043

 バレンタインまでの半月あまり、名前は黒尾と顔を合わせることもなく過ごした。その間はメッセージの遣り取りしかしていなかったが、黒尾の仕事の忙しさを思えば、じゅうぶん破格の対応だ。
 名前がバレンタインにチョコレートを渡したい旨をさりげなく伝えると、黒尾は「じゃあそのへんでお茶会にするか」と快く日時を決定してくれた。必要以上に喜んだり騒がれたりするでもなく、かといってそっけなくもない対応は、黒尾がチョコレートを貰いなれていることを示しているようだ。だが、それで名前の気が楽になったのもまたたしかだった。
 赤葦からの後押しもあり、手作りのチョコレートを作ることに決め、何度か試作もした。そうして迎えた、二月十四日のバレンタインデー当日。

 ――待ち合わせ時間の一時間前、名前はマスクに冷えピタ、パジャマ姿で、布団の中から黒尾に電話を掛けていた。

「もじもじ」
 気をゆるめれば咳き込んでしまうので、声をひそめているものの、それでもガラガラに枯れた嗄れ声だけはどうしようもない。おまけに鼻づまりがひどいせいで、滑舌は最悪だ。
「もじもじ、ぐろおざんでずが」
「愚弄さん?」
「ぐ、ろ、お、ざん」
「ゆっくり言っても愚弄さんなんだよな」
 電話の向こうの黒尾に抗議しようとした途端、胸から咳が上がってくる。慌ててスマホを顔から離し、発作のような咳がおさまったところで再びスマホを耳に当てると、その気配をスマホごしに察したのか、黒尾が「大丈夫か」と心配そうな声をもらした。
「いや、揶揄って悪かった。無理に喋んなくていいぞ。さっきメッセージ読んだけど、風邪で今日は無理って話だろ?」
「ぞうでず」
 通話では姿は見えていないのに、名前は神妙な顔で頷いた。
 今朝、目が覚めた瞬間から喉に違和感があった。心持ち、頭も重く倦怠感があるような気もした。だが名前は、寝ている間に少し冷えたか、そうでなければそういう時期なのだろうとあっさり片付けていた。柄にもなく、バレンタイン気分に浮かれていたのだ。
 ところが昼を過ぎた頃から、じわじわと不調が深刻になりだした。薬を飲んでも頭痛が引く気配はいっこうにない。試しに体温をはかってみると、なんと平熱よりも二度も高い数値を叩き出し、いよいよ声は嗄れてくる始末。頭はガンガン痛んでおり、全身が寒気でぶるぶる震えていた。
 さいわい、チョコレートを作ったのは二日前で、その頃は特に体調に異変もなかった。だからチョコレートそのものは如何ということもないのだろうが、とはいえこのコンディションでは、黒尾にチョコレートを渡しになどいけるはずもない。
 そのことは、黒尾も理解したのだろう。
「電話越しでもしんどそうなの分かるしな。なんか必要なもんあったら買って持ってったろうか。ひとりだと買い出しもままならんだろ」
 ドタキャンの名前を責めるでもなく、むしろ労わるようにスマホごしの名前を気遣った。
「あ、ぞれはだいじょうぶでず……」
「本当だろうな。無理して拗らせても厄介だし、遠慮とかしなくて大丈夫だからな」
「いえ、本当に」
 病院にはすでに行ったし、薬ももらってきている。家には備蓄の品もある。また、運よく今の名前には、今日一日手足のごとく利用できる伝手があった。
「ぞれで、今日なんでずげど」
「分かってるって、後日延期だろ? 了解」
「ぞうではなぐで」
 黒尾の言葉を、名前は言外に否定した。え、と黒尾の戸惑う声がスマホから届く。
 今日の黒尾は名前との約束まで別件があるとかで、出先から直接『猫目屋』に向かうことになっている――名前はそう聞いていた。だから黒尾はこの時間、自宅ではなく外出先にいるはずなのだ。通話の後ろでかすかに聞こえる雑多な音からも、黒尾が屋外にいることが察せられる。
 外にいてくれるのならば、名前にとってはその方が好都合だ。忙しい黒尾にわざわざ別日の予定を強いるのは気が引けるし、何より手作りのチョコレートは日持ちしない。できることならば今日中に、黒尾に渡してしまいたかった。
 幸運なことに今の名前には、自らがおもむかずとも黒尾に届ける手段がある。
「私はぢょっど無理でずが、代打を送りまじだので、黒尾ざんは予定どおり『猫目屋』でお待ぢぐだざい」
「代打?」
「ぞれでは」
「あっ、おい――」
 黒尾の言葉が続いていた気もしたが、咳き込む音を聞かれたくなくて名前はさっさと通話を切った。
 いまひとつ説明足らずな自覚はある。きっと今頃、黒尾は通話の切れたスマホの画面を眺め、眉根を寄せて首を傾げていることだろう。
 だが、これ以上は喉が限界だった。最低限伝えるべきことは伝えたはずだ。
 名前はスマホを放り出すと、ごろりと寝返りを打った。そして体力回復に努めるべく、ぎゅっと目を瞑って眠気が訪れるのを待った。

 +++

 名前の想像したとおり、黒尾は話の途中で無理やり切られたスマホを眺め、呆然としていた。
 名前から着信があったとき、黒尾はちょうど音駒駅で電車をおりたところだった。そのまま駅の構内で通話をしていたために、黒尾はまだ音駒駅にいる。電車内でメッセージを読んだ時点では、このまま帰るか、必要であれば名前の家に見舞いと差し入れを届けようかと思っていたのだが、通話で思いがけず『猫目屋』に行くよう指示されてしまったことで、すっかり黒尾の予定は崩れてしまった。
「つーか、代打ってなんだ……?」
 駅の出口に向かいながら、黒尾は思わずひとりごちた。
 今日の目的がバレンタインのチョコレートを渡すことなのだから、代打というなら名前の代わりにチョコレートを運ぶ人間を手配した、と考えるのが自然だろう。手作りの飲食物なら早めに渡したいものだろうし、名前の性格を考えてもそのこと自体は不思議ではない。
 不思議なのは、名前にはそんな個人的なことを頼める相手が、この東京にひとりとしていなさそうなことだった。オーナーやマンションの家主をしているという親戚を頼る手はあるのだろうが、さすがにバレンタインのチョコレートを運んでくれなどとは口が裂けても言えないだろう。
 研磨はその手の厄介ごとを引き受けたがらないし、赤葦は名前の連絡先を知らないはずだ。そもそも名前は、そうして他人を使ってまで、バレンタインを強行したがる性質たちではない。それならばまだ、見舞いついでに受け取ってくれとを自宅に呼びつけられる方が、よほど納得できる選択だ。それもまた、代打を立てるのに比べればまだ考えられるという程度で、余程ありえないことではあるのだが。
 駅を出て、黒尾は名前に言われたとおりに『猫目屋』へと向かう。道中、民家の塀を越えて早咲きの梅の枝が伸びており、かすかに梅の花のにおいが香った。
 名前と知り合ったのは昨年のゴールデンウイーク明けのことだから、出会ってもうじき一年が経とうとしている。初対面のときから名前の印象は悪くなかった、というよりかなり良かったが、しかしまさか、一年経たずに好きになっているなんてことは、さすがの黒尾も予想できなかった。
 名前は今頃どうしているだろうか。通話の声を聞く限り、かなりの不調だろうと推察できる。黒尾に一人暮らしの経験はないが、風邪の時にひとりになる心細さくらいは知っている。
 幼いころ、黒尾はたびたび研磨の家に預けられていた。働きに出ている父と祖父は当然昼間は家におらず、祖母にも祖母の付き合いがあった。黒尾と父親が転がり込んで同居することになったからといって、祖父母の生活まで捻じ曲げるわけにはいかない。
 さいわい黒尾は健康優良児だったので、滅多なことでは寝込んだりはしなかった。だが稀に風邪をひいたときには、祖母が買い物に出ているほんの一時ですら、家の中の静けさに心許なくなった。そういう記憶は、大人になった今でもずっと、忘れず残り続けている。
 名前は心細くはないだろうか。子どもではないのだからとは思う一方で、一人暮らしで寝込むのはさぞつらかろうとも思う。
 見舞いの品はいらないと言っていたが、本当に大丈夫だろうか。不調の顔を見られたくないというのであれば、ドアの前に差し入れを置いていくくらいならさせてくれるだろうか。
 そんなことをつらつらと考えているうちに、黒尾は『猫目屋』に到着した。すっかり開きなれた木製のドアを、陶製のベルの音を聞きながらゆっくりと開く。例によって店内に客の姿はまばらだが、奥の席にひとり、背の高い男性が座っている後ろ姿が見えた。
「いらっしゃい、鉄朗くん」
 昔からよく知っているオーナーが、ちょっと悪戯っぽく笑って黒尾を手招きした。
「奥の席に、鉄朗くんを待ってるお客さんがいるよ。知り合い?」
「知り合いかどうかは分かんないすけど、俺を待ってる人がいるらしいのはたしかです」
「そうなんだ。じゃあ、奥の席どうぞ」
 オーナーに促され、黒尾は長身の男性の待つテーブルへと向かった。
 椅子を引きつつ、男性の正面へと回り込む。ようやく男性の顔を正面からとらえたところで、黒尾はぱちくりと瞬きし、「おや」と声を上げた。
「代打って誰のことかと思ったら、苗字さんのいとこくんじゃないの」
「どうも」
 軽やかな黒尾の口調に不機嫌そうに返したのは、誰あろう名前のいとこである矢巾秀だった。黒尾との面識は、以前一度ちらりと挨拶を交わしただけだ。だがお互いに相手の顔と名前は覚えている。
「また東京まで来てたのかい。好きだね、東京?」
「別に。卒業前なんで、いろいろあるんすよ」
「それはそれは、ご卒業おめでとうございます」
「まだ卒業してないですけど」
「苗字さんのいとこって感じだな」
 正論ではあるが、微妙にピントがずれている。そういうところが名前と似ていると思ったのだが、黒尾の言葉に矢巾は露骨に嫌そうな顔をした。もとの顔立ちが甘いぶん、顔をしかめたところで大した迫力はないのだが、黒尾に対して一切心を許していないのだろうということだけははっきり伝わった。
 ちらりとテーブルを眺めれば、矢巾の前には水とおしぼりがあるだけで、何の飲み物も注文していないことが分かる。その水もまだ手つかずだから、恐らくそう長く待っているわけではないのだろう。もしかしたら黒尾に渡すものだけ渡したら、注文もせずさっさと店を出ていく気なのかもしれない。
 黒尾の推察のとおり、やおら矢巾は足元に置いた荷物から小さな紙袋を取り出すと、
「これ」
 と、その紙袋をずいっと黒尾に突き出してくる。
「名前から。バレンタインのチョコだそうです」
「面白くなさそうな顔で、どうもありがとう」
 矢巾から紙袋を受け取ると、黒尾はそれを目線の高さまで掲げて検分した。さすがにここで中身を出すようなことはしないが、はやく自宅に帰って中身を確認したい。そして名前に感想を伝えてあげたい。
 そんなことを思いながら、黒尾は紙袋を下げ、かわりに正面に座る矢巾を見た。淡い色とやわらかな髪質に、愛嬌のある顔だち。かっこいいか可愛いかと問われれば、間違いなく可愛いに分類される美青年だろう。だが、百八十センチ以上の長身で、服の上からでも分かる引き締まった肉体を持つ成人男性は、けして黒尾の思う『可愛い』には合致しない。
 黒尾の何とも言えないような視線を受け、矢巾がいっそう不機嫌な顔をした。
「じろじろ人のこと見て、何すか」
「いや……、俺、バレンタイン当日によく知らない年下の男から、手作りの可愛いチョコレートをもらうのかーと」
「要らないなら持って帰ります。名前からもそうしろって言われてるんで」
「うそうそ。持ってきてくれてありがとうございます」
 名前ならば本当にそうしろと指示していかねない。慌てて黒尾は鞄に紙袋を隠し、そして矢巾に笑顔を向けた。だが、矢巾がその笑顔に絆されることはない。
「じゃあ、俺はこれで」
 すげなく立ち去ろうとする矢巾に、黒尾が「待った」とひと言かけた。腰を浮かせた矢巾が、あからさまに迷惑そうに黒尾を見ている。
 黒尾はまったく笑みを崩さないまま、
「メッセンジャーやってもらったし、コーヒーくらい奢らせてくれないかい」
 矢巾に向けてそう尋ねる。矢巾は不審者を見るような目で黒尾を見た。それも当然で、矢巾は名前から聞き知った情報でしか黒尾を知らない。名前が話す黒尾像とは、徹底して紳士で理性と分別と優しさを兼ね備えた人物であり、それはすなわち、矢巾がまったく信用していないタイプの男性なのだった。
 その黒尾が、矢巾をコーヒーに誘っている。これで裏があると考えない方がどうかしているというものだ。
「いや、何もそんなに疑わしげな顔をしなくてもよくない?」
 呆れ混じりににやにや笑う黒尾を、矢巾はしばしじっと見つめていた。あたかも黒尾にどんな裏があるのかを、じっくりと見破ってやろうとでもいうように。
 逡巡のすえ、矢巾はふたたび椅子に腰をおろした。
「……どうしてもって言うなら、一杯くらい付き合いますけど」
「うんうん。卒業祝いも兼ねてということでね、コーヒーくらいしか奢れなくて悪いけども」
 折よくオーナーがテーブルに注文を取りにきた。おおかたカウンターの奥で、耳を澄ませて黒尾たちの遣り取りを聞いていたのだろう。店内にはほかに客はいない。
「俺はいつものブレンドで」
 メニューも見ずに、黒尾は注文を済ませる。一方はじめて来る店でしっかりメニューを確認した矢巾は、
「じゃあこの、スペシャルティコーヒーの『ゲイシャ』で」
 と、この店でもっとも高い――オーナーが趣味で置いているだけで、実際にはほとんど注文の入らない、一杯千百円の最高級コーヒーをしれしれと注文した。もちろん、支払いを黒尾が持つことになっているからこそのあてつけだ。
「……苗字さんとは全然似てないことで」
 黒尾は目を細めると、眉尻を下げてそうぼやいた。
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