その表情を見ているうち、口惜しいことに、いつしか名前は自分の中のむっとした気分が水に流されていくのを感じた。なにも黒尾の顔の造作に見惚れたわけではない。名前は自分でも気づかないうちに、黒尾の浮かべる表情に見入っていたのだ。
赤葦や研磨と知り合ったことで、名前はこれまでよりずっと、黒尾のいろいろな表情を目にするようになった。名前の前では見せないような顔を、ときに黒尾は研磨たちにははっきりと見せる。だがだからといって、名前がそれを寂しく感じたことは、これまで一度としてなかった。
重ねてきた時間の長さや培ってきた関係が違うのだから、見せる顔が違うのも当然だ。名前だって、矢巾の前と黒尾の前では別の表情をしているだろうと自覚している。いつかは自分にもそういう顔を向けてくれるようになればいい。思うことがあるとすれば、精々そんなうっすらとした願望を得る程度だ。
それでも、知っている顔は少しでも多い方が嬉しい。研磨や赤葦に見せる顔の、ほんのおこぼれ程度でも名前に向けてもらえると、名前はそれだけでたまらなく嬉しくなる。研磨や赤葦といる黒尾を見るとき、名前は「少しだけこっちを向いてくれないかな」だとか、そんなことばかり考えている。
すでに過ぎさった時間――研磨や赤葦が黒尾とともに過ごした時間を、今になって名前が共有することはできない。だが、その時間を経て作られた関係のなかで見せる黒尾の表情に触れれば、多少なりとも過去の片鱗に触れることができるような気がした。名前は今の黒尾のことは知っていても、過去の黒尾のことは知らない。
そういえば、黒尾さんは私の部屋を見たことがあるけど、私は黒尾さんの部屋を知らないな。名前はふと、自分が黒尾の部屋はおろか自宅にすら立ち寄ったことがないことに気が付いた。家の場所くらいなら知っているが、一度も足を向けたことはない。
そして、新たな妙案を思い付く。
「どうしても私の家はだめなんですね?」
「だめ。絶対にだめ」
口調はきっぱりしているが、黒尾の思考は別のところにあるらしい。ぼんやりした顔つきで、黒尾は名前の言葉を却下した。
予想通りの返事に、名前はじゃあ、と切り出す。
「それなら、黒尾さんちは?」
「それなら……」
「えっ、本当ですか?」
「えっ!?」
はっと気付いたように黒尾が名前を見た。だがしかし、すでに言質はとっている。名前はにたりと意地の悪い笑顔を浮かべると、
「ホワイトデーの行き先、決まりましたね」
と顔を白くする黒尾にテーブルごしに詰め寄った。
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「それで、苗字さんがホワイトデーにクロんちに来るの?」
「そういうことになるな」
研磨の自宅の玄関先で、黒尾はこわばった笑顔を浮かべて頷いた。もちろんそれが黒尾の強がりであることは、長い付き合いの研磨の目には一目瞭然だ。
所用で研磨から車を借りるかわりにお遣いを頼まれていた黒尾が、頼まれていた買い出しを済ませて研磨の家に辿り着いたのは、名前とお茶会をした日の晩のことだった。
時計はすでに二十三時をまわっているが、今夜はこのまま車を借りて自宅に帰ることになっている。室内に上がらないのは、上がれば帰宅するのが億劫になってしまうことが分かっているからだ。研磨が忙しくしていることは知っているから、寝床を借りる気はなかった。
もっとも、黒尾が急に泊まることになったところで、研磨が世話を焼くわけでもない。だからこれは完全に、黒尾の気持ちの問題でしかない。
研磨が実家を出て自立する際、大人同士の距離で付き合おうと先に決めたのは黒尾の方だった。そうはいっても月に何度かは、こうして何かと用事をつくって研磨の様子を見に来ているのだが。
古い日本家屋の底冷えは、多少リフォームの手を入れたくらいでは解消しない。三月とはいえ、まだまだ夜間は冬さながらに冷える日も多い。もこもこに膨れた二枚重ねの靴下の爪先をこすりあわせて、上がり框に腰をおろした研磨はしらけた目を黒尾に向けた。
「……なんでクロは、たびたびそうやって、自分で自分を追い込むようなことをしてるの?」
幼馴染の容赦ない一言に、黒尾はわぁっと声を上げた。
「だって、しゃあねえだろ! 売り言葉に買い言葉、じゃねえけども! とにかく苗字さんちを避けようって、そればっか考えてたらうっかり頷いてたんだよ」
「いや、だからどうして苗字さんちはダメなの? 今までだって何度かあがったことあるんじゃないの?」
「あるけど、今までと今じゃこっちの心構えが違うだろ」
力説する黒尾をいなすように、研磨は「そうなんだ」と薄い反応を返す。こうなっているときの黒尾は、わざわざ研磨がうまい相槌で燃料を投下せずとも、オートで勝手に話し出す。
案の定、黒尾は研磨の横に腰をおろして腕組みすると、眉間に皺を寄せて唸った。
「だって、そうだろ。今までは、友達ムーブかましまくって『俺は安全ですよー、夜に自宅にあげてもいいような人種と関係ですよー』ってしてたところを、今は『隙あらばそれっぽい空気つくって過去の言動を有耶無耶にしながら告白しますよー』だぞ。ぜんぜん違うわ。もう、方針が百八十度変わってんだって」
「いや、方針以前に過去の言動を有耶無耶にって……それもどうなの……?」
「仕方ないだろ。ここからどうこうするためには、一旦過去の友達ムーブを忘れてもらうしかない。いろいろ考えてみたけど、結局これしかない気がすんだから」
呆れる研磨に言い訳して、黒尾は深く溜息を吐いた。
バレンタインの日、矢巾と話した黒尾は何もかも有耶無耶にするのが一番なのだと結論づけた。自分の言葉に責任を持つという意味においては、正しい選択ではないのかもしれないとも思う。だがすでにボタンは掛け違えてしまい、名前と黒尾は本来ならば不必要なはずの両片思い状態に突入していた。
この掛け違いを正せるのならば、多少のずるさには目を瞑る。その分、ほかの部分で名前に対して誠実であればいい。そんなふうに、自分の良心を納得させた。
「別にクロがそれでいいならいいけどさ」
こだわりを一切感じさせない平板な調子で相槌を打ち、研磨はつと隣の黒尾を見上げた。猫のような瞳が寸時、見定めるように黒尾を見上げる。
「『それっぽい空気つくって有耶無耶にしたい』って言うなら、苗字さんちでもよくない? おれはよく分かんないけど、ひとり暮らしの家の方が距離とか近いだろうし、そういう雰囲気にもなりやすいでしょ」
「そうなると今度は近すぎて、俺が我を見失う可能性があるだろ」
「うわぁ……」
今日一番感情のこもった声で呟いて、研磨はふいと黒尾から視線をそらした。幼馴染のなまなましい話は、聞いていて楽しいものではない。
黒尾の恋愛遍歴がそれほど華やかなものではないことを、研磨はよく知っている。その一方で、黒尾が特に奥手というわけでもなければ不器用なわけではないことも知っていた。さすがに黒尾の言うような「我を見失う」ような状態にまではならないだろうが、だからといって勢いあまって告白以上のことをしないとも言い切れない。
黒尾がどこで誰と何をしようが、研磨にはまったく無関係だ。だがさすがに、一緒に鍋をつついた相手でもある名前に対し軽薄な行いをとることは、不干渉をつらぬく研磨でも想像したくない。
とはいえ黒尾は茂部との一件を経て、慎重に距離を詰めようという基本方針を持っているはずだ。赤葦の出現で一時は焦りはしていたが、誤解が解けた今ではその焦りもなくなっている。うっかり勢いあまってしまうことは、黒尾にとっても本意ではないと信じたい。
そんな研磨の胸中を読んだように、
「その点、俺んちならまだ、家族の誰かしらがいるはずだから」
黒尾が溜息まじりに言葉を続ける。
「そういう意味での俺の気まずさはあるけど、家族の目がある以上はまずいことにはならないはず」
「なんていうか……ギリギリ思慮分別アリってレベルだね。背に腹はかえられないっていうか。自制心が働くように環境をつくってるのは正しいと思うけど」
「自分でも思う」
やや眉を下げて、黒尾が笑った。二十歳を数えてからすでに数年経つというのに、黒尾はいまだ思春期のような悩みを持て余している。それもこれも名前の恋愛レベルが、小学生と同等だからだ――と、黒尾は内心で責任転嫁してみるが、むろん、それだけが理由ではないことは自分が一番よく分かっている。
焦って仕損じたくない、急いで今の形を歪めてしまいたくない。そんな身勝手な怯懦を、大切にしたい、ゆっくり進めていきたいという耳障りのいい言葉に置き換えているという自覚が、黒尾にはあった。そのくせ、名前の隙を見つけるとすぐにでも付け込みたくなる。なにせ名前は、黒尾の前では隙だらけもいいところだ。名前よりは多少恋愛の心得がある黒尾としては、いちいち見て見ぬふりしてやるだけでも相当の努力を要する。
矢巾が言うには、名前は黒尾を紳士的だと評しているらしい。どこまで本気かあやしいが、だからといってまるきり冗談というわけでもないのだろう。そうありたいと思いはするが、そこまでの信頼を寄せられると動きにくい。それもまた、身勝手な都合だ。
靴下で着膨れた足の爪先を、研磨は玄関の便所サンダルにつっこんだり抜いたりしている。黒尾の話を聞いていないわけではないのだろうが、そろそろ飽きてきてはいるのだろう。黒尾は苦笑した。研磨は表情に感情が出にくい分、些細な所作や仕草は驚くほどにものを言う。
玄関横の小窓は、すりガラスを真っ黒の夜の色に染めていた。そろそろ潮時だ。
「けどまあ」
と、話を切り上げる調子で黒尾が発した。
「実際、ホワイトデーのデートっつっても、めぼしい行き先が頭にあったわけでもなし。なんだかんだで苗字さんの言い分を聞いてるって意味では、俺んちはありだったのかもな」
「言い分?」
「『元カノと行ったことがない場所』ってやつ。俺、彼女のこと家に呼んだことないし」
「そうだっけ……?」
研磨が疑わしげに首を傾げた。人付き合いの苦手な研磨はこれまで、黒尾の恋人と面と向かって挨拶をしたこともない。だが相手の顔くらいは知っていたし、黒尾が恋人とふたりでいるところを見かけたこともある。家の近所で出くわしたこともあるから、てっきり家にあげたことくらいあるのだろうと思っていた。
「向こうの家に行ったことはあっても、俺んちに呼んだことはないな。じいちゃんばあちゃんに会わせたこともない」
「ふうん」
「というか、研磨に家にあげた話なんかしたことなかっただろ」
「クロの今までの恋愛情報なんて知らないよ。おれの適当なイメージ」
ついには投げやりに切り上げて、研磨は上がり框に立ち上がった。次いで黒尾も立ち上がる。大学が春休みに入り忙しくしている研磨を、これ以上無駄話に付き合わせるわけにはいかなかった。
「とにかく、ホワイトデー頑張って。あと苗字さんが来るなら、部屋の掃除も」
「おー、お前も頑張れよ。仕事一段落したらまたコラボ関連で打ち合わせ来るかも」
「はーい」
ゆるく首を傾げ手を振る研磨に見送られ、黒尾は研磨の家を出る。敷石を無視して砂利の上を歩くと、足元で革靴の底が音を立てた。すでに夜は深くまで降り、静けさを時折ふくろうの鳴き声が細く長く裂いていく。
他人の恋愛話はおろか自分の恋愛にすら興味を抱かない研磨が、夜遅くでもこうして黒尾の近況報告という恋愛相談に付き合ってくれる。その有難さは、研磨をよく知る人間ほど実感できることだ。
ふと胸の裏側がくすぐったいような気分になる。黒尾は暗闇の中、ひとり笑いを噛み殺した。