055

 たしかに縁故さんのお見合いお姉さんぶりには参っているのだが、現状ではあくまでこんな人がいるんだけどと紹介されているだけで、直接的な行動にまでは結びついていない。名前自身、害されたと感じれば相応の対応もするだろうが、害とまで言い切ることはできないような状況だった。
 それなのに嘘をついてまで断ろうというのは、いささかやり過ぎな気がした。男性を紹介しようとしてくるところ以外に縁故さんに困ったところはなく、名前は縁故さんともいい関係を築いていきたいと思っている。
 そんな心境をしどろもどろになりながら説明する名前の言葉を、黒尾は表情を引き締めて聞いていた。そして、
「苗字さんの気持ちも分からんでもないけども。その手のタイプには、そうでもしないとカップル成立するまで延々紹介され続けるぞ」
「それはたしかに……」
 黒尾の言うことも分かる。というより、想像できる。名前は顔をしかめて頭を悩ませた。
 現状、名前は縁故さんが飽きるのを待つという消極的な対策をとっている。だが縁故さんの押しの強さを考えれば、縁故さんが飽きるより先に、名前が音を上げる可能性も大いにある。
 名前には黒尾という意中の人物がいる。だから誰を紹介されたところで、交際に発展させる気はさらさらない。相手の性格や資質がどうという問題ではなく、ひとえに名前の問題だ。
 しかし誰かしらを紹介されれば、食事に行くくらいのことにはなるかもしれない。そんなふうに相手の男性に余計な時間を使わせるくらいならば、端から恋人がいると偽ってでも紹介を断る方がいいような気がしないでもない。
 嘘を吐くのも吐かないのも、どちらにも同じくらいの理があるように思える。なまじ縁故さんが良心から紹介しようとしているだけに、余計に気遣いが求められる。
 そうして名前が頭を悩ませていると、ふいに黒尾がぱんっと手を打った。思考の海から引き摺り戻され、名前ははたと黒尾を見上げた。
 その瞬間、名前に向けられた黒尾の瞳の意地悪な色に気が付いて、名前の喉がひっと鳴る。というより、近い。身長差でできる目の高さ分の距離はあるものの、黒尾が立っている場所はかぎりなく名前のすぐそばだ。
 名前がのんびり思索にふけっているうちに、名前が先ほど黒尾からとったわずかな距離は、とうに黒尾によって詰められていた。咄嗟に足を後ろに半歩引こうとした名前の肩に、黒尾がすかさず手を置き引き留める。
 甘い藤の花の香りに、寸時くらりと意識が眩む。
 ふらりと見上げた黒尾の顔には、何か企むような深い笑みが浮かんでいた。
「はい、じゃあそういうことなんでね。苗字さん、笑って」
 言うが早いか、黒尾が足を開いて腰をかがめ、名前の顔に顔を寄せる。えっ、と名前が声を上げたが、黒尾はただ笑っているばかりだ。戸惑う名前に取り合わず、名前たちから少し離れたところで藤の花を撮影していた研磨に、黒尾が「おーい」と声を飛ばす。
「研磨、ちょっと写真とってくんない」
「はーい」
 黒尾の呼びかけに応じて、研磨がスマホのレンズを名前と黒尾に向ける。そして名前が笑顔をつくるより早く、カシャ―とシャッター音が響いた。黒尾の気配がすっと名前のそばを離れていく。そこでようやく、名前は正気に戻った。
「えっ、待って、早い! 孤爪くん今もう写真撮った!?」
「撮ったよな。ん、研磨サンキュー」
 写真の確認のためか、研磨が差し出したスマホを黒尾が笑顔で受け取り答える。名前はただ口をはくはくさせて、呆然と黒尾を見上げるばかりだ。
 何故、今ここで黒尾とツーショットの写真を撮ることになったのか。せっかくの藤棚、写真を撮ろうとは名前だって思っていたが、想像していたのはこんな不意打ちのツーショットではなかった。研磨も入れて三人で、何となく和気藹々と楽しげな写真を撮るつもりだったのに。
「そういや前にもこうやって、苗字さんと不意打ち写真を撮ったことあったな。夏祭りのときだっけ」
 スマホを操作しながら、黒尾がふと思い出したように呟いた。しかし今の名前には、そんなふうに過去の話を懐かしむだけの余裕はない。黒尾とのツーショット写真が手に入ったのはラッキーだと言えなくもないが、それにしたって何から何まであっという間のことすぎて、いまひとつ何が起きたか分からない。そもそも、先ほどの会話の流れからどうしてツーショットを撮ろうということになるのか。
「いい感じだな。藤もちゃんと背景におさまってる。せっかくだし、研磨も一緒に写真撮っとく?」
「おれはいいよ。仕事用に必要なら撮るけど」
「いや、別にいいんじゃねえの。知らんけど。それ、俺たちに送っといて」
「言われなくてももう送った」
 名前の目のまえでさくさくと確認を済ませた黒尾は、一段落したところでようやく名前の方を振り向いた。唐突に視線を向けられて、名前は思わず肩を揺らす。警戒するような顔つきの名前に、黒尾が喉の奥でくっくと笑った。
「そんな顔しなくても。苗字さんのスマホにも、今研磨に撮ってもらった写真送ったから」
「はぁ」
「今度縁故さんに何か言われたら『彼氏できました』っつって、この写真見せてやれ」
「は、はい……」
 なるほど、そういう事情で写真を撮ったのか。黒尾の言葉に名前もやっと合点が言った。
 しかし、それならそれで先に事情を教えてくれればいいものを、と思わないわけではない。送られてきた写真を見れば、たしかに黒尾との距離は近いものの、身体のどこも触れてはいない。そもそも名前の顔に浮かんでいるのは、デート中の幸福そうな笑顔ではなく驚愕だ。これで「付き合っている」というのは、若干無理があるような気がする。
 夏祭りのときに不意打ちで撮った写真は、ちゃんと笑顔の写真を撮りなおしてもらった。そのときの写真は、今も大切に保存してある。しかし今はもう、あの時のように気さくに写真の撮りなおしを要求する気は起きなかった。
 スマホの画面の中で、淡い紫色の藤の花を背負ってぎこちなく肩を並べる自分と黒尾を、名前はじっと睨むように見つめた。撮りなおしを要求すれば、きっと黒尾も研磨も快く応じてくれるだろう。だが、この寄り添うような距離間に、もう一度自分から挑む気はまったく起きない。
 それにもう一度この距離になったところで、うまい写真が撮れるわけではないだろう。もう一度黒尾と肩を寄せ合った時、名前は自分がぎこちなくない笑顔を浮かべられるとは、到底思えなかった。

 ★

 一頻り藤の花を眺めた頃、大学生らしき集団が藤棚の方へと歩いてくるのが見えた。ちょうどいい頃合いだろうと、名前たちはそこで花見を切り上げ、移動することにした。
 昼食は黒尾の祖母と、研磨の母親が用意してくれている。お弁当は黒尾家から、食後のアップルパイは孤爪家からの提供だ。名前も何か用意しようかと言ったのだが、余らせても良くないからと事前に却下されていた。
 休憩所はほかの来園者でうまっていたので、芝生広場にレジャーシートを広げることにした。ちょうどよく枝ぶりのいい木の木陰を見つけ、そこに陣を張る。天気はよく行楽日和だが、藤棚やほかの花壇からは離れた芝生広場には、名前たちのほかに人影はない。研磨が変装をといても誰かに見られる心配はなさそうだった。
 三人で輪――というより三角形をつくるように座り、中心に弁当を広げた。黒尾家からはおにぎりや卵焼き、唐揚げといったオーソドックスなお弁当が差し入れられている。
「黒尾さんちのごはん久し振りだ……」
「そういや最近は夕飯のお裾分けとかしてなかったからな」
 黒尾が口の端についた米粒をとりながら言う。それどころか、ここ最近の名前は新生活の忙しさにかまけて、もとの習慣だった自炊すらほとんどできていない。久し振りの家庭の味に、名前はしみじみと幸福を噛み締める。
 家族連れでも来ているのか、吹く風に乗って何処かからこどものはしゃぐ声が聞こえる。園内の池を渡ってきた風はほどよく冷たい。
「こうやってしてると、小学生の頃の遠足とか思い出すわ」
 ふと黒尾が呟いた。アップルパイに手を伸ばしていた研磨が視線を上げ、「そう?」と首をひねる。
「たまにはこういうのも悪くねえなぁ」
 名前も同感だった。なんだかずいぶんと贅沢な休日の使い方のような気がする。四月以降、こんなにも気分がゆったりしたのははじめてだった。
「そういえば、孤爪くんは一緒に写真撮らなくてよかったの?」
 先ほどの藤棚でのことを思い出し、名前は研磨に視線を向ける。アップルパイを頬張った研磨は、無言でこっくりと頷き口の中のものを飲み込んだ。
「そんなに写真好きってわけでもないし、思い出に残すなら風景だけでいいかな」
「そうなんだ……」
 研磨がいいというのだからいいのだろうが、名前としては何となく残念な気分になった。黒尾は何ということもなく「研磨は昔からそうだよな」と言葉を挟んだ。
「写真嫌いってわけじゃないんだよな?」
「まあ、好きでも嫌いでもないかな。写真撮るから入れって言われたら入る」
「研磨んちはおじさんが写真撮りたがるから、別に昔の写真が少ないってわけでもないしな」
 なるほど、と名前は相槌を打つ。
「特に今は、どこからオフの写真が流出するか分かんないから、あんまり人と写真撮らないようにしてる。クロと苗字さんのこと信用してないわけじゃないけど」
「そういう事情もあるんだ」
「有名人は大変だねぇ」
 黒尾が茶化すような労わるような、何とも言えないコメントを掛ける。実際、大変だとは思っているのだろう。研磨がわずかに眉根を寄せた。
「そう言うクロだって、最近は少し顔が売れてきたんじゃないの」
「えっ、黒尾さんも有名人なんですか?」
 名前が驚き、黒尾を見た。黒尾が困ったように目を泳がせる。
「いやいや、全然そんなことないっての。本当にたまに声かけられるくらい」
「声を……!?」
 ふたたび驚き、名前は黒尾を凝視した。
 声を掛けられるというのは、見知らぬ相手に街中でということだろうか。日頃から小市民ぶりを遺憾なく発揮し、声を掛けられるのは駅までの道を聞かれる程度の名前にとっては、街中で自分を目的に声を掛けられるなど想像もできないことだ。
 たしかに黒尾さんはかっこいいし、身長も高いから人目を惹くけども……。
 先ほどの藤棚で、研磨よりもよほど注目を集めていた黒尾の姿を思い出す。そつのない身のこなしといい、黒尾に人の目が集まるのは名前にも十分すぎるほど分かる。
 だが、そういう意味では黒尾が目立つのは今に始まったことではない。街中で声を掛けられるというのも、ただ人目を惹くというだけにしては、いささか不自然だ。
 そんな名前の疑問を見透かしたかのように、黒尾が首の後ろをかきながら言う。
「ちょっと前から、研磨にバレー協会といろいろコラボ動画出してもらってんだよ。まだ本格的に動いてはいないけどな」
「クロはそこでMCみたいなことしてるんだよ。顔出しで」
 黒尾の声に若干のばつの悪さが滲んでいるのは、自分が注目されることにまだ慣れていないからだろうか。研磨は顔出しで活動しているといっても、それほど積極的に露出しているわけではない。投稿された動画を見ても、動画に映っているのが後ろ姿だけ、あるいはまったく映らないということも珍しくはない。
 しかしふたりの物言いを聞く限り、黒尾の方はもっとしっかり顔を出しているのかもしれない。いずれにせよ黒尾が研磨の動画に顔を出しているということ自体、名前にとってはまったく寝耳に水だった。
「全然知りませんでした……。孤爪くんの動画、結構ちゃんとチェックするようにしてたのに……」
「まあ、苗字さんも新生活で忙しかったんだろ」
「ていうか言ってくださいよ! 黒尾さんの晴れの舞台じゃないですか、投げ銭しますよ」
「目の前で弁当食べてる人間に投げ銭せんでも」
 ぐっと拳を握る名前に、黒尾が苦笑する。「投げ銭してもクロのポケットマネーにはならないしね」と研磨が横から言葉を添えた。となれば、個人的に何かお祝いをした方がいいのかもしれない。
 それにしても、動画とは。やっと興奮が落ち着いてきた名前は、改めて黒尾の姿をまじまじと見つめた。今日は休日で、かつ屋外でのんびり過ごす予定だったため、目の前の黒尾はいたってラフな出で立ちだ。上背があり手足も長いので、何を着ても様になる。動画になれば狭い画面の中とはいえ、その華やかさは遺憾なく発揮されることだろう。
「黒尾さん、動画映えしそうですね……」
 黒尾をじっと見つめる名前の視線にも動じず、黒尾は眉を下げて笑っている。
「映えるかは分かんねえけど、世界のKODZUKENコヅケンのフォロワー数考えたら、まあきちっとした恰好しなきゃとは思うよな。俺も一応、職場の代表で出てるとも言えるわけだし」
「帰ったら絶対に動画チェックしますね」
「知り合いに見られるの普通に恥ずかしいな。見てもらえんのはありがたいけど、感想とか絶対言わないで」
「クロだっておれの動画見ていろいろ言うじゃん」
「言うのはよくても言われるのは恥ずかしい」
- ナノ -