「でもまだ、絶対に付き合えるって確証はないわけだろ。『好きだけど付き合うのは無理』とか、苗字さんならそういうことを言い出さないとも限らないからな」
たしかに、名前ならば言いそうなことではある。そう納得する一方で、研磨の胸には、そこまで確度を高めないとだめなのか、と黒尾に呆れる気持ちも多少湧いた。今の状況で確証がどうこう言っているようならば、世間のほとんどの人間は告白なんかできないのではないだろうか。
そんなことを考えて、ふと研磨は思い至る。
いや、そのくらい苗字さんのことを大事にしているってことか。
絶対に付き合えないのであれば、余計な手出しをしない方がいい。恋人になることができないのなら、今の友人関係がもっとも最善の状態だ。少なくとも名前にとってはそうなのだろう。黒尾にとっては、生殺しも甚だしいのだろうが。
それでも、その生殺し状態を甘んじて受け入れると黒尾は言っている。確度を高めるまではというのは、畢竟そういうことなのだろう。
「そこまでして付き合いたい?」
純粋な疑問で研磨は問うた。黒尾は鷹揚に頷いた。
「そりゃあ、そこまでして付き合いたいだろ。けど、そこまでして付き合いたくても我慢が利くから、こうやって『待て』してるんでしょうが」
「ふふ、『待て』してるんだ」
「まあな。大将とかさ、あ、覚えてる? 俺らの代の、戸美の主将の大将。……主将の大将って、ややこしいやつだな」
「文字にするとね」
懐かしい顔を思い浮かべ、研磨はウーロン茶を啜る。学年が違うこともあり、研磨は大将と直接絡んだことはない。だが卒業後も企業チームで活躍しているという話くらいは知っていた。
「大将は音駒をもじって、俺らのこと猫チャン猫チャン言ってたけど、ここまで『待て』『おあずけ』をちゃんと守ってんだから、俺はたいがい忠犬だぞ」
「自分で忠犬って言い切るのもどうなの」
忠犬というキャラではないだろうと、言外ににおわせ研磨は口をとがらせた。大将の言葉ではないが、どちらかといえば黒尾は犬というより猫だろうし、名前と黒尾ならばより忠犬じみているのは名前だ。
だが、忠犬かどうかはともかく『待て』云々については、研磨にも多少思うところがないではなかった。
「クロは昔から『待て』が得意だけど、それでもときどき、手を出しちゃうときだってあったよ」
「……何の話だ?」
「バレーの話、から始まる、手癖の話かな」
ふうむ、と黒尾が缶を置き、腕を組んで考え込む。研磨が炙っていたするめを箸で取り上げ噛んでいると、やおら黒尾が呟いた。
「まあ、一瞬ちらっとこのまま離さないのもありかな、とは思った」
「思ったんだ……」
「そりゃあ思うだろ。距離を詰めたのは狙ったけど、苗字さんが胸に飛び込んでくるのは完全に偶然だぞ。これはもう、そういう神の思し召しなんだと思うだろ」
「待てを頑張ってるクロへの、神様からのご褒美だ」
「結果としては、ご褒美というより試練」
「試練を乗り越えられてよかったね」
「乗り越えてなかったらどうなってたんだろうな」
口許をゆがめて黒尾が笑う。黒尾がするめの最後のひと切れを取ったので、研磨はぱちんとテーブルコンロの火を切った。窓から吹き込む風のせいで、部屋の中もすっかり冷え込んでいる。黒尾がまた立ち上がり窓を閉めた。
気詰まりでない沈黙が束の間流れ、また唐突に黒尾がそれを破った。
「つっても、その後は何事もなく苗字さんのこと帰したし、特に変わったこともなくてよかったよ。いとこくんからも、別に何も聞いてないし」
いとこというのが、名前の一人暮らし先にたびたびやってくる同じ年の男子だということは、研磨も黒尾に聞いて知っていた。先日ひょんなことから黒尾といとこがコーヒーを共にすることになり、そこで名前攻略のための協定を結んだことまで、その日のうちに聞いている。
「今更だけど、苗字さんの周りって、クロの息がかかった密偵だらけだね」
研磨はもちろん、赤葦もすでに黒尾の側についているという。そのうえ最初から黒尾と通じている研磨と赤葦はともかく、名前のいとこの矢巾に関しては、表面上は名前の側についているように見える。それが実際には黒尾に肩入れしているというのだから、名前からしてみれば密偵もいいところだ。
「密偵だらけとかいうな」
黒尾が憮然と言い返す。「目が行き届いてるとか、そういう表現にしてください」
「付き合ってもない女の子の周囲に目を行き届かせるのは、ギリギリアウトじゃない?」
「なんでだよ。外堀を埋めるのはわりと基礎だろ」
「クロのそういうところ、苗字さんにバレないといいね」
「やっぱバレたらまずい?」
「良くてドン引き、悪くて縁切り」
「そんなに!」
というより名前でなくても、露骨に外堀を埋められ喜ぶ女子は少ないのではないか。名前が黒尾を好きだからまだいいものを、これで名前の気持ちが黒尾に向いていなければ、それこそバレたときに不気味がられるのは必至だ。
研磨はじろじろと、ひとりで百面相している黒尾をひとしきり眺める。果たして名前は、この黒尾の用意周到さを見てもなお、黒尾のことが好きだと言えるのだろうか。研磨の知りうる名前の情報を総動員して考えてみたが、弾きだされた答えは「多分好きっていうんだろう」。なんとなくだが、そんな気がした。
黒尾の優しさは、基本的には相手のためを思う優しさだ。友人に対しては優しさのなかにも正しく相手を尊重し、必要な距離をとろうという態度がつねに透けて見える。後輩に対しても同様で、優しさと厳しさを常にちょうどいいバランスで持ち合わせている。
ただ、恋愛に関しては多少そのバランスを欠くところがある――というのが、研磨がなんとなく黒尾に抱いているイメージだ。そして名前は、その欠けた部分をいいように捉えて受け入れてしまうような気がする。ともすれば「重い」と一蹴されそうな黒尾の優しさを、勝手に都合よく解釈してしまいそうとでもいうべきか。
まあ、おれには関係ないことなんだけど。研磨がひとくさり思考し、そして自分との間に線を引き切り離したところで、
「あ、苗字さん」
こたつの天板の上に置いていたスマホを、黒尾が覗き込み呟いた。そのままスマホを手に、なにごとか打ち込み返信している。分かりやすく頬をゆるめた幼馴染の姿に、研磨は目を細めた。
「苗字さんと毎日連絡とってるの?」
「いや、向こうもそろそろ新生活に向けて忙しいし、そういうわけではないんだけど。さっき桜の写真送ったから、その返信。というか、その前に来てた今日はありがとうございましたってメッセージへの、返信の返信の、返信」
「桜って……クロ、そんなことしてるの?」
思いがけず転がってきた黒尾の生々しい遣り口に、研磨は一層目を細めた。
「いやいやいや、待て待て。勘違いするな。花見行こうって言ってたのに行けなさそうだから、せめて写真だけでもって流れであって、別に普段からそんな感じなわけではないからな。さっきちょうど、来るときに咲いてた桜があったから、そんだけ」
いささか弁解くさい物言いで黒尾が言い連ねた。さっきというのは、研磨の家に来る前に黒尾が寄ったスーパーのことだろう。駐車場の裏手に一本だけ早咲きの桜が植わっていることは、研磨も午前中に買い物に出たときに気付いていた。近所でもほかの桜はまだ蕾なので、その一本だけがどうやら早く咲いてしまっただけらしい。
それにしても、付き合っていないふたりが、グループでならばともかくふたりで花見に行こうなんて、そんな約束をするものだろうか。さっさと付き合えばいいのに、と思いつつ、黒尾のゆるんだ顔を見るに、まだしばらくはこのままなのだろうという気もする。口ではいろいろと言っているが、黒尾の様子は現状に満足しているようにしか見えない。
待てをしてるっていうほど、殊勝な感じではないな。天板の上に載ったごみを、手すさび程度に片付け、研磨は溜息を吐き出した。
黒尾はしばらく、スマホを置いたり触ったりしていた。リアルタイムで名前と遣り取りをしているのだろう。研磨がそれに何か思うことはない。まして気分を害したり咎めようという気などまるきりない。
思うままつけっぱなしのテレビをぼんやり眺めていると、
「研磨、おまえ仕事いつまで詰まってる?」
ふいに黒尾が、スマホを手にしたまま問いかけてきた。
「四月末でいったん一休み」
「ふうん。ゴールデンウイークは?」
「ちょこちょこ予定は入ってるけど。なんで?」
首を傾げて研磨が問うと、黒尾が「ん」とスマホを差しだしてきた。受け取って画面を視線でなぞると、そこには黒尾と名前の他愛もない遣り取りがつらつらと並んでいる。適当に斜め読みする限り、どこかに出掛けようということになっているらしい。
「苗字さん誘ってどっか行こうかなと思うから、おまえも一緒に来てくんない?」
もちろんおまえの知名度に配慮した行き先にはするけど、と黒尾が言う。
「そんなの、ふたりで行ってきなよ……」
「俺とふたりだと、苗字さん遠出してくれなさそうだから」
「おれもいるよってことで、苗字さんを引っ張り出すの?」
「嫌なら赤葦誘うから無理にとは言わんけど」
そう言いつつも、黒尾の目は研磨が行くと言うよう期待しているように見えた。赤葦と名前にはウマが合う部分が多少ある。赤葦の嫌疑が晴れた今でも、できることなら赤葦より安全な研磨を誘いたい――そんな黒尾の下心が、その瞳からは好けて見えるようだ。
しかし、黒尾の思惑がそれだけだったなら、きっと研磨は断っている。それだけでないから、黒尾は黒尾なのだ。
逡巡ののち、研磨は頷いた。
「……分かった、いいよ。そのかわり、貸しひとつ」
研磨の溜息まじりの返事に、黒尾がぱっと顔を輝かせた。こういうときの黒尾の顔は、小学生の頃から変わらない。
「おばさんにアップルパイ焼いてもらえるよう俺が頼む。配達まで責任もって俺がさせていただきます」
「出掛けるのはいいけど、日にちの候補は早めに出してね」
それだけ言うと、研磨はもうこの話題を切り上げたというように視線をテレビに戻した。
黒尾の思惑が名前と出掛けたいという下心だけならば、研磨は勝手にやってくれと一蹴していたに違いない。けれど黒尾はきっと、研磨の息抜きも兼ねて声を掛けている。
学生の頃ならいざ知らず、今の研磨はその気になればどれだけでも他人と直接かかわらず、外にも出ずに済む環境に身を置いている。自分で望んで、そういう環境をつくった。
お節介で世話焼きな幼馴染は、研磨が手放していない数少ないリアルとの接続ポイントだ。黒尾がいるから、研磨の両親は研磨をのびのびと引きこもらせているといってもいい。黒尾もきっと、自分が研磨を外に連れ出す役目なのだと理解している。
無理に連れ出そうとはしないが、たまには出てこいよとばかりに、いつもいいタイミングで手を差し伸べてくれる。それも毎度律儀に、研磨が断りやすい口実を用意して。
「どっか行くなら、暑くなる前にしてね」
ぼそりと呟いた研磨に、黒尾は機嫌よく鼻歌で答えた。