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「それで、その同期の子は私と違って縁故採用に一切異論を唱えない潔い子なのですが、同じ縁故採用同士、『チーム・エンコ』として私らやっていこうね、みたいなことに……」
「どうでもいいけど、『チーム・エンコ』ってすごく物騒なチーム名だね」
 後部座席から研磨がぼそりと言葉を挟む。「指詰めか」と黒尾が口の端を歪めて笑った。エンコといえば、ヤクザのあいだで指を示す隠語だ。ヤクザものを題材にしたゲームにも造詣の深い研磨は、音だけで『エンコ』と聞くとどうしても縁故より指の方を思い出すらしい。言われてみればたしかに、と名前は苦笑したが、すぐにはっとした顔になった。
「いえ、というかそもそも私は縁故採用では……」
「けど、縁故採用の受け皿部署に配属されてんだろ」
 間髪を容れずに黒尾に言われ、名前は渋面じゅうめんをつくったのち、ややあって項垂れた。
「まあ、縁故枠なのは事実かもしれませんが……」
「ついに認めたね」
「認めたな」
「認めざるをえませんよ。『チーム・エンコ』なんてチームに加入させられた日には……」
 正規の採用試験を受けているから、名前にはあくまでも縁故採用という意識はない。だが、そうは言っても縁故採用の受け皿部署に配属され、常務の姪とあやしげなチームを組織までしているのだから、これはもうどこからどう見ても縁故採用なのだった。少なくとも、社内の人間はほぼ全員名前を縁故採用だと思っているに違いない。
 名前は長い溜息を吐く。周囲から縁故採用だと思われることも悩ましいが、これは今後の自分の働き次第でどうとでも評価を変えられる。今名前が頭を悩ませているのは、それとはまた別の問題だった。
「その常務の姪の同期……ひとまず『縁故さん』と呼びますが」
「あだ名の付け方が直球過ぎる」
「縁故さんお見合いお姉さんなんですよね」
 言葉にすると、脱力してしまう。肩を落とす名前を見て、黒尾と研磨がひそかにバックミラーごしに視線を合わせた。
「お見合いお姉さんっていうのは?」
 ステアリングを切りながら黒尾が問う。料金所を通過し、車は一般道に戻る。
「要するに、自分のまわりにいるフリーの人間に、片っ端から良さそうな相手を斡旋してキューピッドになることを趣味としているということです」
「とんでもないね」
「そうなんですよね」
 本気で迷惑そうに言う研磨に、名前は深々首肯しゅこうした。
 大学生活の四年間、名前には異性との出会いどころか同性との深い交流すらほとんどなかった。そんな話をうっすらながら縁故さんにしてしまったのが、名前の最大のあやまちだ。自分では特にどうとも思っていない寂しい大学生活は、縁故さんのキューピッド魂に火をつけてしまった。
 以来、名前は休憩時間のたびに縁故さん一押し男性を紹介され続けている。幸いまだ連絡先を交換したり本格的な紹介には至っていないが、そうなるのも時間の問題かもしれない。
「じゃあ苗字さんは今、縁故お見合いお姉さんの的にされてるんだ」
「間に合ってます大丈夫ですって言っても、聞いてもらえなくて……縁故さん、押しが強いんですよ」
 そう言ってダメ押しのように溜息を吐き出したところで、名前は車内の空気が微妙にぎこちなくなっていることに気が付いた。
 しまった、久し振りに会って遊びに行くところなのに、いきなりこんな愚痴めいた話をしちゃったせいで、空気が悪くなってしまった……。
 己の失態に思い至り、さっと血の気が引いた。
 運転席の黒尾の口許はゆるやかに微笑んでいるものの、フロントガラスに向ける瞳は笑っていない。それが運転中の真剣なまなざしなのか、それとも名前の話に対しひややかな気分になっているのかは、横顔だけでは判別できないが、ともかく、この話をこれ以上続けるのはやめた方がよさそうだった。
「まあ、こんな話はどうでもいいんですけども。そのうち縁故さんも飽きてくれるというか、こっちにその気がないのも伝わると思うので大丈夫です。それより、そろそろ目的地に到着するんじゃないですか?」
 無理やり元気のいい声を出して、名前はカーナビを確認した。目的地はすぐそこで、もう数分もかからないところまでやってきている。
 ふと車外の景色に視線を転じれば、これから行く予定の庭園まであと一キロという看板が出ていた。都内なので庭園といっても周辺まで緑ゆたかということはない。むしろ音駒のあたりの方が、ずっと緑を多く残している。
「お昼ご飯は、外で食べるんですよね? 私レジャーシート持ってきましたよ」
 気分を切り替え名前が明るい声で言うと、黒尾がわずかに目元を和らげた。
「藤棚のそばにベンチとかある休憩所があるはずだけど、そこが埋まってたらどっかでレジャーシート広げるか」
「そうしましょう」
「たしか敷地の中に芝生広場があるんだよな。今日天気よくてよかったな」
 黒尾の言うとおり、窓から見える空は雲ひとつない快晴だ。今年のゴールデンウィークは連日の晴れ続きだったおかげで、観光地はどこも大層な人の入りだったらしい。名前が今朝見ていたワイドショーでそんな話題が出ていた。
「今日は特に暑すぎないですしね。そうだ。孤爪くん、帽子持ってきた?」
 首を巡らせ後部座席を覗き、名前は研磨に尋ねる。一応あまり知られていない行き先を選んだが、それでも何処でファンに遭遇するか分からない。研磨は手元のスマホから視線を上げ、「持ってきた」と短く答えて頷いた。
「サングラスとマスクは?」
「持ってきたよ。人がすごかったら使おうと思ってるけど、でも案外バレないんじゃない?」
 楽観的なのか、それとも自分の知名度をその程度だと冷静に評価しているのか、はたまた本当にバレないものだと思っているのか、研磨が気の抜けた声で言う。
「たしかにな。そもそも研磨……というか世界のKODZUKENコヅケンが太陽の下でピクニックしてるって、想像つかなさすぎて逆にバレなさそうだ」
「それを言ったら全国大会出場経験のあるバレー選手ってところから、だいぶギャップなんじゃないですか?」
「実際の経歴をギャップって言われてもね」
 そんな話をしているうちに、ナビが目的地に到着したことを告げる。付近のコインパーキングに車を駐車して、三人は荷物を手に庭園に向かった。

 一歩車を降りると、容赦ない皐月の陽光が名前のつむじに照りつけた。鞄に入れていた帽子をかぶり、荷物を抱えなおす。周辺にはビルが立ち並び都会然としているが、さすがに庭園のすぐそばということもあり、吹く風には若葉のにおいが含まれている。
「極上、都会のオアシス……」
 名前が呟くと、
「マンション広告のポエムか」
 黒尾がすぐに突っ込みを入れてくれる。痒い所に手の届く突っ込みは心地よく、恋愛うんぬんを差し引いても、やはり黒尾と一緒にいるのは楽しいのだということを改めて実感する。
「というか苗字さんの実家って、たしか結構山深いところだろ。東京で暮らしてて、自然が恋しくなったりしないのかい」
「まったくないですね。帰ればそれなりに落ち着くなーと思いますけど。便利に暮らせる方が居心地いいです」
「そんなもんだよね」
「ね」
 一人暮らし組の名前と研磨が頷きあうのを、黒尾が「そういうもんか」と眺めた。
 入園料を支払い、庭園のなかに入る。入ってすぐに目当ての藤棚があり、その辺りには観光客らしき集団が、たがいに距離をとって藤棚を眺めている。
「マスクくらいしといた方がいいんでない」
 黒尾のすすめで、研磨がマスクで顔を覆う。晴天の下、観光客の多くが帽子をかぶっていることもあり、研磨に注目する人物はひとりもいない。どちらかといえばずば抜けて身長の高い黒尾の方が注目を集めており、なるほど孤爪くんはこうやって存在感を消してきたのか、と名前はひとり納得する。
 藤棚はそれほど大がかりなものではなかったが、満開の藤の花がブドウの房のように隙間なく垂れさがる様は圧巻の一言だ。黒尾の身長でもぎりぎり頭がぶつからない高さまで伸びた花房は、甘いかおりを周囲に振りまいている。
「きれいですねぇ」
「桜は見られなかったけど、これはこれでいいな」
 声につられて藤の花から黒尾に視線を移す。最前までしみじみと藤の花を観賞していた黒尾が、今は名前に向けてにやりと笑いかけていた。
 淡い紫の花に囲まれた黒尾は、元からの人目を惹く容姿を、幻想的な雰囲気でいっそう際立たせている。そんな黒尾を見つめているうち、甘いかおりに誘われて、ついつい名前の思考のたががゆるんだ。
 かっこいいなぁ、好きだなぁ。
 そんな思いが胸にわく。だが浮ついていることを自覚して、すぐに名前は頭を振った。物理的に思考を追い払うと、黒尾が「虫でもいた?」と訝しげな顔で寄ってくる。名前は笑顔を取り繕って、「花のにおいが濃いですからね」とそれらしい返事で誤魔化した。
 先にいた観光客の集団が移動して、藤棚を眺めているのは名前たち三人だけになった。これほど見事な藤棚なのにさほど観光客がいないのは、ひとえに知名度が低いためだろう。もしもこれで研磨がSNSに写真を投稿でもすれば、一躍人気スポットになるに違いない。
 そんなことを考えながら、名前が藤の花をスマホで写真におさめていると、
「さっきの話だけど――」
 何時の間に距離を詰めたのか、名前のすぐそばに立った黒尾が名前に言葉を投げかけた。その声が思っていたよりずいぶん近くから聞こえたものだから、名前はひゃっと驚いて声を上げる。目を見開いて声の方を向けば、名前のすぐ斜め後ろに立った黒尾が、涼しい顔で腰をかがめて、名前のスマホの画面を覗き込んでいた。
「お。いい感じで撮れてるやつ、あとで俺にも送ってよ」
「なっ、なにっ」
「え?」
「何ですかっ、急に!」
 どきどきどころか、心臓をばくばくと激しく高鳴らせ、上擦った声で、名前は黒尾に噛みついた。
 黒尾との距離が近いのは今に始まったことではないが、精神的な距離の近さはともかく、物理的には案外しっかり距離をとっている。だからこそ、こうして急に近づかれると、どうしても意識してしまうのだ。黒尾の気配をすぐそばに感じてしまえば、連鎖的に胸に抱きとめられたときのことまで思い出す。
 たたらを踏むように、名前は黒尾から数歩距離をとった。そんな名前を何食わぬ顔で眺め、黒尾は会話を続ける。
「いや、苗字さん写真撮るのうまいなーと思って」
「だからって急に後ろに立たれたらびっくりするじゃないですか。それにさっきのって、」
「ああ、さっきの話っていうのは車の中で話してたやつだけど」
 狼狽える名前に構わず、黒尾は平然と言った。
「いっそ、彼氏がいますって言っちまえばいいんじゃねえの?」
「え……?」
 何の話か分からずに、名前は一瞬、どきどきしていたことも忘れてぽかんと黒尾を見つめた。黒尾が呆れたようにわずかに眉根を寄せる。
「だから、お見合いお姉さんに紹介されまくって困るって話。さっき、そういう話してただろ。苗字さんが自分で、そう言ったんじゃなかった?」
「えっ、あ、ああ……そういえば、そんな話もしましたね……」
「おいおい。しっかりしてくださいよ」
 いよいよ呆れた顔を黒尾に向けられて、名前はしゅんと肩を落とした。もちろん名前とて、車内での会話の内容を忘れていたわけではない。というよりむしろ、その話題ならばよく記憶に残っていた。何せ車内の空気をおかしくしてしまい、慌てて自分で畳んだ話題なのだ。
 そんな話題をまさか、黒尾がここまで引っ張るとは思わなかった。さっきの話、なんて漠然とした言葉で、わざわざ畳んだ話を蒸し返されるなど誰も思わない。だから名前は咄嗟に反応できなかったわけで、けしてどきどきしすぎて頭の回転が鈍っていただとか、そういうわけではない――ないはずだ。
 それはともかく。
「ええー……、でも、それは事実ではないじゃないですか」
「ん、まあそれはそうだな」
「いくら困っているからといって、のっぴきならない状態でもないのに、そんな嘘を吐くのはちょっと……」
 黒尾の提案に、名前は歯切れの悪い返事をした。
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