045

 出会ってまだ一年にも満たないのだから、名前について知らないことがある、そんなことは当たり前だ。黒尾だって名前に話していないことが山のようにあるし、名前に見せている顔は黒尾の持つたくさんの顔のうちの、ほんのひとつ、ほんの一面にすぎない。
 まして、黒尾と名前はこれまで、恋愛の話をそれとなく、しかし断固として避けてきている。知らないことはあって当然で、それはこれから知っていけばいいだけの話。そんなことは黒尾も分かっている。分かっていたはずだった。
 それなのに、今の黒尾は自分でも滑稽なほどに狼狽えているのだった。自分の知らない、名前の過去の恋愛に周章しゅうしょうしている。名前の過去にほかの男の影がまったくなかったなんて、名前はひと言もそんなことは言わなかったのに。
 狼狽しているその理由にも、黒尾は自分で見当がついていた。黒尾の中には、名前のことを手のひらで転がしているという感覚が、うっすらながらも確実にある。主導権を握っているのは自分で、成り行きを決めるのは常に自分だ。そんな意識が常にどこかで働いていた。
 名前は恋愛の駆け引きができるほどの経験値を積んでいない。そう思っていたから、その前提を覆しかねない情報に、心を乱されているのだ。
 だが黒尾は、その狼狽を表に出すようなことはしなかった。矢巾も寸時黒尾の表情を窺ったものの、すぐに「言っても、昔の話ですけど」と付け足した。それほど大した問題ではない、というフォローのつもりだろう。
「まあ、そういうわけなんで……、名前は自分から誰かを好きになって付き合ったとか、そういうことは俺の知る限りはないです。だから多分、というか逆に、付き合いたいという欲求が皆無なんだろうと思うんすけど」
「なるほど、付き合った先の楽しさを知らないどころか、すでにちょっとうんざりしてるところからのスタートか」
 気を取り直して思案する黒尾に、矢巾は深々と頷いた。
「そういうことです」
 それならば、名前が黒尾への好意を自覚したところで、これといってアクションを起こそうとしないことにも頷けた。そもそも付き合うことに夢を見ていないのだから、付き合いたいなどとは思わないだろう。
 むしろ現状の『茶飲み友達』であることが楽しければ楽しいぶん、わざわざ付き合いたいなどとは思わないに違いない。気楽なだけの関係に、わざわざ煩わしさの種を蒔きたくないというその気持ちは、黒尾にも嫌というほどわかる。
 黒尾が名前にとって居心地のいい関係を作れば作るほど、名前が黒尾と付き合いたいと思う気持ちは薄れていくのだろう。それは黒尾にとっては、あまり都合のいい展開ではなかった。
 黒尾は顎に手をあてがい、ふむと暫し黙考する。
 名前の意向を一旦さておくとするのなら、黒尾はもちろん付き合いたいと思っている。互いに好きあっているのに付き合わない理由を思い付かないし、うかうかしていておかしな虫が名前に寄り付かないとも限らない。
 黒尾とすら付き合いたいと思わない名前だから、余程のことがない限り黒尾以外の相手と恋人になるとは思えないが、矢巾に聞いたように好きでもない相手と付き合ったという過去の例もある。そもそも名前は世間知らずで、ぼんやりしたところのある娘だ。うまく丸め込まれてうっかり恋人ができてしまうなんてことも、まったくあり得ないとは言い切れない。
 となれば、黒尾はまだ見ぬ恋敵に対して機先を制する必要があるわけだ。そしてそのために黒尾がとるべき行動は――
「付き合ったらこんなに楽しいことがありますよーって、俺が宣伝すれば、苗字さんもその気になるかもしれない……?」
 黒尾がぼそりと呟いた言葉に、矢巾はこくりと頷いた。
「あいつは結構ちょろいですよ」
「おい。いや、ちょろい方が俺は助かるけれども」
 黒尾が苦笑しながら突っ込む。ほかの男にちょろさを発揮されては大問題だが、自分相手にちょろくなってくれる分にはいっこうに構わない。名前のちょろさはうっかりすると据え膳にすらなりかねないが、黒尾には自分ならばそこで自制するだけの理性を持っているという自負もある。
 箱入り娘のちょろさ上等。いっそそのちょろさに付け込んで、いい感じの空気を無理やりにでも作り出し、消し去りたい己の過去の発言をすべて有耶無耶うやむやにする。そのうえで告白まで漕ぎつける。
 それこそがおそらく、黒尾に残された最善の――もっとも事故率の低い選択だ。
 さんざん自分の親切は下心とは違うとうそぶいてきたものは、今となってはもはや取り返しがつかない。無理やりに撤回してあらぬ誤解を受けるくらいならば、いいムードで誤魔化し押し切ってしまった方がまだしも得策だ。付き合いさえしてしまえば、後から言い訳する機会などいくらでもある。
 当面の方針と、最終目標がこれでようやく定まった。黒尾はふうと息を吐くと、相好を崩して矢巾を見た。
「なるほどな。いや、ありがとな、参考になった」
「それはドーモ」
 思いがけず恵まれた矢巾とのお茶の機会に、聞き出せることはすべて聞き出してやろうとは思っていたが、思っていた以上の収獲を得られた。最大の収獲は、今後も矢巾の協力を得られそうだという点だ。どういう事情かは知らないが、矢巾は黒尾と名前を纏めたがっている。それならば、当面は矢巾との利害は一致しているはずだ。
 とはいえ、矢巾がいつ意見を翻さないとも限らなかった。黒尾は矢巾にそれなりに好感を抱いているが、矢巾の黒尾への態度にはどこかつっけんどんな感じが崩れない。矢巾が名前を異性として見ていないというのは本当であっても、幼馴染を悩ませる男相手に好意を抱けないのは当然といえば当然だった。
 味方とすればこの上なく力強いが、敵に回られればこれほど厄介な相手もいない。何せ矢巾は名前のいとこだ。名前への影響力だけではなく、ひいては名前の背後にいる親族全体に通じている。
 信用はできるとしても、念には念を入れておくのが黒尾の常だ。
 もう一手、打っておいた方がいいかもな。
 黒尾は手にしていたからのカップをソーサーに戻し、テーブルの腕で指を組んだ。そしてすっかり話は終わったものという顔をする矢巾に向け、わずかに声のトーンを明るくして切り出した。
「そういや、苗字さんから聞いたんだけど……いとこくんもバレーやってたんだって? 宮城の強豪っつったら、俺らの代だと烏野かウシワカの白鳥沢か――」
 その二校の名を出した途端、矢巾が分かりやすく顔をしかめた。高校時代、さんざん煮え湯を飲まされた因縁の相手である二校への敵愾心は、高校を卒業して数年たった現在でも、矢巾の中に熾火おきびのように燻ぶり続けている。
 だが、矢巾が完全に機嫌を損ねる前に、黒尾はすかさず畳みかける。
「それとも、烏野やウシワカともいい試合してた宮城の強豪……、たしか青葉城西だったっけ? そのあたりかな?」
 その瞬間、矢巾の顔に、大きな驚きとかすかな喜びが広がったのを、黒尾はけして見逃さなかった。
 黒尾はにっこりと笑みを深めて、テーブルの上で指を組みなおした。

 ★

 黒尾と矢巾が『猫目屋』を出たのは、昼過ぎから夕刻へと移り変わろうという黄昏たそがれの刻だった。空気の冷たさに黒尾は思わず首をすくめたが、宮城から出てきた矢巾の方はけろりとした顔をしている。
 矢巾はこの後一度、名前の様子を見に帰るという。感染する病気ではないので名前の家に泊まっても問題ないのだが、当の名前から矢巾がいては気が散るから外に泊まってきてほしいと言われたらしい。今夜は東京の友人の家に泊めてもらうと、矢巾はやや打ち解けた雰囲気で黒尾に話した。
 名前の家と黒尾の家では方向が反対なので、ふたりは店の前で分かれることになる。
「今日は時間とっちゃって悪かったな。じゃ、苗字さんにお大事にするよう伝えてください。なんかあったら遠慮なく連絡してって言っといてね」
「そういうのは自分で言った方がいいんじゃないすか」
「自分でも言うけど、いとこくんからも伝えてもらっても悪いことないでしょ」
「……」
 当然のように繰り出される黒尾の言葉に、矢巾がじとりともの言いたげな目で黒尾を見た。矢巾が言いたいことは大体わかるので、わざわざどうかした、などと聞いてやる気もない。
 あっさりと矢巾の視線を受け流し、そのうえで「ついでにひとつお願いがあるんだけど」と黒尾はしれっと口にした。
「まだ何か?」
「いとこくんが持ってる苗字さんの写真、送ってくれたりしない?」
 ポケットからスマホを取り出して、黒尾はにっと笑った。先程、店内ですでに連絡先の交換は済ませている。連絡先を交換した目的は、名前を攻略するために必要があれば連絡をとるため。しかし黒尾にしてみれば、せっかく得た重要な情報源を使わないなどあり得ない。
 矢巾はむすりと黒尾を見た。
「それ、俺への見返りは」
「俺が苗字さんを頑張って攻略するときのモチベーションが上がる」
「……本当、まじで頑張ってくださいよ」
 そして深々と溜息を吐きながら、矢巾もスマホを取り出した。ざっとカメラロールを遡る。名前との直近の写真は年明けの結婚式で撮ったものだが、さすがに付き合いが長いので、探せばいくらでも写真は出てきた。特に矢巾は、スマホを買い替えてもずっと写真のデータを引き継ぎ続けている。
「写真……。あ、高校の卒業式のとかでいいですか? うちの高校と名前の高校の卒業式の日が一緒だったんで、一緒に家族で飯食いに行って記念撮影したやつ」
 高校時代、セーラー服を着た名前が矢巾の隣でピースをしている写真を選ぶと、矢巾はそれを一分の躊躇もなく黒尾に送信する。
「いとこくん、君は永遠に幸せになるべき人間だよ」
 いとこの写真を横流ししたことへの罪悪感など微塵も見せない矢巾に、黒尾は本心からの謝辞を送った。
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