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「それでおめおめと苗字さんのこと帰したんだ」
「おめ……っ、だっ、仕方ないでしょうがっ」
 しらっとした目を、こたつを挟んで正面から向けてくる研磨。黒尾は手にしていたビールの缶を、音を立ててこたつの天板に置いて戻し、苦悶もあらわに返事をした。

 三月半ば、ホワイトデーから数日後の週末。名前が黒尾の家を訪ねた、その当夜。
 自宅に遊びに来ていた名前を夕方には帰すと、黒尾は日を置くこともせずにいそいそと、研磨の一人暮らし先まで足を伸ばした。
 もともと仕事の関係で、折りを見て研磨の家を訪ねる予定ではあった。研磨からも今日の夕方ならば時間が取れると聞いている。が、黒尾が今日を選んだ理由は、もちろん仕事のためだけではなかった。
 片道で一時間ほどの道のりは、黒尾の頭をすっきりさせるのには十分な時間と距離だ。週末の夕方とはいえさほど混んでもいない道路に車を走らせながら、黒尾はこんな時に頼れる相手は、結局のところ幼馴染なのだよなぁと自らの成長のなさに溜息を吐く。
 借りっぱなしになっていた車を返したい、仕事について簡単に打ち合わせをしたい、幼馴染の生活ぶりをチェックしたい――研磨の家を訪ねる名目ならば、それこそいくらでも思いつく。だが、所詮そんなものは建前だ。
 名前が今日、黒尾の家に来ることは研磨に話してある。その報告をするのが、黒尾の今日の訪問の目的だった。ついつい仕事にかこつけてしまうのは、研磨が黒尾の恋愛にまつわる報告など、露ほども期待していないことを知っているからだ。それでも誰かに話さずにはいられない、自分の狭量さがうらめしい。
 黒尾の家族が全員外で食事を済ませてくるというので、黒尾も道中で適当に食料を調達してから研磨の家に向かうことにした。
 黒尾も研磨も、最低限困らない程度の自炊スキルは身に着けている。祖母のつくる食事に馴染んで育ったこともあり、黒尾はあまりジャンクフードのたぐいを好まない。実家住まいで食材だけは常に冷蔵庫に入っているので、カップラーメンを作る代わりに、ありあわせの食材でチャーハンなり野菜炒めなり作る。その方が、普通の人より旺盛な食欲も満たされる。
 その点は研磨も同様だ。研磨は食が細く、食べるものにもことさら関心を持たないが、調理という作業自体は厭わない。気分転換を兼ねての調理もするため、忙しい生活のわりには食生活は荒れずに済んでいた。研磨の場合は何でも仕事の糧になる可能性があることもあり、料理動画を視聴している姿もときおり黒尾は見かける。
 立ち寄ったスーパーで、黒尾は適当に鍋の具のセットと野菜を購入した。鍋ならば、それほど面倒な調理をすることもない。そういえば、研磨の家で最後に鍋をしたときには、名前も一緒に鍋をつついたのだっけと、考えるともなく考えた。

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 黒尾が研磨の家の戸を叩いたのは、夜というにはまだ早く、しかしまだまだ日の入りの早い三月ではすでに太陽が沈んだ時分だった。家の裏手の雑木林が強風をさえぎってくれるとはいえ、日暮れ後はまだまだ冷え込む時期だ。買ってきた食材を抱えた黒尾を、研磨は家の中へと招き入れた。
 早々に鍋は完成して、黒尾と研磨はふたり、こたつで鍋をつついた。酒を飲む前に仕事の話は終わらせてしまったので、そのあとはいつも通りのリラックスした食事になる。
 やがて鍋の具材もずいぶん減り、酒も順調にすすんできた頃。打ち合わせとほろ酔いで滑らかになった舌で、黒尾が背中を丸めて話を始めた。話題はもっぱら、名前についてだ。
 名前を自宅に招いたはいいものの、思いがけず家族が不在だったことにより、ふたりきりになってしまったこと。名前を意識させるつもりで煽ったのが裏目に出てしまい、「友達として」名前が退かず、家の中に招き入れてしまったこと。うっかり名前を胸に抱きとめてしまったこと。しかし、それでどうこうするということもなかったということ――
 順をおってすべてつまびらかにする黒尾の話に、研磨は相槌も挟まずじっと耳を傾けた。やがて黒尾の話が一段落すると、研磨は立ち上がり、台所から袋いりのするめを持ってきた。黒尾がすかさず、天板の上のカセットコンロから土鍋をおろす。研磨は鍋のかわりに網をのせ、さらにそこでするめを炙ってからようやく「それは大変だったね」と、実感のこもらない平坦な声でコメントした。
「クロのことだから強引なことをするとは思ってなかったけど、さすがにその状況なら、アクセル踏んで告白くらいしてもおかしくないし、よく堪えたよね」
「それ、おまえの感想?」
「うん」
 研磨は素直に頷く。しばらくしてから、網の上から炙ったするめを取り上げ噛みついた。黒尾が何も言わず窓を薄く開いて網戸にするのを、研磨はぼんやりと視線で追う。冷たい空気が窓からいっぺんに吹き込んで、ぬくぬくと暖まった室内の温度をぐっと下げた。
 幼馴染の贔屓目はそれほどないが、研磨は黒尾の人格に一定の信頼を置いている。人間ができていなければ自分と長く付き合えないだろうし、多少ひねくれたところはあれど、黒尾は慕われることの多い人格者と言えなくもない――それが研磨から黒尾への、正直な評価だ。
 ともすれば黒尾には、研磨よりはるかにちゃんとした倫理観と常識が備わっている。だから黒尾が、名前の意に沿わない行為に及ぶ心配はしていない。そもそも名前からの信頼を踏みにじることは、長い目で見れば確実に黒尾の望むところではないだろう。
 もっとも、実際には名前も黒尾のことを憎からず思っているわけで、だからたとえ何かあったとしても、案外満更でもないのかもしれない――研磨はそう思う。が、黒尾の性格を考えれば、順序を違えるようなことはしない可能性の方が高い。そこに関しては、名前の気持ち以上に、黒尾のけじめの問題だ。
 だが、それはあくまで平時の場合。事故で名前が胸の中に飛び込んできたなどという状況になれば、それならそれで、それなりの対応というものがある。通常ではありえないイベントが発生したのならば、そのイベントに挑むのもひとつの手だ。イベント中ならば、黒尾が何らかのアクションを起こしてもそれがいい方に転がる可能性が高い。それこそ、本来の黒尾の『全部有耶無耶うやむやにしよう作戦』は、そういう状況を目指したものだったはずだ。
 そんな研磨の胸中を見透かしたように、黒尾がひとつ頷く。酔いのせいか心持ち赤らんだ顔で、黒尾はぐびっとビールを煽る。ついで黒尾もするめに手を伸ばし、次のするめをまた網に載せて、言う。
「たしかに、たしかにな? 不可抗力とはいえハグ、正直言って美味しかった……」
「美味しかったんだ」
 そりゃあそうかと思い、研磨の声にはかすかな同情が滲んだ。その同情を敏感に感じ取ったのか、
「そりゃあ美味しいだろ! 美味しかったが、しかし!」
 熱のこもった声をあげ、黒尾は研磨にじとりと視線を据えた。
「あんな狼狽うろたえて可哀相なくらい赤くなってる苗字さんに、『全部有耶無耶大作戦』を決行する勇気は、俺にはない」
「人間として正しいことをしてるとは思うけど、……日和った?」
「日和ったとか言うな」
「じゃあ臆病風に吹かれた」
「なお悪いわ。そうじゃなくて……、なんつうか、……必死で取り繕おうとしてる苗字さんが可哀相で、それ以上何もできなかった」
 はぁあと深く長い溜息を吐いて、黒尾が項垂うなだれた。要するに、黒尾と名前の思惑は完全に食い違ってしまっているのだった。そのうえ黒尾には、名前を最大限大切にしてやりたいという、若干重たい願望もある。こうなると状況がもつれているというよりほかにない。
 さてどうしたものか。研磨は言葉をかけあぐねた。思案しながら視線を窓の外へと向ける。黒尾の背後にある窓の向こうには縁側が伸びている。夜半なのでカーテンは締めきっているが、うっすらと開いたカーテンの隙間からは、黒々とした夜が覗いている。黒尾が開いた窓から風が吹き込んで、ときおりカーテンが大きくはためいた。
 結局、思うままを口にすることにした。
「それでも、クロにとっては千載一遇のチャンスだったと思うけど」
「俺だってそう思ってるっつーの。だから今になって、あのときの行動が果たして正解だったのか、こうやってぐるぐるしてるんだ」
「ぐるぐるしてるんだ……」
 自称ぐるぐるしているらしい黒尾は、項垂れついでにこたつの天板に顎を載せ、背を丸めて溜息を吐いた。その様は普段の頼りがいのある黒尾とはかけ離れ、こんな姿苗字さんには見られたくないだろうな、と研磨は意地の悪いことを考える。
 研磨は、黒尾がどれほど名前に配慮しているかを知っている。だから黒尾がそこで敢えて引いたことも、茶化しはしたが理解できた。かくいう自分も、黒尾にはさんざん面倒見てこられた人間だ。多少お節介だと感じるところもないではなかったし、名前に向けられるまなざしと自分が受けたものが別種だとは分かっているが、それはそれ。黒尾の優しさは痛いほどに知っていた。
 だがその優しさは、こと恋愛においては諸刃のつるぎではないのか。研磨は恋愛の妙など何も知らないし、知ろうという気も現状さらさらなかったが、今の黒尾と名前を見ていると、そんなことを思わずにはいられない。
 しばしそうして沈思していた研磨に痺れを切らしたのか、はたまた端から研磨が親身なアドバイスをくれることなど期待していないのか――おそらく後者で、黒尾は溜息まじりに口を開いた。
「俺としてはね、そりゃあいい雰囲気になってほしいよ。けど苗字さんは、本当にそれが嫌なんだなぁとね、今回改めて実感したわけで」
「それは苗字さんがクロの気持ちを知らないからでしょ」
 告白したら十中八九うまくいくだろう。少なくとも研磨はそう思っている。
 研磨は鍋の残りの具材を浚い終え、ぬるいウーロン茶をコップに注ぐ。黒尾が空になった缶をよけ、ビールをとりに立ち上がった。酔いつぶれるとは思わないが、今日の黒尾はいやに飲むペースがはやい。早めに風呂を沸かした方がいいなと、研磨は頭の片隅で考える。
 ビール片手に戻ってきた黒尾は、はぁ、と今日何度目かの溜息を吐き出した。
「そりゃあね、俺だって、告白したら絶対断られるだろうなんてことは思ってないですよ。いけるかいけないか、そのくらい見定める目はありますよ」
 だけど、と黒尾が言葉をついだ。
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