046

 ようやく春が近づきつつある、三月はじめ。大学の卒業式を終えた名前は、最後だからと夜の謝恩会にも顔を出し、それなりに楽しい卒業式の一日を過ごした。
 終わってみれば、大学の四年間はそれほど悪いものではなかった。友達ができなかったということ以外には、特に瑕疵かしもなかったように思う。就職こそ大学の専門とは無関係のところに決めてしまったが、だからといって四年間の勉強が無駄になるというわけではない。
 ともあれ無事に卒業したからには、四月の入社式までは特にすることもない。桜の花はまだ遠く、さりとて梅の盛りは過ぎている。お花見をするにはまだ早いこの時期、名前にできるのは残り短い学生期間で身体を休めておくことくらいだ。
 そうしてのんびりと三月前半が過ぎ行こうとしていた、ある日。久し振りに開かれたお茶会で、黒尾はくつろいだ顔でコーヒーを啜る名前を前に、胡散臭げな微笑を浮かべて言った。
「苗字さん、今何か欲しいものとかある?」
「ないですねー」
「即答? 物欲ゼロか」
「だってこれ、ホワイトデーのリサーチですよね」
 コーヒーの付け合わせのビスケットをつまみ、名前は目を細めて黒尾を見返した。

 慌ただしいバレンタインから早一か月。店先に並ぶチョコレートには、漏れなくホワイトデーの謳い文句がついているこの時節。名前と黒尾の間に持ちあがる話題も、例に漏れずにホワイトデーについてだ。
 バレンタイン当日に風邪をひくという間の悪さを発揮した名前だったが、矢巾にメッセンジャーを頼むことで無事、チョコレートを黒尾に届けることができた。あの日、夕方に名前の様子を見に来た矢巾が、これまでの黒尾への不信感をあらわにした態度とは打って変わって「まあいい人なんじゃねえの」などと言い出したときには、矢巾と黒尾の間で一体何が起きたのかと朦朧とする頭で驚いた名前だったが、それはそれ。
 矢巾の変貌はともかく、黒尾からも後ほどちゃんとお礼のメッセージが届き、名前はひとまずほっと胸を撫でおろしたのだった。
 それが今からひと月近く前のこと。その後、黒尾が一度病み上がりの名前の様子を見に『猫目屋』に来てくれたが、そのときは黒尾に用事があるとかで、お茶会をすることもなくそそくさと帰ってしまった。
 以来顔を合わせる機会もなかったのだが、今日また黒尾がふらりと『猫目屋』にやってきたので、こうしてお茶会をすることになっている。
 晴れて大学も卒業し、いよいよ名前のアルバイト卒業の日も近い。今後もお茶会を続けていくのならば、今のように名前のアルバイト終わりを狙ってふらりと黒尾がやってくるという、成り行き任せの方法はとりづらくなるだろう。お茶会をどのように続けていくかについても、また検討しなければならない。
 閑話休題――
 ビスケットをぽりぽりと噛み砕き、名前はじっと黒尾を見る。どのようにしてあの矢巾を懐柔したのかも気になるが、今はそれよりもホワイトデーだ。まさか黒尾ともあろう人物が、手作りチョコのお返しとして、適当な市販の菓子を寄越すとは思えない。ホワイトデーについて何らかのリサーチがあるだろうことは、名前でなくても予想できることだった。
 日頃から黒尾にお世話になりっぱなしの名前は、むしろ何もお返しをもらわなくてもいいくらい、黒尾への恩という名の債務がたまっている。黒尾は特に気にしていないのだろうし、バレンタインでチョコレートをもらったならばホワイトデーにお返しをするのは当然の義務くらいにとらえているのだろう。だが普段から与えられる側の名前には、日に日に溜まっていくばかりの恩が、どうにも気になって仕方がない。
「黒尾さんからはもうすでにお礼の言葉はいただいてますし……、そもそも秀くんに渡してもらったような代物なので」
「いとこくん挟んでたとしても、苗字さんからもらった事実に変わりはないだろ」
 それはそうなのだが、大したものをあげたわけではないのも事実だ。有名ブランドの高価なチョコレートを渡したわけでもなし、お返しをねだるのは烏滸がましくすら思う。
 そんな名前の心中を見越したかのように、黒尾はわざとらしく顔の前で手を合わせ、拝むような仕草をする。
「苗字さんの手作りってだけで、十分ありがたい品ですよ」
「いえ、本当に大したものではないので、そうまでされると逆にいたたまれないです。やめてください」
「いたたまれないことある?」
「ありますよ。本当にやめてほしいです」
 黒尾がどこまで本心で言っているのかは不明だが、揶揄うにしてもやめてほしかった。過ぎた賞賛には、嬉しさよりも居心地悪さの方が勝る。ちなみにチョコレートは矢巾の分も用意していたのだが、矢巾からは「うまいけど、無難」と率直すぎるコメントをもらった。名前にもその自覚はあったので、だからこそ余計に、黒尾の手放しの賞賛がいたたまれない。
 だが黒尾にそんなことを心情的な話をしたところで、行きすぎの賞賛もホワイトデーのお返しも引っ込めはしないだろう。となれば、もっと実際的な話で黒尾を説得するしかない。
「そもそも、今はそんなに物欲がないんですよね。欲しいものは自分でお金貯めて買いたいというのもありますし」
「それも分かるけれども。前もベッドパッド欲しいとか言ってたよな」
「あれは買ったんですよ、ふふふ」
「嬉しそうで何よりだけど、リサーチって分かってるならちょっとは協力してください」
 呆れた顔で笑われて、名前はううむと思案した。
 目の前の黒尾を見るに、お返しをしないという選択肢はなさそうだ。だが黒尾にお返し選びを任せてしまうと、またクリスマスのときのように名前からのプレゼントとは額が見合わないものをもらうことになってしまうかもしれない。それを避けるためには、手頃な価格のもので手を打ってもらうのが一番だ。
 問題は、それを黒尾が納得しそうにないということだった。納得してもらうためには、安価ながらも名前が本当に欲しいものを挙げるしかない。名前は必死で頭をひねり、欲しいものを考える。しかし、そんなに都合よく丁度いい品を思いつくはずもない。
「うーん、でも欲しいものって本当にないんですよね……。あれだったら、お菓子とか」
 お菓子といってもピンキリだろうが、それでもそう高価なものにはならないだろう。一緒に駄菓子屋にでもいって、いくつか欲しいものを買ってもらえばそれで済む。
 しかし黒尾は、当然ながら釈然としない顔をしている。
「苗字さんがお菓子がいいっていうなら、それは構わないんだけどさ」
「構わないって顔ではないですね」
「いや、だってホワイトデーだぞ。センスと甲斐性を無言のうちにはかられる、世にも恐ろしい返礼イベント……」
「そんなの気にしませんよ……」
 むしろ名前は、お返しはいらないと先ほどから再三言っている。勝手にハードルを高くしているのは黒尾の方だ。
 と、依然不服そうにしている黒尾の視線が、ふとテーブルの上に置かれた雑誌の表紙にとまった。名前もつられて視線を向ける。名前のアルバイト時間が終わるのを待つ間、黒尾が暇つぶしで読んでいた雑誌は、『猫目屋』で購買し置いているうちの一冊だ。
 ローカルメディアであるその雑誌の表紙には、今号のメイン企画である寺社仏閣めぐりの文字が踊っている。ちょうど来月あたりは花見の時期と重なるので、桜の名所でもある寺社を中心に特集を組んでいるらしい。
 名前は表紙の文字を見るともなく眺める。と、
「もし欲しいものなくてとりあえずで言ってるなら、いっそ卒業祝いも兼ねてどっか行く?」
 やおら黒尾が、ぱんと手を打った。静かな店内に、乾いた拍手の音が響く。黒尾はさも妙案とでもいいたげに、にんまりと顔をほころばせていた。対する名前は、訝しげに目を細めて首を傾げる。
「どっか? どっか、とは?」
「日帰りできるとこでどっか、楽しいとこ行こうぜ」
 その言葉に、名前のこめかみがひきつった。
 日帰りできる、どっか楽しいところ。そんなところに、意中の相手である黒尾と一緒に行ってしまった日には、自分がどうなってしまうのか――想像するだに恐ろしい。まず間違いなく、浮かれた阿呆になってしまう。
 名前は自分のことを、それなりに自制心のある人間だと思っている。しかしだからといって、鋼鉄の理性や不動の精神を持っていると過信しているわけではない。魅惑の環境に放り込まれ、そのうえで浮かれずに泰然たる態度をとれるだろうとは、とてもではないが言い切れない。
 今の名前にとって、黒尾を伴っての楽しい場所というのは、行き先がどこであれ鬼門だ。楽しさにかまけて、うっかりときめいているオーラが駄々洩れになってしまいでもしたら。そのときは異様なまでに勘の鋭い黒尾のこと、たちどころに名前の気持ちに気付くに違いない。
 黒尾が名前のことを茶飲み友達としか思っていないことは分かり切っている。その事実が覆らない以上、名前はけして黒尾への気持ちを黒尾に知られてはならない。下心を持っていることがバレた日には、今の関係は崩壊し、完全に破滅してしまうことだろう。
 日帰りできる、どっか楽しいところ。これ以上ないほど魅力的な提案だが、それは同時に、絶対に乗ってはいけない沈没必至の泥船でもあった。黒尾にとっては楽しいボートかもしれないが、名前にとっては終焉への船出だ。
 ごくりと唾を飲み込んで、名前はこわごわ黒尾を見た。黒尾は名前の決死の覚悟――死出の旅にはけして出まいという覚悟には、まだ気付いてはいないらしい。その証拠に名前の気も知らず、黒尾はにこにこと機嫌よく笑っている。
 ごほんと名前は空咳をして、それからひたと黒尾を見据えた。
「……ちなみにですが、黒尾さん。具体的に言うと、楽しいところとは?」
 映画館くらいならば、前にも一緒に行ったことがある。研磨の家、映画館、飲食店。そのレベルの楽しい場所であれば、どうにか平常心で乗り切れる可能性があった。研磨の家ならばなおよい。名前も安心して賛同できる。
 黒尾は雑誌から視線を上げ、ついでに口角も上げた。見るからに機嫌がいい。
「どこっていうか、それこそ苗字さんが行きたいと思ってるところでいいけどな。何かイベントとかやってるならそれ狙って行ってもいいし、普通に水族館とかでもいいし」
「普通に水族館……!?」
 ぎょっとして、黒尾の言葉を繰り返したきり、名前は思わず口許を覆い絶句した。そのへんの飲食店やら研磨の家やらなんて名前の予想の遥か先を行く、とんでもなく高度な候補だった。
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