049

 ホワイトデー当日は黒尾の仕事が入っていたため、名前が黒尾の自宅を訪問するのは、その週の週末ということになった。黒尾の祖父母にも週末に訪ねる旨を伝えておこうと思っていたのだが、そういうときに限って名前のシフト時間内に黒尾の祖父母が来店しない。結局名前の口からは何も伝えることができないまま、約束の週末を迎えてしまった。

 約束の日曜日、昼食を自宅で済ませてから、名前は黒尾の家へと向かった。家の住所は事前に聞いており、道順も把握している。黒尾からはどこか近所まで迎えにいこうかと聞かれたが、それは丁重に断った。女性の一人歩きが危険な夜間ならばともかく、真昼間に近所を歩くだけのことにわざわざ迎えを頼む必要はない。
 黒尾の家は名前の家から『猫目屋』を通り過ぎ、少しいったところにある。駅に比較的近いながらも繁華街とは駅をはさんでおり、昔ながらの下町といった風情だ。ただ、町そのものが古いため道が細く入り組んでおり、はじめて足を踏み入れる人間には多少不親切な町のつくりになっている。
 名前はこの土地で育ったわけではないが、それでも四年も暮らしていれば、黒尾の家の辺りが多少入り組んでいることは知っている。迷うかもしれないと予定より早く家を出たが、さいわいほとんど迷うことなく黒尾の家に到着した。事前に道順を確認していたおかげで、ナビを使うこともなかった。
 名前が辿り着いたのは、門の横に黒尾と表札のかかった、よくある木造二階建ての一軒家だった。敷地と道路を生け垣と花壇で隔てており、花壇には時期より少し早い芝桜がすでに濃いピンクの花を付けている。
 生け垣の隙間からは、こじんまりとした庭が見えた。終日晴れ予報の今日は、庭に置かれた物干しざおに敷布団が干されている。
 家庭のにおいが強い様子は、常連の黒尾夫妻の印象や、黒尾の雰囲気にぴったり合うものに思えた。知らず、名前の顔がほころぶ。
 黒尾から聞いた話では、黒尾の父親が幼い頃に建てた家らしい。研磨の一人暮らし先の方が古い印象を受けるが、それはひとえに家回りの手入れが行き届いているからだろう。多忙の研磨の自宅はリフォームの手こそ入っているものの、敷地内の物は少なく、端から家回りの手入れに時間を割こうという気が感じられない。加えて、研磨の一人暮らし先の方が実際に築年数も古い。
 黒の御影石に白く黒尾と彫られた表札の下の、カメラのついていないインターホンを指で押す。応答がない代わりに、すぐに玄関の引き戸ががらがらと音を立てて開いた。
 ひょこりと身体を傾けて、名前がドアの方を覗く。家の中から出てきたのは黒尾だったが、どういうわけだかその顔は妙に困り顔だった。
 ひとまず、門を通って玄関に向かう。身体を半分だけドアから出していた黒尾は、名前が寄ってくるのに気がつくと、ほんの短い葛藤ののち、名前を玄関の中に招き入れた。
 足を踏み入れた黒尾の家は、何処か懐かしいにおいとはうらはらに、しんと静まり返っていた。
「いらっしゃい、苗字さん」
「今日はお招きいただき……というか、無理を聞いていただきありがとうございます。お邪魔します」
 三和土に立った名前は、そう言って黒尾に浅く頭を下げた。
「あー、はい……」
 対する黒尾の返事は、どこか歯切れが悪い。不思議に思いながらも、名前は道中購入してきたケーキの紙箱をわずかに持ち上げた。『猫目屋』の近所にある小さなケーキ屋は、この近所の人間がおみやげや祝い事のケーキを頼むのに決まって使う地元で人気の店だ。
「おみやげにケーキ買ってきました。黒尾さんちって四人家族で合ってますよね?」
「そんな気なんか遣わなくていいのに」
「いえ、そういうわけには。今日はご家族は?」
 祖父母との面識はあるが、黒尾の父親とは顔を合わせたことがない。あまり話題に出たこともないから、もしも父親が在宅なのであれば名前も多少緊張する。
 しかし黒尾は、がしがしと頭を掻いてから、腹をくくったように表情を引き締めて答えた。
「全員出払っております」
「えっ」
「全員、出払っております。夜まで誰も戻りません」
 黒尾のきりりとした表情は、ばつの悪さを誤魔化すためのものだった。そのことに気が付いて、名前は絶句し固まった。
 黒尾以外の家族が全員、出払っている。ということは言うまでもなく、今この家の中にいるのは黒尾と名前のふたりきりということだ。夕方にはおいとまする予定なので、名前が滞在している間は黒尾家の誰も――今目の前にいる鉄朗以外の誰とも、名前は顔を合わせないことになる。
 玄関に入ったときに感じた家の中の静けさにも、ようやく合点がいった。ほかに誰もいないのだから、物音や気配などあるはずがない。
 いや、それでも黒尾さんは家族が誰かしらいるはずって、言ってたはずなのに?
 事前に黒尾に聞かれていたのと話が違うということに、名前はひそかに、しかし激しく狼狽えていた。
「ぜ……全員出払ってるって、そ、それはまたどうして……」
 ようやくそれだけ絞り出した名前に、黒尾は深く溜息を吐いた。
「いや、俺もさっき聞いたんだって。みんな夜まで帰ってこないらしくて、それでどうしようかって苗字さんに連絡しようと思ったのに、なんか通話つながんないし」
「すみません、あんまり外でスマホを見る習慣がなく……両手も塞がってたし……」
「現代っ子とは思えん発言だな」
 黒尾に呆れたように笑われ、名前は肩を落とした。
 いつもの名前ならば、出先でもスマホにはそれなりに気を配っている。今から向かおうという相手に何か緊急の用事があるかもしれないし、道中でおつかいを頼まれるかもしれないからだ。
 今日に限ってスマホを確認していなかったのは、ひとつには黒尾に言ったとおりケーキで手が塞がっていたからというのもあるが、一番大きな理由は名前が浮き立っていたからだった。黒尾の家にあがることができるのだ。これで名前が浮かれないはずがない。
 しかしその浮かれ気分も、思いがけない状況のせいで、すっかり何処かへ飛んで行ってしまった。次第に顔面が蒼白になっていく名前を、黒尾はいっそ気の毒そうな顔で見ている。
 名前が呆然としていると、黒尾がそっと小さく溜息を吐いた。
「まあ、そういうわけなんで……どうする? せっかくお土産のケーキまで買ってきてもらったけど、今日のところは外に飯でも食いに行く?」
「え、ええと……」
「別に苗字さんがいいって言うならいいんだけどな」
 そうして黒尾は顔をうつむけると、前髪を透かすようにして名前を見た。視線の位置は名前よりも黒尾の方が上だ。そのぶんだけ、黒尾のその視線と表情は、やけに意味ありげに翳を落として見える。
 どくんと、名前の胸が大きく脈を打った。まるで何かを試されているみたい――そんな感想が、名前の胸にわく。知らずぎゅっと手のひらを握ると、ケーキの入った紙箱が固く肌に食い込んだ。
 しばし、名前は沈思した。付き合ってもいない男性の家に、実家とはいえずけずけ上がり込むのはいかがなものか。黒尾からは家の中にはほかにも家族がいると聞かされていたから、その点を名前はあえて考えないようにしていた。
 黒尾を名前の部屋にあげてしまっている以上、今更気にすることでもないのかもしれない。だが、そうは言ってもふたりきりと知った以上は――、と。
 そうまで考えて、しかし名前ははたと気付いた。いつのまにか俯けていた顔を上げ、名前は黒尾を見上げる。
「あの、つかぬことをお聞きしますが……、孤爪くんは、黒尾さんちに上がったことありますよね」
 三和土に立ったままの名前の突然の問いに、黒尾は訝しげに首を傾げた。何を当然のことをと言わんばかりの顔をしている。
「そりゃあまあ、幼馴染だし。俺が研磨んち行く方が多かったけど」
「それでは、あの……れ、歴代の彼女さんたちは」
「歴代のってなんだ。そんなとっかえひっかえしてません」
 やや不機嫌に返されて、名前はついつい黒尾の顔をじっと見た。その視線を疑いだと勘違いしてか、
「女の子を家にあげたことはない」
 黒尾が目を眇め、きっぱりと繰り返す。別に黒尾の言葉を疑っていたわけではない。だが、言葉にされればほっとするのもまた事実だった。
 はやる気持ちを抑えるため、名前は胸いっぱいに空気を吸い込む。うっすらと香のようなにおいが混じった空気は、名前の宮城の祖父母の家を彷彿とさせた。そのおかげで、騒いでいた心が少しだけ落ち着く。
 黒尾は恋人を家にあげたことはない。ということは。
「つまり、黒尾さんのご実家に上がったことがあるのは、友達だけということですよね」
「ああ、まあ、そういうことになるか」
「友達を家に上げるのはよくあることですか?」
「人並程度だと思うけど。よくあることなんじゃない?」
 その返答に、名前は心を決めた。大きくひとつ頷くと、きっと黒尾に視線を据える。  
「分かりました。黒尾さんさえよろしければ、お邪魔します」
「えっ、苗字さん? それ本気で言ってる?」
「もちろんです。ああ、でもご家族の不在時にお邪魔するのは、黒尾さんのお宅としてはあんまりよくないとか、そういうことは」
「それは大丈夫だけど」
「それなら大丈夫です。私たち、茶飲み友達ですので! 茶飲み友達ですのでね! お茶飲んで帰ります!」
 そう言って胸を張る名前を、黒尾は束の間じっと凝視していた。遠慮のない視線に晒されて、名前はごくりと喉を上下させる。もちろん、まったく大丈夫などとは言い切れないし、今もまだ完全に狼狽が消え去ったわけではない。
 だが、ここで引くことは、それこそ黒尾を意識していると宣言しているようなものだ。ほかでもない黒尾が、友達しかあげたことのない自宅に名前をあげてもいいと言ってくれている。その信頼に応えるべきだ、否、応えずには友達失格だ。名前はそう判断した。
「分かった、苗字さんがいいなら」
 逡巡ののち、どうぞ上がって、と黒尾が眉を下げて微笑んだ。握ったままだったケーキの箱を黒尾に手渡し、名前は靴を脱ぐ。大丈夫、黒尾さんの信頼に無事に応えきってみせる。浮き足立つ気持ちを厳しく戒め、名前は背を向けた黒尾の後をしずしずとついていった。

 玄関から上がってすぐ、黒尾がぴたりと足を止めた。家の構造上、昼間でも薄暗い廊下の先には、おそらく居間に繋がっているのだろう扉があり、そこまでにいくつかの扉が並んでいる。黒尾が足を止めたすぐ右手には、二階に通じる階段があった。
「居間でいい? 客間もあるけど、そっちはほとんど物置と化してる」
「もちろん。あ、でも黒尾さんの部屋は少し見てみたいかも」
「……ちょっと覗くだけな」
 名前の返事は予想済みだったのか、呆れ顔こそしたものの、意外にも黒尾はあっさり頷いた。呆れ顔はどちらかといえば、部屋を覗きたいと言ったことより、予想通りの受け答えをしたことへの苦笑らしい。
「じゃ、居間の前に部屋行くか」
 そう呟いて、黒尾は階段に足をかけた。名前もその後に続く。
 幅が狭く急な階段に、名前はしっかりと手すりを掴んだ。一歩踏むたび、階段はぎっと短く軋んだ音を立てる。
「古い家だし、電灯もわりと少なくて薄暗いから、夜とかたまに階段落ちそうになる」
 黒尾が平然と、おそろしいことを言って笑う。
 二階に上がると、並んだ扉のうちのひとつを黒尾が開けた。ドアの外から首だけにょきりと部屋に突っ込み、名前は「はぁー」と気の抜けた声を出す。開け放たれた窓から風が吹き込んで、名前の前髪をさらりと撫ぜる。
 そのままきょろきょろしていると、黒尾が名前の顔を覗き込んだ。
「部屋、入んねーの?」
「いえっ、入るとそのまま部屋に居ついてしまいそうなので」
「どういうこと? 別に普通の部屋だろ」
 くっくと声を立てて笑う黒尾にうながされ、名前はおそるおそる部屋の中に踏み入る。
 黒尾の部屋にはベッドとテレビ、カラーボックスと作業机以外には特に目立つものはない。こまごまとした雑貨はそこかしこに置かれているが、散らかっているというわけではなかった。壁の一面が押し入れになっており、そこに衣類や書籍が片付けられているのだろう。壁には職場でもらったと思しき、バレー選手の写真の入ったカレンダーが飾られている。
「男の人の部屋ってこんな感じなんですね……」
 部屋をきょろきょろと見回して、名前は呟いた。実家の部屋というからには、おそらく学生時代から家具のレイアウトは変わっていないのだろう。それがなんとなく分かるから、無礼かもしれないと分かっていながらついつい視線をあちこちにやってしまう。
「苗字さんは、どんな部屋を期待してたの?」
「どんなのというと難しいですけど……、私が知ってる男の子の部屋って、秀くんの兄弟と、孤爪くんの部屋くらいですし」
「研磨の部屋はまあ話が違うからな。部屋というか家」
「そもそも孤爪くんのプライベートルームは見たことないですしね」
 ちなみに矢巾の自室も実家かつ兄弟と同室のため、それほど凝ったことはしていない。最近は足を踏み入れていないので名前も知らないが、高校時代に最後に覗いたときには、よくある運動部の男子の部屋という印象だった。
 名前が落ち着きなくきょろきょろしていると、黒尾がぱんっと手を打った。
「はい、ちらっと覗くのおしまい。下に戻ってケーキ食おうぜ」
「あれ、写真とか見せてくれないんですか」
「なんで急にそんなアグレッシブなんだよ」
 口の端を上げた黒尾は、名前を部屋から追い出すと、後ろ手でそのまま扉を閉めた。むっと名前が口を尖らせているのに気付き、わざとらしく顰め面をつくる。
「アルバム、押し入れの奥の方に片付けてあるからな。出して見るのはまた今度来たときな」
 そう言われてしまえば、名前も食い下がることはできない。おまけに次の約束までもさらりと交わされてしまい、おかげで名前はせっかく忘れかけていた『家の中にふたりきり』という事実を、否応なしに思い出してしまった。
 名前に背中を向けて階段をくだる黒尾に気付かれないように、名前はこっそり胸をおさえて呻く。黒尾がどんな顔をしているのかなど、名前には知るよしもなかった。
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