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 スペシャルティコーヒーを頼んだのは、ちょっとクローサンのことを驚かせたかっただけ――矢巾はぬけぬけとそう言って、結局は黒尾と同じブレンドコーヒーを注文した。ほかの数多の喫茶店と同じく、『猫目屋』においてもブレンドコーヒーは主力のメニューだが、同時に全メニューの中でもっとも価格が安い飲み物でもある。やっぱり苗字さんに似てるよなぁ、と、淹れたてでまだ熱いコーヒーに顔を顰める矢巾を見ながら黒尾は思う。
 もっとも、単に黒尾に大きな貸しをつくりたくないというだけのことかもしれず、矢巾の態度を見ればそちらの方が有力という見方もできる。
 コーヒーで人心地ついたところで、矢巾が先に切り出した。
「それで、俺に話したいことって何ですか。何か用があったから、こうやって声掛けたんですよね」
 相変わらず棘のある物言いだが、話を聞く気はあるらしい。ただ親戚というだけで名前が矢巾に心を許しているとは思えないから、矢巾は見た目の育ちの良さに違わず、性根の善良な人間なのだろう。黒尾はすでに、目の前の矢巾のことをそれなりに気に入りつつあった。
「まあ、そうだな。いとこくんと話をしてみたいと思ってたのはあるけどな」
 一瞬視線を彷徨わせ、
「あ、ちなみに苗字さんからはどの辺りまでどんな感じで聞いてる?」
 黒尾は意味深ににやりと笑って尋ねた。その笑みに、矢巾は不貞腐れたような顔をして「そりゃまあ色々と、お噂はかねがね」と返す。嘘ではないだろう、と黒尾は察した。名前と矢巾は同年代の男女のいとことしては相当親しくしているし、名前が恋愛の話をするとすれば矢巾くらいしか相手がいない。
 矢巾が探るように黒尾を見る。おおかた、黒尾が矢巾の言に対して動揺しているのか、見極めているのだろう。それが分かっているからこそ、黒尾はにっこりと、自分でも胡散臭いほどの笑みを返した。
 黒尾の見たところ、矢巾は名前と同じで、腹の探り合いを得意とするタイプではなさそうだ。案の定、矢巾はつまらなさそうに、眉根を寄せた。
「俺が聞いた話は、クローサンは名前と友達として仲良くしてくれてて、恋愛感情ナシで楽しくやってるってことと……、あとはクローサン経由で友達がふたりくらいできたってことくらいです」
「変な客に絡まれた話は?」
「一応。実家には漏らさないでって念押しされてますけど」
「まあ、そうだな。大体そんなところか」
 茂部のことを実家に伝えるべきかは微妙なところだが、茂部からの接触がなくなった以上は、ひとまず矢巾まで話が通っていれば問題ないだろう。黒尾も目を光らせているし、いざというときに頼る先も確保してある。何より、名前が話さなくていいと判断しているのだから、そこは黒尾がとやかく口を出すべきではない。
 だがこうして矢巾からの話を聞いてみると、改めて名前の交友関係の狭さと、黒尾の絡まない人間関係が壊滅的であることを思い知る。もちろん黒尾について聞いていること、という条件で矢巾は話をしているのだが、たとえ名前の交友関係全般について尋ねてみても、返ってくる答えに出てくる面子は似たようなものだろう。
 黒尾、研磨、赤葦。そして茂部。
「それにしても、こうやって一度纏めなおすと、登場人物が男に偏り過ぎてない? 粘着客以外は俺が引き合わせたようなもんだけれども、それにしても……」
 呆れていいやら感心していいやら分からず、黒尾は眉尻を下げて矢巾を見た。名前の身の回りの人物でいえば、目の前の矢巾も一応は男性としてカウントされる。そうなると、いよいよ性別の偏りも著しい。
 目下名前に恋愛感情を向ける黒尾としては、たとえそのうち過半数が名前をどうとも思っていないとはいえ、複雑な気分にならざるを得ない。
 一方、名前をどうとも思っていない過半数のうちの筆頭である矢巾は、悩ましそうな黒尾に面倒げな視線を投げかける。
「だったら自分の男友達と引き合わせたのと同じ要領で、クローサンが女友達とかを引っ張りこめばいいんじゃないですか。名前に嫉妬のひとつでもさせれば、話が一気に進むと思いますけど」
 何ともぞんざいな口ぶりで、矢巾は適当なアドバイスを口にした。
 ここに来るまでは黒尾の気持ちを知るすべのなかった矢巾だが、見たところ黒尾は名前のことを好いている。名前が何をどう勘違いしているのか知らないが、それならそれで矢巾には都合が良い。
「あれ、いとこくんは俺と苗字さんを応援してくれるのかい」
「こちらにもやむにやまれぬ事情があるんですよ。さっさと名前のことを落として、そのまま宮城に挨拶にでも来てくれれば万歳です」
「いとこくんが物凄く切羽詰まっていそうなことだけは何となく察した」
 矢巾の抱える事情など黒尾は知るよしもない。だが、ひとまず矢巾が黒尾と名前を応援していると知れただけでも、コーヒー一杯を奢った甲斐があるというものだった。
 名前を籠絡――もとい口説き落とすため、今は少しでも外堀を埋めておきたい時期でもある。その点、矢巾の援護が得られるというのであれば、黒尾にとってこれ以上の強みもない。そして、
 ということは、いとこくんのこの刺々しさは、単に俺のことが信用できないってだけか。胸の裡でひっそりと、黒尾は苦笑した。
 もとより自分が他人から好印象を抱かれにくい、相手の警戒心を呼び込むタイプの人間だということは、黒尾自身とうの昔に理解している。こういうとき、天性の華を持つ木兎のことが羨ましい。もっとも木兎になりたいかと言われれば、まったくそんなことはないのだが。
「それはそれとして……嫉妬か」
 ようやく飲みやすい温度になったコーヒーで口を湿し、黒尾は呟いた。
「できれば、というかできる限り絶対に、その手はとりたくないんだよな」
 途端に矢巾が怪訝な顔をする。それもそのはず、黒尾はどこからどう見ても、百戦錬磨の風格を漂わせている。まさか恋愛の駆け引きが面倒だなどと、そんなことを言い出しそうにはとても見えない。
 追われる立場ならばともかく、どこからどう見ても黒尾は名前のことを好いている。そして射止めるための労を惜しむような物臭ならば、こうして矢巾をお茶に誘ったりはしないはずだ。
「なんでですか? 面倒だから?」
「いとこくんは俺のことを何だと思ってるんだ」
 率直すぎる矢巾の疑問に、黒尾は苦笑した。もちろん、面倒だからなどという理由で、名前をやきもきさせる手段を厭うているわけではない。
「実を言うと焼きもちなら一回、苗字さんから自己申告されたことあったんだよね」
「自己申告……」
 あのバカ、と矢巾の顔にははっきり書いてあった。名前のことだ。駆け引きで黒尾に焼きもちの自己申告をしたわけではないのだろうということくらい、矢巾にも容易に想像がつくのだろう。
「苗字さんのそういうところ、素直でいいなと俺は思うんだけども」
 でも、と黒尾は続けた。
「その時の苗字さん、俺が見てすぐ分かるくらい、しんどそうにしてたんだよな。できれば俺は、あんまり苗字さんにああいう顔をしてほしくない……というか、させたくないわけでね」
 話をしながら、その時のことを黒尾はしみじみ思い返す。ちょうどあれは茂部との一件があった日のことだから、三か月ほど前のことになるだろうか。考えてみればたった三か月前のことなのに、すでにずいぶん昔のことのように感じられる。
 あの時点で、名前は黒尾への恋愛感情に気が付いていたのだろうか。名前に自覚があったかは別として、すでに名前から好かれていたはずだという自信が黒尾にはある。だからこそ、名前につらそうな顔をさせたのが悔しかった。名前の気持ちに気付いていた自分なら、もっとうまくフォローもできたはずだった。
 同じてつを二度とは踏みたくない。自分を好きでいることで、名前につらい思いは二度とさせたくなかった。
 何時の間にかテーブルの上の手元に落としていた視線をふと上げる。すると少しだけ驚いたような顔の矢巾と、視線がぶつかった。矢巾が気まずげに視線をそらした。どうやら気付かぬうちに、黒尾はずいぶんと思いつめた顔をしていたらしい。
 肩の力を抜くように、黒尾はふうっと息を吐き出した。
 名前を大切にしたい気持ちはもちろんある。だからといって、付き合ってもいないのにこんなことを言っても、ただ重いだけだったかもしれない。そう気付き、黒尾は自分の口が思いのほか滑らかになっていることを反省する。そしてぎこちなくなった場の空気を変えるように、
「実際、苗字さんの恋愛経験ってどんなもんなの? 女子高出身って聞いたけど、恋人いたこととかあるのかい」
 ことさら軽い調子で、矢巾に尋ねた。矢巾もどこかほっとした顔をしたあと、思い出したようにむっつり顔を作る。
「それこそ本人に聞けばいいことじゃないですか?」
「そのうちタイミングを見て聞こうとは思ってんだけど、こういう踏み込んだ質問はさ、カード切るタイミング慎重にいきたいだろ。そういうのじゃなくて、事前の情報収集として知っておきたい」
「やり口が紳士じゃねえ」
「紳士? 何それ」
 黒尾が首を傾げる。矢巾はずずっとコーヒーを啜ってから答えた。
「名前がクロ―サンは紳士だからどうのって言うんですよ。俺はそういうのは信用してないって言ってるんですけど」
「なるほどな。分かっちゃいたけど、苗字さんフィルターかかってるなぁ。良くも悪くも」
「良くと悪くが何対何ですか」
「五分……いや、四六で若干悪い。まあ自分で蒔いた種なんでね。ちゃんと収獲までするよ」
「収獲」
「おたくの大事ないとこさんを、悪いようにはしませんよ」
「し、信用ならねえ……」
 今のはわざと、茶化して言った。大事なことは茶化すべきではないのだろうが、さっきの今でまたぞろ空気を重くしたくはない。
 その辺りは矢巾も敏感に察しているようで、それ以上紳士云々、信用云々に言及せず、さっさと黒尾の問いへの答えにうつる。
「名前の恋愛経験は、まあ今時の小中学生とどっこいどっこいですかね」
「うん。想像はしてたけども」
 さすがに生まれた頃から一緒に育っているいとこの言葉には重みがある。盛っているわけでもなく、矢巾の目から見れば本当に、名前の恋愛偏差値はそんなものなのだろう。
 黒尾や茂部に接する名前を思い出してみても、それがかなり的確な表現であることは黒尾も納得せざるをえない。そうでなければ、茂部に対してももう少しうまく立ち回れそうなものだ。
 純粋といえば聞こえはいいが、ばか正直で世間知らずなところが名前にはある。だからこそ付け入る隙もあるわけで、黒尾は一概にそこを責められる立場にないが、だからといってほかの男にうまく利用されるのは面白くない。
「今まで苗字さんに彼氏がいたことは?」
「付き合ってたことなら……。高校生の頃、ちょっとの間だけですけど」
「えっ」
 半ば確信していた返事とは別の答えが返ってきたことに、黒尾はうっかり、わずかに腰を浮かせて身を乗り出した。
「いや、そうなの? それはなんというか……意外だな……」
 濁流のように荒ぶる胸のうちから、黒尾はどうにかそれだけ言葉を取り出す。
 正直に言えば、名前に恋人がいたことがあるというのは、かなり意外だ。黒尾はてっきり、名前は箱入り娘として育てられ、恋愛のれの字も覚束ないものとばかり思っていた。
 軽やかなベルの音が店内に響く。入店してきた二人連れの客に一瞬視線を向け、それから黒尾はわずかに声をひそめて「本気で意外……」とぼやくように呟く。
「いや、でもそんな本気のやつではないですよ。彼氏がいたことはあるけど、初恋はまだ、みたいな感じで」
 そう付け足した矢巾の言葉に、黒尾はさらに意外さを募らせる。
「何だそれ、好きじゃないけど付き合ってはいたってこと? 苗字さんってそういうタイプじゃないだろ」
「この辺は俺からはちょっと話しにくいんで、そのうちタイミング見て自分で聞いてくださいよ」
「まじか。話しにくいってなんだ……」
 まったく思いがけない名前の恋愛遍歴に、黒尾はひそかに頭を抱えた。もちろん名前に過去に恋人がいたからといって、黒尾がそれで名前への好意を薄れさせることはない。黒尾だって、過去には人並の恋愛経験はある。だが、自分が思ってもみなかった名前の顔があるかもしれないということに、自分でも驚くほどに黒尾は怯んでいた。
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