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 花は桜というものの、慌ただしく新生活を送っている間にあっという間に桜は散って、花見シーズンも過ぎてしまった。名前は花見に行く約束を黒尾と年明けからしていたのだが、三月に入ってから知らされた新人研修の準備と、入社後の研修が思った以上に忙しく、そのせいですっかり予定が流れてしまった。
 取り立てて桜を見に行きたかったわけではないものの、上京以来イベントごとにとんと縁のなかった名前には、花見に誘われること自体数年ぶりのことだった。それも、目下片思いの相手である黒尾との約束だ。是が非でも実現させたかった約束なだけに、落ち込みもひとしおだった。
 その落ち込みぶりは、名前自身どうかと思うほどで、ちょうどホワイトデーのあたりに黒尾から送られてきた早咲きの桜の写真を、名前はしばらくの間スマホのホーム画面にしていたほどだ。スマホを見るたび、そうして花見に行けなかった心を慰める。街を歩けば案外どこでも桜は見かけるが、黒尾が見た、そして名前に共有しようとしてくれたというその二点だけでも、画像の桜は本物の桜に勝る。

 花見に行けなかった代わりに、桜以外の花を見に行こう。

 名前のスマホに、黒尾からそんな連絡があったのは、四月の中頃のことだった。もともとバレンタインデーの後くらいから、どこかに出掛けたいという漠然とした話題を黒尾はしばしば持ち出していた。それを名前は新人研修の忙しさなど、なんだかんだと理由をつけ、のらりくらり、ずるずると延期にしていたのだった。
 だが、黒尾が研磨も誘って三人でと言い出したので、それならばと名前も了承した。ちょうど半月もすれば、春の長期連休に突入する。前半は宮城の実家に帰省する予定だが、五月の頭には東京に戻ってくるつもりだった。
 忙しくしているという話だった研磨も、ひとまずは四月いっぱいで仕事に区切りがつくらしい。五月の頭で予定を合わせ、久し振りに三人で出掛けることになった。

 長期連休も折り返した、五月の初日。先に合流した黒尾と研磨が、昼過ぎに名前を迎えに来た。
 行き先は都内のとある庭園。園内の藤棚が、ちょうどこの時期見ごろを迎えているらしい。
 藤棚が見事な観光地は都内にも何箇所かある。その中から黒尾が探し出してきたこの庭園は、まだそれほど知られていない穴場中の穴場だった。ネットで顔を出して活動している研磨の知名度に配慮した行き先でもある。
「こんにちは。今日は車出していただいて、ありがとうございます」
 運転席の窓を開けた黒尾に、車の外から声を掛ける。ホワイトデーぶりに会う黒尾は、にっと笑って手を振って見せた。
「後ろ、研磨が乗ってるから、苗字さんは助手席乗ってくれる?」
「了解です」
 ぐるりと回って助手席のドアを開ける。乗り込みがてらに後部座席をのぞくと、手元のスマホから顔をあげた研磨と視線がぶつかった。研磨が頭を揺らす程度に、軽く頭を下げる。研磨と会うのはクリスマス以来なので、かれこれ半年ぶりだった。
「孤爪くんも久し振り。こんにちは、お邪魔します」
「はーい」
「シートベルト締めたな? じゃあ出発」
 名前が支度を整えたのを確認してから、黒尾がゆっくりと車を発進させる。顔を前に向けると、フロントガラスごしの街路樹の新緑が目にまぶしい。絶好の行楽日和だった。

 目的地までは下道で一時間半ほどかかるということで、高速道路を利用することになった。さっさと高速に乗ってしまうと、景色はすぐに単調になる。研磨の座る後部座席に置かれたバスケットから、食欲を刺激するにおいが漂い出て車内に充満していた。
 車載スピーカーからは名前も聴いたことのある洋楽が流れている。研磨が好きな映画の主題歌プレイリストなのだと黒尾が教えてくれた。
 その研磨は、靴を脱いで後部座席で体育座りになって、スマホで何やら熱中している。後部座席はスモークガラスになっており、そうしていると薄暗い部屋で閉じこもって遊んでいる子供のようにも見えた。
 この車の本来の所有者は研磨なのだから、研磨とて運転できないというわけではないのだろう。だがごく当たり前に黒尾にハンドルを任せているあたりに、黒尾と研磨の関係が透けて見える気がする。
「孤爪くんが後ろなのは、あれですか? 芸能人的配慮というか、VIP的待遇?」
 マネージャーの送迎などでは、タレントは後部座席に座るものだと聞いたことがある。研磨は人気の配信者なのだから、それなりに顔も売れているだろう。積極的に露出しているわけではないが、自分の動画内ではしばしば顔を出している。見る人が見れば研磨だと特定することはできるはずだ。
 名前が尋ねると、スマホに熱中する研磨に代わって黒尾が、
「いや、後ろの方が気楽だからだろ」
 と苦笑まじりに答えた。
「気楽?」
「おれだって、さすがに人に運転任せて、助手席でゲームやらないよ」
 今度は後部座席から研磨のぼそぼそとした声が飛んでくる。黒尾が前を向いたままでにやりと笑った。
「そういうこと。苗字さんに俺の話し相手任せて、自分は後ろでのんびりしたいんだろ」
「……よく言う」
 眉根を寄せてぼそりと呟く研磨に、名前は首を傾げた。黒尾はやはり苦笑していたが、どうやらこの座席配置については黒尾と研磨の間に、名前の知らないなにがしかの事情がありそうだということだけは、名前もうっすら理解した。
 その事情に関係あるのかは不明だが、黒尾は「そういえば」と露骨に話題をすりかえた。
「苗字さんに会うのもなんか結構、久しぶりだな」
 黒尾に言われ、名前も頷く。
「そうですね。『猫目屋』にはちょこちょこ顔を出してるんですけど」
「え、そうなの」
「あ、でも私が行くのは大抵土日なので」
 もともと黒尾が『猫目屋』に立ち寄るのは、圧倒的に平日が多い。休日に顔を出さないということもなかったが、平日に仕事を持ち込んで片付けていることの方が多かった。
「俺も今年は去年より土日休みが増えそうなんだけど、それはもう少し後の話だな」
 そうなれば、もう少し顔を合わせることも増えるのだろうか。そう考え、期待してしまいそうになった心に、名前は慌てて歯止めをかけた。
 いずれにせよ名前の新人研修が終わればもう少し余裕も出るのだろうが、あまり会いたいとばかり思うのもよくない。ホワイトデーに黒尾の家にあがってからというもの、名前はどうにも自分が欲深くなっているような気がしてならなかった。
 ホワイトデーのことを考えると、どうしても黒尾の胸に抱きとめられてしまった一件のことを思い出してしまう。だから名前は、ホワイトデーの日のことについては、あれ以来努めて考えないようにしていた。
 それでも、こうして黒尾と顔を合わせてしまえば、否が応でもあの日のことが頭にちらつく。自分を抱きとめた黒尾のしっかりとした胸や、名前の手を掴んだ手のひらの感触。ふっと香ったにおいまで、自分でもおそろしくなるほどに全部はっきり覚えている。
 黒尾があまりにも平然としているから、名前もどうにか平静を保てているだけ。実際のところは、今日だって顔を合わせるのにこれ以上ないほど緊張した。こればかりは生々しい感情すぎて、いとこの矢巾や赤葦にも相談できずにいたほどなのだ。
 名前はちらりと横目で黒尾を見た。本当に、いつもと何も変わらない。後ろに研磨が乗っていなかったとしても、黒尾はきっとこんな感じだったのだろう。そんな気持ちに、内心すこしだけむくれてしまう。今日までの間に遣り取りしたメッセージからも、ぎこちなさは微塵も感じ取れなかった。
 そのことを、嬉しく思うべきだということは分かっている。変わらないでいてくれることは名前にとってありがたいことで、どうかこれからもそのままであり続けていてほしいと思うべきなのだ。しかし心のどこかで、その変わらなさをもどかしく思っている自分がいる。
 黒尾への思いを自覚したときには、そんなことは考えもしなかった。
 自分の変化に、ほかならぬ名前自身がもっとも困惑している。
 何も考えないでいると、ついつい黒尾の横顔ばかり眺めてしまう視線を無理に引きはがすように、名前は視線を車窓の風景へと転じた。しかし窓の外には延々防音壁が続くばかりで、これといって目新しいことも目を楽しませる風景もない。
 殺風景で無機質な防音壁を見ていると、心は和むどころかどんどんざわつくばかりだ。車載のナビには到着まであと三十分と表示されている。
 いっそ、しりとりでもして気を紛らわせようか。そんな益体のないことを名前が考えていると、
「そうそう、苗字さん。会社に友達はできたのかい」
 ふいに運転席から声が飛んできた。名前はまた黒尾に視線の先を戻す。
 話を振ってきた黒尾は、揶揄い半分なのか楽しげな表情を浮かべている。対照的に話を振られた名前は、ふっと瞳を翳らせた。
 運転中の黒尾には名前の表情を確認することはかなわない。だが、一向に返事をしない名前の放つ沈黙から、何かしら察することはあったのだろう。
「おや、その沈黙は」
 茶化すような物言いで、名前の様子をうかがった。この場合は、揶揄うわけではないのだろう。茶化すような軽い物言いの方が、名前に友達ができていなかった場合空気を重くせずに済むと踏んだに違いない。
 しかし、名前は深々と溜息を吐いて、
「それがなんと、できたんですよ……」
 呻くようにそう答えた。えっ、と黒尾が声を上げる。
「無理そうだって言ってたのに。よかったな」
「……そのわりには顔が暗いけど」
 後部座席の研磨が、背を伸ばしバックミラーをのぞく。名前とミラーごしに視線がぶつかると、研磨はふたたび背を丸めて視線を外した。運転中で名前の表情を窺い知れない黒尾に代わって、名前の様子を気遣ったのだろう。
 言葉がなくても、黒尾と研磨の意思の疎通は完璧だ。思わずふっと表情をほころばせ、名前は「実は」と切り出した。
「ゴールデンウイーク前に配属が決まったんですけど」
「おお」
「希望どおりの配属にならなかったとか」
「いえ、そんなことはない……というか、もともと私は秘書課勤務になるだろうって聞いていて、実際秘書課に配属されたので、特に驚くような配属ではなかったです」
「そういうのって、事前に知らされてるもんなの?」
「私の場合は、ほら、あの、私に就職の口利きというか、今の会社を紹介してくれた親戚がいるので。その人から、まあそうなるだろうねと聞いてました。というより、秘書課勤務になるだろうと聞いたうえで、採用試験を受けたと言った方が正確ですね」
 いつもならば、縁故採用の件についてお約束として黒尾が茶化してくるところだが、今日はそうした茶々はなかった。ひとまずは話を一通り聞こうということなのだろう。そう判断し、名前は続けた。
「そういうわけで、配属自体は取り立てて如何ということもなかったんですが……。ただ、秘書課には今年、私ともうひとり女性の新入社員がおりまして」
「その同期と友達になったの?」
「そうなんですよ」
 研磨の言葉に、名前は頷いた。同じ部署、同性の同期入社。友人とまでは言わずとも、親しくしておいた方がいい相手であるのはたしかだ。
「性格が合わない?」
 隣から尋ねてくる黒尾に、今度は首を横に振った。
「いえ、そんなことは。とても素敵な女性で、なんというか、パワーに満ちているので私も見習うべきところが多々あるんですけど」
 ふう、と溜息ともつかない吐息をひとつ吐き出す。心の表面のざらついたものをさりげなく整えてから、名前は答えた。
「その同期、うちの会社の常務の姪ごさんなんですよね」
「ネタじゃない本気の縁故!」
 黒尾の声に、名前は今度こそはっきりと、疲労の滲んだ溜息を吐いた。
「いや、本当にそうなんですよ。社外のアドバイザーの縁戚なんていうふわっとした存在の私よりも、かなり強めというかガチめというか、マジもんの縁故採用で入社したそうで……。というかよくよく聞いてみたところ、秘書課自体がそもそも縁故採用の受け皿部署らしいんですよね」
 溜息を連発しながら、名前は勤め先の事情について、黒尾と研磨に簡単に説明した。
 名前がこの春から努めている企業は、企業としての歴史がまだ浅い。そもそも企業として発足したのが学生時代の友人数名からのスタートなので、社員のほとんどは古い社員の誰かしらからの紹介という、縁故やスカウトが横行した組織だった。
 その中でも、能力を買われてスカウトされてきた人材ではない、文字通り縁故だけを理由に採用された人材がひとまず送り込まれるのが秘書課だ。小さな会社ゆえ、雑務のような仕事までまとめて秘書課に投げられるので、秘書課はたいてい人手を求めている。とどのつまり、秘書課とは縁故採用で現場に出しづらい、扱いの面倒な人材を送り込むのにうってつけの部署なのだった。
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