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 いい雰囲気にも、おかしな雰囲気にもなってしまわないように。
 黒尾の家に上がった瞬間から始まった名前のミッションは――しかし、大きな波乱を招くこともなく淡々と、完遂に近づいていた。
 名前がいつも通りを徹底したのはもちろんのこと、黒尾の様子や立ち居振る舞いも、普段と何ら変わることがない。そもそも家族が不在とはいえ、ここは黒尾が育った家の、それも家族の共同スペースたる居間なのだ。黒尾家の家政を切り盛りする黒尾の祖母が調えた室内は、およそ若い男女がいい雰囲気になるためのあれやこれやとは無縁の生活感に満ちていた。
 手土産で買ってきたケーキで小腹を満たすと、名前の緊張もずいぶんほどけた。宮城の祖父母宅を彷彿とさせる室内の空気に、名前もくつろぎ絨毯の上で足をくずす。
 板張りの床の上に敷かれた絨毯の、そのうえにちゃぶ台がのった居間は、普段黒尾家の人間が生活の中心としている場所なのだろう。絨毯の下にホットカーペットが敷かれているため、そのまま腰をおろしてもまったく苦にならない。
 黒尾が淹れてくれたのは、甘いケーキに合わせてか深煎りで苦みの強いコーヒーで作ったカフェオレだった。マグカップにたっぷり注がれている。暖房を使うほどではなくても肌寒さの残る三月に、カフェオレのあたたかさは胸の中から名前をあたためた。
 ガラス窓の向こうで、隣家の椿の赤が揺れていた。ほんの一瞬、あれは孤爪くんの家だろうか、と考える。
 視線を室内に戻し、名前は黒尾の手元に視線を遣った。そして「あ」と、短く声を漏らす。黒尾がカフェオレを飲むのに使っていたのは、名前が昨年のクリスマスに贈ったマグカップだった。名前の視線に気付き、黒尾はにやりと口角を上げた。
「それ、使ってくれてるんですね」
「もちろん。別に苗字さんが来てるからこれみよがしに出してきたとか、そういうわけではないからな」
「誰もそんなこと言ってないじゃないですか」
 黒尾の長く骨ばった指がマグカップの持ち手を握っているのを、名前はゆるむ顔で見遣る。売り場にあったなかで一番大きなマグカップを選んだが、規格外に大きな黒尾の手のせいで並の大きさにしか見えない。
 クリスマスプレゼントとして贈った時、名前は黒尾に要らなかったら引き取ると言ったし、バレンタインのときにも同じことを矢巾に言付けた。それでもやはり、実際に使ってくれているところを見ることができるのは嬉しい。名前の胸に、カフェオレを口にふくんだときと同じあたたかさが広がる。
「本当は」
 と、黒尾がマグカップに視線を落としたまま呟いた。
「これもらったとき、苗字さんちに置いといてって言おうかと思ったんだよな」
「えっ!? もしかして気に入らず……!?」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
 三か月ごしの告白に動揺する名前に、黒尾が苦笑して言葉をついだ。
「これからももし、俺が苗字さんちに遊びに行くことがあるなら、そのときに俺が使うマグカップが苗字さんちにあってもいいかなと思って」
「……秀くんと共同のカップが嫌ってことですか?」
「そうは言ってないだろ」
 冗談めかして眉をひそめた黒尾に、名前は首をすくめた。もちろん黒尾の言わんとするところは理解できる。だが多少でも茶化しておかないと、どうにも気恥ずかしくて足の裏がもぞもぞした。
 名前の家にあがるということに、今の黒尾はもう最初の頃ほどの躊躇いはないのだろう。だから今の言葉にも、きっと名前が考えるほど深い意味などないのかもしれない。それでも、心が浮きたつのは止められない。
 研磨の家には黒尾専用のコップや歯磨きが置かれている。名前が知らないだけで、黒尾が持ち込み置かせてもらっているものも多いのだろう。だからこそマグカップひとつのことでも、黒尾との距離が縮んだような気がして名前は嬉しかった。
「でもやっぱ、せっかく苗字さんにもらったもんだし、できるだけ目に見えるところに置いて、普段から使いたいなと思って、言うのやめた」
「うちで使うものがあった方がいいなら、それはそれでちゃんと用意しますよ」
 名前の家には来客など滅多にないので、矢巾が宿泊するときに使う廉価品の食器くらいしか予備の食器は置いていない。名前がそういうと、黒尾は目を細めて笑った。
「うん。だから、今度どっか買い物でも行ったときに買おうと思って。そのときはまた、苗字さんが選んでくれる?」
 黒尾がおだやかな笑みを浮かべて、名前の顔を覗き込む。
「苗字さんの持ってるほかの食器とも似合う、俺にも似合うやつ」
「……責任重大ですね。がんばります」
「ん、よろしく」
 そう言うと、黒尾はやおら立ち上がる。そのまま「ちょっと待ってろ」と名前に言い置くと、すたすたと居間を出て行ってしまった。残された名前は、束の間黒尾が立ち去った扉の方に目を向けていたが、やがて黒尾の足音が階段をのぼっていくのを確認すると、わぁっと勢いよく両手で顔を覆った。
 今のは少し、いやかなり、危なかった。いい雰囲気になってしまったわけではなくても、かなり、相当危なかった。あのまま黒尾に顔を覗き込まれ続けていたら、名前の胸はときめきの限界を越えておかしなことになっていたかもしれない。
 だけど、あんなことを言われたら嬉しくなるに決まってる……。
 先ほどの黒尾の言葉を思い出し、名前はひとり赤面した。どっと汗が噴き出して、名前は短い呼吸を繰り返す。
 特別な言葉を掛けられたわけじゃない。それなのに、どうしようもなくドキドキして仕方がなかった。このままでは心臓がもたなくなるのも時間の問題だ。予定より少し早いが、ぼろを出す前に撤退した方がいいのかもしれない。
 カバンから取り出したハンカチで額の汗をぬぐい、深呼吸を三回繰り返した。頭の中に矢巾の顔を思い浮かべ、最近掛けられた矢巾からの遠慮のない言葉の数々を思い出す。そうしちてどうにか心臓が落ち着き平静を取り戻したところで、タイミングよく黒尾が居間へと戻ってきた。
「お待たせ」
 さほど待ってもいないが、黒尾はそう言って名前の正面に腰をおろした。黒尾の手には何か、平たい長方形の缶のようなものが握られている。ひとまず名前は頷いて、黒尾の次の言葉を待った。
 黒尾は口の端をぐっと上げると、
「で、ケーキ食べて満腹のところになんなんだけど。はいこれ」
 開けてみて、と悪戯めいた顔をして、名前に缶を手渡した。濃緑の缶の上部には、クリーム色で大輪たいりんの花のイラストが描かれている。それだけでも名前の乙女心をくすぐる意匠だ。
 ふたの固定用に貼られたテープを爪の先で剥がし、名前はそっとふたを開ける。そしてふたの隙間から中身を目にした瞬間、
「うわ、可愛い……!」
 感嘆の吐息とともにうっとりと呟いた。
 缶の中に入っていたのは、大小さまざまなクッキーだった。色や形もとりどりで、さながら宝箱のようにときめきが詰まっている。
「苗字さんこういうの好きかなと思って」
 いくらか得意げな声で黒尾が答える。名前はこくこくと大きく頷いた。
「好きです。大好きです、本当に大好き」
「……それはよかった」
 夢中で缶の中身を覗き込んでいる名前からは見えない角度で、黒尾が眉根を寄せて首の裏を掻く。もっとも名前が黒尾の方を向いていたとしても、その表情と仕草の理由を理解することはなかったに違いない。
 やがて名前は、満足したようにクッキーから視線を剥がすと、缶をちゃぶ台の上にそっと置いた。そしてのんびりとコーヒーを啜っていた黒尾を見ると、まずは深々頭を下げて礼を述べる。そして、
「でも、どうしてクッキー缶?」
 遠慮がちに問いかけた。黒尾がこれを自分に渡してくれる理由に、これといって思い当たることはない。
 すると黒尾は、呆れたように眉尻を下げた。
「どうしてって、そりゃホワイトデーだからだろ。苗字さんがホワイトデーはお菓子がいいって言ったんだろ」
 名前が「あ」と間抜けな声をあげた。ホワイトデー何日か前に過ぎているから、そもそも今日こうして黒尾の家にあげてもらっているのが、ホワイトデーのお返しだということすら、名前はすっかり失念していた。加えて、ホワイトデーのお返しは黒尾の家にあげてもらうことでいいと、名前ははっきり言っている。
 そんな名前の胸中を見透かすように、黒尾は言う。
「どっか出掛けるとかならともかく、自分ちに招待して、はいホワイトデーはこれで終わりってすると思う?」
「私はそれで終わりだと思ってました」
「欲がないことで。じゃあ、これはサプライズだな」
 黒尾はそう言うと、ちゃぶ台の上にのっていた缶の蓋をずらした。
「一応店頭で見本を見せてもらったんだけど、実は俺もあんまりどういうのが入ってるか知らない」
 矯めつ眇めつする黒尾に、名前は缶の中から折りたたまれた紙を取り出す。
「ここに説明書が入ってますよ。どれが何味かとか書いてあるやつ」
「どれどれ?」
 名前が手元で説明書を開いて広げた。黒尾は名前との距離を詰めると、顔をつき合わせるようにして説明書の紙面をのぞきこんだ。
 缶に封入する説明書は、紙幅が狭く文字も小さい。内容を読もうと思うと、自然と説明書に顔を近づけて読むことになる。
 ほんの一瞬、クッキーの甘いかおりに混ざって、爽やかなシトラスのにおいが名前の鼻先をかすめた。そのにおいにつられるように、名前は説明書を覗き込んだ姿勢のままで顔を傾け、黒尾の方を向く。
 気が付けば、これまで頑なに距離を保っていた黒尾の横顔が、名前の目の前で無防備に微笑んでいた。名前がはっと息を呑む。黒尾がその気配に気が付いて、顔を名前の方へと向けた。その瞬間、ひと息ほどの短い間、射すくめられたように名前の身体が固まる。
「――っ!」
 黒尾の視線から逃れるように、名前は反射的に黒尾から身をのけぞらせた。強張った身体を無理やりに動かそうとしたせいで、名前の身体はバランスを失い、大きく上体が背後にかしぐ。
「あっ」
 短く声をあげたときには、もう遅い。名前の視界に天井の電灯が目に入った。
 その直後、
「うおっ、危な!」
 黒尾の慌てた声が飛んでくる。ぐいと勢いよく前に腕を引かれて、名前の身体はすんでのところで倒れずバランスを取り戻した――かと思われたが、強く引かれた力そのままに、今度は名前の上体が前方につんのめった。
 名前の前には、腰を浮かせて名前の腕を引いた黒尾がいる。倒れそうになるそのかわりに、名前の頭は黒尾の胸板にぶつかった。う、と名前の口から声が漏れる。
 さいわいにして、名前がぶつかったくらいでは、黒尾の身体はぐらりともしなかった。そして名前の身体は、黒尾の胸に抱きとめられる形におさまった。
 先ほどかすかに掠めただけのシトラスのかおりが、今度はしっかりと名前のことを包んでいた。
 名前には束の間、何が起きたのかまったく理解できなかった。ぐらぐらと頭が揺れたことで、脳の処理速度が落ちていたのかもしれない。自分が何によりかかっているのかも、自分の腕を誰がつかんでいるのかも、そもそもどうしてこういう状況になっているのかも、すべて白塗りされてしまったように、名前の頭から抜け落ちてしまっていた。
 だが、それも長くは続かなかった。
 名前ははっと我に返ると、すぐに自分が陥っている状況を理解した。悲鳴をあげそうになる身体をどうにか理性で押しとどめ、ほとんど飛びずさるように黒尾から自分の身体を剥がす。
 そして真っ赤になった顔を上げるや、わざとらしいほどの大声とぎこちない笑顔を黒尾に向けた。
「う、うわーっ! 黒尾さん! 手が! 大きい! 手が大きいですねーっ!」
「いや、苗字さんの声のが大きいわ」
「す、すみません……!」
 黒尾の声に、名前は慌てて謝った。同時に、名前の腕をつかんでいた黒尾の手がさりげなくほどかれる。
 黒尾は膝立ちになって名前から距離をとると、まるで何事もなかったかのようにちゃぶ台の上に視線を走らせた。
「ん、カップからっぽだな。もう一杯コーヒー淹れる? お茶もあるけど」
「お茶で大丈夫でございます……冷たい、お茶を……」
「はは、冷たいお茶でございますね。ござわれます」
「ぐぅ……」
 軽口を叩いて台所に消える黒尾の姿を直視することもできず、名前は苦しげに呻き声をあげた。視線を窓の外に逃がすと、風に揺れる椿の花を見、身もだえするように肩を震わせる。両手で頬をはさみこむと、長く息を吐き出した。
 熱い頬の熱を冷まそうにも、黒尾につかまれた腕や手は頬よりなお熱い。熱の逃げ場はどこにもなかった。
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