047

 水族館など、名前は中学生の校外学習以来行ったこともない。だがそこが男女の友人がふたりで行くのにポピュラー、なんて場所ではないことくらいは、さしもの名前も知っていた。
 もしも付き合っていない男女がふたりで行くのなら、それはそのふたりが相当の水族館好き仲間であるか、あるいは近々付き合う予定なのだ。そう思い込むくらい、名前の中で水族館はデートの定番スポットだった。
 あまりの返答に、もはや恐れおののいてすらいる名前に、黒尾は不思議そうに首を捻る。
「え、苗字さんは水族館好きじゃない?」
「いえ、そんなことはまったくないんですが……水族館……? えっ、水族館って、普通に知人といくものですか……?」
「行くだろ」
 即答する黒尾。ということは、黒尾の休日の過ごし方の中には「知人と水族館」という選択肢があるということだ。つくづく黒尾の交友関係の広さを思い知る。黒尾には休日に一緒に水族館に行こうと誘い合うような、水族館好きの知人がいるということだ。
 だが、そこで名前ははたと思い至る。ひと口に知人といったって、知人の中にもいろいろある。友達だって、恋人だって、相手を知っているという点においては等しく知人だ。
 黒尾さんの場合、これは知人というか恋人――元恋人との話をしているのでは?
 直後、名前の頭の中には、断崖絶壁に白く泡立つ激しい波が打ち付けるさまが、心象風景として浮かんだ。ザパーンと音を立てて砕ける波を眼下に見下ろし、「それって元恋人の話じゃないんですか!」と叫ぶ己の姿が脳裏をよぎる。荒れ狂う海は、名前の心情をそのまま反映していた。
 ふうと長く息を吐き出し、名前は心を落ち着かせた。それからやおら声を低めると、
「ちなみに黒尾さん、最後に水族館に行ったのは?」
 ごく平坦な調子で、名前は黒尾に問いかける。その瞬間、なぜか黒尾の喉が、ごくりと不自然に上下した。
「……最後に行ったのは大学時代、だったか?」
「大学時代。それは、誰と?」
「だから、当時の知人」
「知人。その相手は、親密な相手?」
「アキネイターみたいな会話の展開をするのやめてください」
「その相手は、親密な、相手ですか?」
 戸惑う黒尾に一切取り合わず、名前は同じ問いを二度重ねた。黒尾が珍しく落ち着かなさげに視線を泳がせる。意味もなくからのカップに指をかけ、しかしすぐに手をテーブルの上に置きなおした。
 しばしの沈黙ののち、黒尾はぼそりと呟き答えた。
「…………親密というか、研磨的な相手」
「孤爪くんではない、孤爪くん的な人って何ですか。絶対何らかの事情を隠そうとしてるじゃないですか。往生際が悪い……!」
 頑として視線を合わせようとしない黒尾に、名前は唇をわななかせた。
 黒尾の言い回しでは、ほとんど答えを口にしているようなものだ。友達ならば友達といえばいい。研磨的な――つまりは研磨のように親密な、しかし研磨ではない相手となれば、そんなものは恋人以外の何者でもない。
 付き合ってるわけじゃないんだし、黒尾さんの過去の恋愛遍歴がどうであっても私には何を言う権利もないんだけども! 憮然として、名前はコーヒーを啜る。
 黒尾は妙に気まずげにしているが、ただの友達でしかない名前には、黒尾が過去に恋人と水族館に行ったことなどまったく関係がない。かりに元恋人とデートした現場に名前を連れて行ったとしても、そこには何の問題もないはずだ。
 だが現実問題、名前は黒尾の過去の恋愛を想起するような場所に、黒尾と一緒には行きたくなかった。そもそも名前にとっては、デートスポットに黒尾と遊びに行くような迂闊うかつな真似はご法度はっとだ。名前はとにかく、黒尾といい雰囲気になることを徹底的に避けなければならない。デートスポットなど、いい雰囲気になるための場所のようなものだ。
「黒尾さんが過去、女性と一緒に行ったことある場所はなしです」
「なんでだよ。水族館はなしにするにしても、その縛りは何だ」
「諸事情によってです。私が行きたいところでいいんですよね!?」
「くっ……」
 黒尾がもの言いたげに名前を睨んだが、名前はやはり、その視線も黙殺した。
 とはいえ、たとえふたりが恋人同士でなくたって、過去の恋人と一緒に行った場所に連れて行かれるのは嫌だという名前の乙女心には、黒尾にも察するところがあったらしい。ひとまず、水族館は候補から外すことになった。
 黒尾はまだ、テーブルの上の雑誌を名残惜し気に見つめている。そのもの言いたげな視線に、名前は若干の罪悪感をおぼえながら、しかし吹っ切るように口を開いた。
「というわけですから、黒尾さん。今回は遠出はやめておきましょう」
「苗字さんが遠出に乗り気じゃないのは分かった。苗字さんのためのホワイトデーだし、そんなに嫌なら無理強いはしない」
「それなら――」
「けど、それこそなんでそんなに嫌なの? 社会人になったら遠出すんのもしんどいかもしんないわけだし、行っておくなら今だろ」
 黒尾の当然の疑問に、名前は一瞬返答に詰まった。まさか正直に「遠出して浮かれて好きだってバレたら困る」などとは言えない。「いい雰囲気になっちゃったら困る」とはもっと言えない。
「やめと言ったらやめです。なんでもです。遊ぶなら近場で遊びましょう」
 もはや道理も理屈もあったものではない。何故と理由を聞かれて「なんでも」なんて答えるのは、小学生くらいのものだ。だが、名前も名前で必死だった。遠出した先でうっかり気持ちがバレてしまい、帰り道の空気が重たくなりでもしたら――考えただけで胃が痛くなりそうだ。
「そうだ、孤爪くんちでちらし寿司パーティーとか!」
「ちらし寿司ィ?」
 胡乱げな声を黒尾が上げる。名前は取ってつけたような笑顔で、何度もこくこく頷いた。
「私、大学で友達がいなかったので、そういう友達とのホームパーティー的なものへの憧れがあるんですよね」
 ほとんどでっちあげの動機だが、まったくの嘘というわけでもない。黒尾や研磨とのクリスマス鍋パーティーは楽しかったから、またそういう機会があればいいのにとは思っていたのだ。
 しかし、
「研磨はしばらく立て込んでるらしいから今回は抜き」
 黒尾はあっさりと、名前の案を却下した。
「孤爪くん忙しいんですか? 春休みなのに?」
「あいつの場合、春休みだから、だな。長期の休み使っていろいろやりたいことがあるんだと」
「ああ、たしかに大学の講義がある時期だと、がっつり時間を取って何かをするっていうのも難しいですもんね」
「そういうことです」
 本来ならば名前と研磨は同学年のはずだが、研磨の場合、起業する関係などで休学していた時期があり、卒業は来年以降になるらしい。黒尾によれば、来年卒業するつもりなのかどうかも怪しいとのことだ。
 もっとも、研磨には就職活動など無縁のことだろうし、遊んでいて単位を落としているわけでもない。学費も生活費もすべて自分で工面しているのだから、誰に卒業を急かされることも、文句をつけられることもない身の上だ。
 名前としては、黒尾とお茶会以外で会うのに第三者が一緒にいてくれた方が気楽なのだが、研磨が忙しくしているというのならば仕方がない。研磨の家で何かするという案は却下することにした。
 だが、そうなるといよいよ行き先の候補は限られる。近場で、浮ついた空気になることもなく、日帰り可能で、なおかつ黒尾が昔の恋人とは行ったことのない場所。そんな場所が果たして存在するのだろうか。この際適当に食事をするだけでも構わないのだが、黒尾を納得させるためには多少のイベント感も必要だ。
 いくら名前へのお返しとはいえ、黒尾が楽しくなくてはホワイトデーの意味がない。それは名前の望むところでもない。
 腕を組み、名前はううむと思案する。と、その時。
 不意に名前の頭に、天啓がひらめいた。
「あっ、じゃあいっそのこと、私の家はどうですか? うちでパーティーやりましょうよ」
 今度は名前がぱんっと手を打った。何故今まで気が付かなかったのだろうか。研磨の家でだめならば、名前の家を使えばいいではないか。
 本来付き合っていない男性を自宅にあげるのは考え物だが、黒尾には過去にも名前の家にあがった実績がある。そして過去一度たりとも、それで浮ついた空気になったことなどない。二度あることは三度あるの言葉通り、今度もつつがなく浮つかずに過ごすことができるはずだ。
 自宅ならば名前も落ち着いて煩悩を消滅させられる。何か美味しいものでも買ってきて食べれば、特別なイベント感だって多少は出るだろう。
 これ以上の妙案はないはずだ。名前は得意げな表情を浮かべて黒尾を見る。だが、
「いやいやいやいや、待ちなさい。それはダメだ、今回はそれはダメだ」
 先ほどとは反対に、今度は黒尾が猛烈な反対を主張した。日頃の名前の意思を尊重し、反対するときにもやんわりとした物言いをしがちな黒尾とは打って変わって、かなり強硬な反対の仕方だ。名前は訝しく思いながらも、口をとがらせる。
「なんでですか? 近場で、日帰り可能で、黒尾さんがほかの女の人と行ったことが無くて、ちょっと楽しい場所としてはかなりうってつけでは」
「なんでもです。とにかく苗字さんの家はだめです。この時期は特にだめ」
 取り付く島もないとはこのことだ。この時期とはどの時期なのか。名前以上に理屈の通らない主張に、名前はじっとりと黒尾を見据えた。
 黒尾自身、道理の通らない主張だということは分かっているのか、名前とは視線を合わせようとしない。黒尾の視線はテーブルの上の雑誌の表紙の上を滑っていた。
「なんでだめなんですか? どうしてもだめなんですか?」
「どうしても。今はその時ではないのです」
「どうしても?」
「どうしても!」
 きっぱりと言い切られ、名前はいよいよむっとして黒尾を見た。ついさっきまでは自分も大概頑固を通していたのだが、いざ同じことを返されると、思った以上に釈然としないものがある。せめて黒尾が断固拒否している理由だけでも分かればいいのだが、それもこの調子では教えてもらえなさそうだった。
 名前はむっつりとした顔で黒尾を見据える。名前と視線を合わせず、斜め下に視線を逃がした黒尾は、角度の問題なのかいつもより、心なしか幼げな表情を浮かべているようにも見えた。
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