないですか」
「お、名推理」
「私も社会人になりましたから。これまで奢ってもらったぶんも含めて、ちょっとずつ返していくつもりです」
「気にしなくてもいいのに。苗字さんは真面目だな」
 呆れたように笑う黒尾を見て、名前は大きく頷いた。真面目かどうかはともかく、晴れて名前と黒尾は対等な立場になった。性差、年齢差はどうしようもないことだが、すくなくとも社会人と学生というもっとも大きな立場の差は解消されたということだ。
 むろん、社会人になったばかりの現状では、まだまだ本当の意味で黒尾と対等というわけにはいかない。だが、少しずつでも受け取ったものを返していきたい。それは名前がかねてより、思い続けていたことだった。可愛げがないと思われても、そこはどうしても譲れない。ことに金銭的な話は。
 黒尾の方でも、名前がそんなふうに考えていることには薄々勘づいていたのだろう。だから「真面目だな」の一言以外は特に何を言うこともなく、ただお茶のお礼を口にしただけだった。その言葉数の少なさが、名前の心には心地よい。
「さて、飲むもん買ったし、車戻るか」
「そうですね、孤爪くんが車内で暑がってるかも」
「いや、さすがにエアコンつけてるだろ。キー渡してるし」
 ペットボトルの飲み口のあたりを指の間に挟み、ぶらぶらと振り子のように振る黒尾の横に名前は肩を並べた。そのとき、ふと気づく。
 幸福って、多分、こういうことだ。
 季節外れの花見にいこうと誘われて、思うところはありつつも快諾して、そして名前は今ここにいる。研磨は先に車に戻ってしまったが、それでも誘えば一緒に出掛けてくれる。こういうことを幸福と呼ぶのだと、柄にもなく名前はしみじみと考えた。
 社会人になっても、こんなふうに仲良くしていくことができたら、それで私はいいのかもしれない――
 ややもすると、それは黒尾への気持ちを完全に殺すことでもある。実際、今だって名前は黒尾に思いを寄せつつも、そのことをまったく無視して振る舞っている。この先も今の関係が続くことを願うなら、やがては思いそのものを殺すことにもなるかもしれない。
 だが、一方で思う。たとえそうなったところで、一体何の問題があるだろう。
 黒尾と幼馴染の研磨ほどの距離にはなれなくても、このままでいられさえすれば、名前はそれで十分だ。それで十分だと納得するのが、一番幸せなのではないか。
 黒尾がペットボトルのキャップを開け、わずかに喉をそらしてお茶を飲む。上下する黒尾の喉ぼとけを名前は目に映し、次いでペットボトルを握る指の太さに目がいく。
 少し遅れて、そんなふうに自分の視線が動いたことにやっと気付いた。たちまち自分の底の浅さを目の当たりにした気分になって、何とも言えない苦い思いが名前の胸に広がる。
 これでいい、このままでいい。頭でそう考えれば考えるほど、無意識のうちに感覚は反対を向いてしまう。視覚が、嗅覚が、聴覚が、『友達』として気付くべきではない、黒尾の異性の部分を勝手に拾ってしまう。拾ってきたそれらの情報は、ときめきとなって後生大事に名前の中にしまいこまれてしまう。
 どうしようもない思考にとらわれて、名前の気分が下を向き始める。黒尾も何か考え事をしているのか、歩き始めてからはほとんど言葉を発していなかった。沈黙は気詰まりでこそないものの、会話がなければ名前はますます自分の中に沈んでいく。
 名前がそのままどんどんと、自分の思考の中に落ち込んでいきそうになった、そのとき。
 思索にとらわれかけていた名前を現実に引き戻したのは、若い女性のわずかにひそめた声だった。
「あの、もしかして『協会さん』ですか?」
 背後から掛けられた声に、はっとして顔を上げる。傍らの黒尾が足を止め、腰をひねって後ろを振り返っていた。名前もつられて背後を見る。
 名前と同じ齢か、少し若い女子大生くらいの女子がふたり、名前たちの後ろで頬を紅潮させ、じっと黒尾を見上げていた。
「やっぱり『協会さん』ですよねっ」
 きょうかいさん、という耳慣れぬ言葉に、名前は一瞬ぽかんとする。だがそれがすぐ『協会』にさんを付けて呼んでいる、すなわちバレーボール協会に勤めている黒尾への呼称なのだと思い至った。
 黒尾の勤め先を知っているということは、仕事関係の相手だろうか。しかし見上げた黒尾の表情からは、仕事相手に向けるような真摯さも、古い知り合いに見せるような隙のない親しみやすさも感じられない。
 名前は黒尾が仕事相手に向ける態度こそ知らないが、何度か黒尾が『猫目屋』で仕事を片付ける姿を見ている。だから仕事――バレーボールにまつわるものに対して、黒尾がどれほど真摯に対応するのか、名前もある程度知っているつもりだった。
 どういう仲の相手だろうか。名前が黒尾の顔を見上げて口をつぐんだままでいると、黒尾は薄く唇を開き、そしてにこりと笑顔をつくった。
「えーっと、もしかしてKODZUKENコヅケンの動画見てくれてる人かな?」
 黒尾の受け答えに、女子たちの頬がいっそう紅潮した。瞳はきらきら輝いて、あたかも憧れの芸能人を前にしたときのような、喜びと興奮がい交ぜになったような表情を、彼女たちは黒尾に向けている。
「そうです! いつも動画見てます」
「協会さんがゲストの回がめっちゃ好きで!」
「どうも。KODZUKENコヅケンにもよろしく伝えておきます」
「あっ、あとパエリア作る動画もめちゃくちゃ面白かったです」
「パエリア作る動画じゃなくて、舞台の宣伝の動画と言ってください」
「ていうか協会さん本当に大きいですね!」
 先ほど黒尾が街中で話しかけられることが増えたと話をしていたが、なるほどあれはこういうことを言っていたのだろう。目の前の光景に名前は驚きながらも、ひそかに得心した。
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