005

 日用品と食材の買い出しを終えてスーパーを出ると、とたんにヒグラシのカナカナ鳴く声が耳についた。桜の開花時期は地元宮城と東京で差があるが、セミの鳴き始める時期は宮城も東京も大差ない。そんなことを考えながら、名前は重たくなったエコバッグを両肩に掛けなおした。
 夏休みまで残り数週。七月半ばの東京はすでに酷暑のきざしの熱気に満ちている。アルバイトを終えた名前はその足で近所のスーパーに立ち寄り、今しがた買い物を済ませたところだった。今夜の夕飯は安売りしていたまぐろのたたき。アルバイト終わりのこの時間は、刺身や総菜の値引きが始まる頃でもある。
 エコバッグの持ち手を両肩にくいこませ、身体をかしがせ歩き出す。と、スーパーを出てほんの数歩のところで、
「苗字さん」
 すぐ近くで、名前に呼びかける声がした。名前が振り向くと、そこにはシャツにジャージ姿の、ラフな出で立ちの黒尾が立っていた。
「こんにちは、黒尾さん」
 名前が浅く頭を下げた。視線を下げると黒尾の足元が目に入り、ほつれたジャージの裾に目がいった。
 いつも『お茶会』に来るときの黒尾は、ラフながらもきれいな恰好をしてくることが多い。見慣れないジャージ姿に面食らいながらも、ジャージ姿でなお様になる黒尾のスタイルの良さに名前は感服する。
 名前が顔を上げると、黒尾がにっと微笑んだ。
「はい、こんにちは。買い物帰りか」
「そうです。さっきバイトが終わったところで、買い物して帰ろうかなと思って」
「ほーん。こりゃまた、ずいぶん買い込んだな」
「お刺身と、あとお肉がすごく安くなっていて……」
 そう答えながら、独り暮らしにしては大量の食材を買い込んだことを思い出し、名前はさっと顔を赤らめた。ただの茶飲み友達とはいえ、黒尾のような素敵な相手に、大食いだと思われるのは少し恥ずかしい。
 しかし黒尾は名前の大量の荷物を笑ったりはしなかった。ただ案じるように、
「これ、持って帰るの大変だろ。歩き? 自転車は?」
 と辺りを見回す。以前お茶会の会話の中で、名前が普段、近所に出掛けるときには自転車を使っていると話をしたことを覚えていたのだろう。すぐそばには駐輪場があり、ママチャリが何台か停められている。
「私の自転車、今パンクしてるんですよ。今日は歩きです」
「そういうことなら、じゃあ、はい。荷物半分ちょうだい」
 そう言うと、黒尾は自然に腕を伸ばし、名前のエコバッグの持ち手に手を掛けた。驚いて、名前ははっと身体を引く。
「ありがたいですけど、いや、いいですよ。荷物くらい自分で持てますし」
「こんな両手に重たげな荷物持ってる女子の隣を、俺がひとり手ぶらで歩いてるのって、はたから見てどうよ」
「隣を歩かなければいいのでは……」
「はいはい、早く」
 名前の主張も何処吹く風で、黒尾は頑として手を引かない。通りかかる通行人が、小声で言い争う名前と黒尾にちらちらと視線を送っていた。夕照がじりじりと名前のつむじを焦がし、バッグの持ち手を握る手が汗ばんでくる。
 靴底が、砂の粒を踏んで音を鳴らした。黒尾はまだ、手を離さない。
 この人、この間のお茶会のときにも思ったけど、沈黙と笑顔の使い方がうますぎる……。額に汗が滲むのを感じ、名前は結局、しぶしぶながらも頷いた。
「じゃあ、あの、はい」
 左肩に掛けていた軽い方のエコバッグを差し出そうとしたところで、黒尾がすかさず手を掛けていた右肩のバッグを揺する。
「こっちのが重いだろ。重い方ちょうだい」
「こっち缶詰とか牛乳とか入ってて、本当に重いですよ」
「だから言ってんだって」
 そう言って黒尾は、名前の返事も待たずに右側のバッグを持ち上げた。いとも容易く持ち上げる黒尾に、名前は目を瞠る。一目見た時から鍛えている人の身体だとは思っていたが、名前がへろへろしながら持ち帰ろうとしていたバッグを、こうも簡単に持ち上げられると、さすがに驚かずにはいられない。
 先に歩き出した黒尾が、腰をひねって振り返る。赤々とした夕日の色に照らされた黒尾が名前に笑いかけていた。
「ん、どうした。早く行こうぜ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 慌てて名前も黒尾の後を追う。軽いものしか入っていない左肩のエコバッグが、名前の足取りに合わせてゆらゆら揺れた。

 スーパーから名前の住むマンションまでは、歩いて十分程度の距離だ。盛夏の頃、夕方とはいえ歩いているだけで汗が流れる。風に乗って聞こえてきた風鈴の音が涼やかで、名前はそっと耳を澄ました。
 黒尾と並んで歩きながら、早くも遅くもないスピードでマンションに向かって歩いて行く。
 黒尾とは『お茶会』ですでに何度も顔を合わせているが、こうして『猫目屋』の外で会うのははじめてのことだった。座っていても分かる長身は、隣あって並んでみると、笑ってしまうほどの身長差になる。名前もとりわけ小柄なわけではなかったが、黒尾の長身の隣ではまるで大人と子供のようだった。
 ふと振り向けば、背後には黒々とした影が伸びている。夕日に長く引き伸ばされた影は、ただでさえ大きなふたりの身長差を、さらに大きく見せていた。
「試験勉強は順調かい?」
「順調ですよ。おかげでさまで」
「そいつはよかった。無事に夏休み迎えられるといいな」
 黒尾の言葉に含むものはなさそうだった。大学に友達がいないことを聞いたあとでも、黒尾の態度はこれまでと何ら変わることはない。
「黒尾さんはお休みはまだまだ先ですか?」
「あー、そうだな。つっても今年はカレンダー通りに休みとるように言われてるから、もうあと一か月も頑張れば休みだけど」
「一か月……。社会人は大変ですね」
「来年には苗字さんも社会人だろ」
「そうなんですよね……。もう考えるだけで憂鬱で」
 夕暮れの道は橙から、気付けば薄藍色に色を落としつつあった。名前の爪先が小石を蹴る。
「苗字さんは就職こっちなんだよな。ばあちゃんから聞いた」
「そうですね。宮城に帰ってもいいかなとは思ってたんですけど、こっちで就職できたので」
「何系の会社なの?」
「環境系の企業です」
「そういう会社で働きたかったんだ」
「それもありますけど、そこの会社は遠縁の親戚が面倒を見ていて。秘書室の新人を募集しているというので」
「まじ? コネ入社ってこと?」
「ちゃんと採用試験は受けましたよ」
 疑わしげな黒尾の視線に負けじと、名前もむすりと睨み返した。
 もともと名前が上京してきたのは、指導を受けたい教授が今通っている大学にいたためだ。卒業後のことは特に考えておらず、なるようになるだろうという気楽さで就職活動の時期を迎えた。
 名前の実家は、地元では多少名の通った企業の創業者一族だ。なので宮城に戻ればどうあれ職にはありつける。
 東京にも親族はおり、名前が借りているマンションもまた、この辺りで地主をしている親族が格安で貸し出してくれている部屋だ。
 就職に関しては、コネといえばコネなのだが、正規の採用試験も受けている。特に後ろ暗いところはなかった。黒尾もそれ以上この話を深掘りする気はないようで、
「まあでも、春からもこっちなら、しばらくは苗字さんとの茶飲み友達の間柄も続くかな」
 さりげなく話の向きをずらしていく。が、ずらした先もそれはそれで、名前にとっては気になる内容だった。
 来年以降の話など、今の名前には遠い未来も同然だ。その遠い先の話を、黒尾は何でもないことのように口にする。嬉しいと、そう思ってしまうことが不思議だった。出会ってまだひと月ほどの黒尾と話をすることを、すでにこんなにも楽しみに思える自分が。
 上京してから友人らしい友人のいない名前には、東京に年の近い友人もいない。だから黒尾と話をすることがこんなにも楽しいのだろうか。思えば上京してまもなくの頃、女帝の恋人と親しくしたときにも、名前の心には人恋しさが募っていた。
 そんなことをつらつら考えているうちに、気付けば名前たちはマンションの前まで辿り着いていた。
「苗字さんちここ? 独り暮らしだよな? 家、でかくない?」
「親戚が管理人をしているので、その縁で格安で借りているんですよ」
「さっきから薄々感じてたけど、もしかして苗字さんの実家ってわりと太い?」
「そうですね……」
「まじかい。お嬢さんなのね」
 お嬢、お荷物ここまでで大丈夫ですか、と黒尾がふざけて笑う。名前は荷物を受け取った。
 束の間、部屋まで上がってもらうべきか思案する。スーパーからマンションの前まで、重い荷物を運んでもらったのだ。いくら黒尾が易々と運んでいるように見えたからといっても、楽に運んだはずはないだろう。
 だが、「よかったら上がっていってお茶でも」というそれだけの言葉を、名前は躊躇った。
 部屋に上がってと言えるほど、黒尾と名前はまだ親しくない。お茶でもどうですかと言えるほど、黒尾に心を許したわけでもない。そんな思いが、名前の喉元まで上がっていた誘いの言葉を、胃の腑にふたたび押し戻す。
 結局、荷物を持ってもらったことへのお礼の言葉だけを口にした。そこでふと、名前は気付く。
「あれ、というか黒尾さんは何処か出掛けるところだったんですか」
「ああ、うん。なんか食べるもの買いにいこうかなと」
 さらりと返された声に、名前はええっと声を上げた。
「じゃあもしかして、私に声を掛けてくれたとき、黒尾さんはちょうどスーパー入るところだったってことですか? いやいや、なんで私の荷物持ってるんですか。すみません、本当に」
「大した距離でもなし、別に行って戻ればいいかなと思ったんだよ。運動もかねて」
 そう言って、黒尾はにやりと笑みを浮かべた。一癖ありげなその笑顔は、どう見ても名前が気にしないようにと作られた表情だ。謝られても困るのだろう。名前はもう一度、ありがとうございましたと黒尾に頭を下げた。
「さーて、俺も夕飯買いに行くか。夕飯何食おうかな」
「今日は黒尾さんちのおばあさんたちはご不在なんですか?」
 名前が首を傾げる。
「あー、なんかそうみたいだな。夜には帰ってくるって言ってたけど。父親も今長期出張で家開けてるから、今日は俺ひとり」
「そうなんですか……」
「一家全員おとなだから、まあそのへんは結構みんな自由にやってる」
 黒尾の話を聞きながら感じる、小さな違和感。その正体に思いを馳せた名前は、すぐに違和感のわけに気がついた。
 黒尾の話には、母親やきょうだいを思わせる言葉が、まったくといっていいほど存在しない。
 しかし気付いたばかりの違和感を、名前はすぐに胸の奥底に葬った。名前が友人関係について極力話したくないのと同様に、黒尾にだって話したくないことはあるはずだ。もしも家族についての話題が黒尾にとってのタブーではなかったとしても、わざわざ名前が掘り起こすようなものでもない。黒尾が自ら話すときまで、触れないでおくだけのことだ。
「じゃあ、今度こそ俺は帰る」
「はい。本当にありがとうございました。お気をつけて」
「苗字さんも、帰ったらちゃんと戸締りしろよ」
 去っていく黒尾の大きな背中を、名前はしばらく眺めていた。やがてエコバッグの中身の刺身がいたむかもと気付くまで、名前はひとり夕焼けの中に立ち尽くしていた。
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