042

 気を取り直し、名前は冷めたコーヒーをひと口含んだ。黒尾ともあろう人物が、まさか本命チョコレートをもらっていないはずがない。それは赤葦から話を聞く以前から、薄々分かっていたことではないか――衝撃に打ちひしがれそうになる自分を、内心そう叱咤する。
 名前が見る限りでは、今の黒尾に彼女ができそうなそぶりはない。女性の影は見えないし、気になる相手がいるということもなさそうだ。本命のチョコレートをいくつかもらったくらいでは、いきなりその姿勢が崩れることもないだろう。
 そう考え、名前はひとまず自分以外が贈るであろうチョコレートのことは、意図して考えないことにした。
「ちなみに赤葦くんは、付き合ってないのに手作りは重たい派?」
 気持ちを立て直すべく、名前は無理やり話題を変える。赤葦はあっさりと、
「それは相手によるんじゃないかな」
 どっちつかずな、それでいて正論としかいえない答えを口にした。
「付き合ってないっていっても、ほとんど見ず知らずの相手と付き合いの長い友達だったら、話はまったく違うだろうし」
「私だったら?」
「苗字さんの手作りなら食べられると思う。黒尾さんも、手作りもらえたら喜ぶんじゃない?」
 さりげなく、呼び方を名前ちゃんから苗字さんに戻し、赤葦は言った。名前ならばというのは、研磨と黒尾の友人だからということなのだろう。付き合いは短いが、知人の知人だと思えば多少の信頼は担保される。
 しかし名前は、顔をしかめて首を捻った。
「どうだろう。手作り怖いとか思われないかな。昨今、いろいろあるからね」
「一緒に鍋つついた仲なら大丈夫じゃないかな」
 そういうものだろうか。全員の目の届くところにある鍋と、自宅キッチンでひっそり生成されるチョコレートでは、話が違うような気もする。だが黒尾は名前の家に上がったこともあるし、これまでの付き合いを考えれば、名前の手作りを忌避することもなさそうだ。
 手作りを嫌がられない距離というのは、それだけで嬉しいものかもしれない。そんなことを考えて、名前が市販品ではなく手作りのチョコレートを用意しようかと、ひそかに胸のうちで決めたところで、
「何の話?」
「うわぁっ!?」
 唐突に背後から掛けられた声に、名前は驚き、悲鳴をあげた。店内にいた他の客が、名前の悲鳴に驚き視線を向けてくる。その視線にはっとして、名前は恥じ入り顔を俯けた。さいわい他の客もこの店の常連ばかりだったので、アルバイトの名前の顔は知られており、苦笑されるだけで済んだ。だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 肩をすぼめて俯く名前を見下ろしながら、黒尾が自分の席につく。
「驚きすぎだろ。普通に傷つくぞ」
「す、すみません……」
「黒尾さんが急に後ろから話しかけるからですよ」
 赤葦が名前をフォローしてくれたものの、名前にも驚きすぎな自覚があった。ただ直前までの話題が黒尾に聞かせられないものだったので、過剰な反応をしてしまったのだ。
 椅子に座りなおしてコーヒーを啜った黒尾は、先ほどまでの名前のようにぐっとテーブルに身を乗り出すと、当然のようにその痛いところをついてくる。
「で、何の話してたんだい。なかなか盛り上がってたっぽいけど」
 名前と黒尾が同じ仕草をしても、体格の違いから相手に与える印象がまるで違う。名前が身を乗り出したところでせいぜいが内緒話をしたがっている程度だったが、黒尾が同じことをすると途端に、正面に座る名前を追い詰めるような恰好になった。
「た、大した話はしてませんよ。ねえ、赤葦くん」
 しどろもどろになりながら、名前は無理やり赤葦にパスを出す。赤葦は一瞬露骨に「げっ」という顔をしたが、それでも名前よりは平静を保って、
「文壇の行く末を憂いたり、文学界の未来に希望を感じたりしていたんですよ」
 と、まったくのでっちあげで急場をしのいだ。黒尾は一瞬眼光を鋭くして赤葦に一瞥寄越す。だが赤葦が素知らぬ顔で視線をそらすと、それ以上の追及はやめて椅子に腰を落ち着けなおした。
「何だそれ。よく分かんねえけど、マニアックなオタク話?」
「大体そんなところです」
 しれしれと言い抜ける赤葦に、名前は尊敬のまなざしを送った。心の中で「ありがとう赤葦くん」と両手をあわせて赤葦を拝む。赤葦は視線をそらしたままでコーヒーを啜り、黒尾はすでにその話題に興味を失ったのか、窓の外に視線を遣っては「はやくあったかくなんねえかなぁ」などとぼやいていた。

 ★

 夕方から数時間だけ『猫目屋』でのシフトが入っている名前を残し、赤葦と黒尾は一緒に店を出た。店を一歩出ると、二月の寒さが肌を刺す。暦の上では春といっても、うららかな日和はほど遠い。
 『猫目屋』から見て、黒尾の家は名前の家とは反対方向、つまり駅に向かう方角にある。自然、駅に向かう赤葦と自宅に帰る黒尾は、連れだって歩くことになった。
 コートの前をしっかり掻き合わせ、わずかに背を丸めて歩く黒尾は、姿勢よく道の前を見て歩く赤葦につと視線を送った。赤葦はすぐに気付き、何ですか、と問いたげに黒尾を見返す。黒尾がにやりと口の端をあげて笑った。
「さっき、俺がトイレ行ってる間、本当は全然オタク話とかしてなかっただろ」
「何ですか、急に」
 赤葦が不審げに眉根を寄せる。かまわず、黒尾は笑みを深くした。
「あのとき赤葦と苗字さんがどんな話してたか、俺が当ててみせてやろう。ずばり、バレンタインについて。どうだ?」
「怖っ。いや、なんで分かるんですか」
 本気で引いた声を出す赤葦に、いよいよもって黒尾の笑顔は得意げに輝いた。
 以前研磨の家で鉢合わせした際には、黒尾は赤葦に一本取られていた。赤葦にその自覚はないが、黒尾はそのように受け止めている。
 その意趣返し、というわけではないのだが、やはり赤葦相手に鼻を明かすような真似ができるのは、黒尾にとって気分がいいことだった。このひとつ下の後輩を、黒尾は赤葦が思っている以上に評価している。
 とはいえ此度の慧眼については、特に種や仕掛けがあるわけでもない。時期的なことと、名前が黒尾に好意を持っていることさえ知っていれば、黒尾でなくても当たりはつく。
 道の先を黒猫が駆けて横切っていく。それを視線で追いかけて、黒尾はひとつ息を吐いた。
「まあ苗字さんとの付き合いも結構長くなってきたしな。それに俺は、好きな女の子のことでは結構勘が働くタイプだぞ」
「……それ、本人に言ってあげればいいんじゃないですか。苗字さん喜びますよ」
「言えないからこうやって、陰でこそこそ赤葦のこと詰めてるんだろうが」
「他校の後輩を詰めないでくださいよ」
 軽口を叩き合うが、黒尾の目は完全には笑っていない。赤葦への嫌疑は晴れているとはいえ、まだ完全には油断していないことのあらわれだろう。赤葦もそれが分かっているからこそ、こうして黒尾に付き合っている。
 黒尾とのこれまでの関係性や今後の付き合いを考えれば、多少名前の情報を売ることもやむを得ない――赤葦は内心で、そんな計算をする。そもそも赤葦には名前との間に、探られて痛む腹などまったくない。
 名前との恋愛話は気楽なのに、黒尾との恋愛話はけして楽ではない。そのことをひしひしと感じつつ、赤葦は面倒くささをまとめて溜息に込めて吐き出した。そして頭を切り替えて、しばし黒尾に付き合うことにした。
「それにしても、黒尾さん本当に察しがいいですね。俺も勘はいい方だと思いますけど、そこまでは」
「おまえの勘の良さは、対ボクト特化スキルじゃねえの?」
 黒尾がにやりと笑う。その目に先ほどまでの険はない。どうやら今度は本気で、ただ赤葦のことを揶揄っているだけらしい。
「そう言われると嬉しいような嬉しくないような」
「勘の性能が良すぎるチート能力ゆえに、対象をボクトに限定されてるピーキーなスキル」
「孤爪みたいなことを……」
「幼馴染だからな」
 そうしてすぐに脱線してしまう話題を「ま、それはさておき」と強引に本筋へと戻し、黒尾は改めて赤葦に視線を送った。
「具体的に、どういう話した?」
 口調はあくまで軽やかだが、声音には隠しきれない威圧感が漂っている。普段、無意味に先輩風を吹かすことは滅多にない黒尾だ。だからこそこうしてぐっと詰められれば、赤葦は黒尾を無下にはできなかった。物怖じせずものを言う赤葦であっても、長年運動部にいれば縦割り社会は骨の芯まで叩き込まれている。
 だが、ただで従うのも口惜しい。
「……本当に詰めてくるじゃないですか。俺に苗字さんを裏切れって言ってるんですか?」
 無駄な足掻きと知っていながら、一応の抵抗を試みる。強い言葉を使ったからか、黒尾は多少ばつの悪そうな顔をした。
「裏切りとか言うな。俺が苗字さんに不利になるようなことすると思うか?」
「それは……」
「な、そういうことだ。今赤葦が俺にすべてを打ち明ければ、それは回りまわって苗字さんのためになる。俺が苗字さんのためにする」
 まるきり詐欺師の口上じゃないか。咄嗟にそう言いかけて、それはさすがにあんまりだと、赤葦は自制した。口上はともかくとしても、黒尾の気持ちに嘘はないのだろう。黒尾は名前に不利になることはけしてしようとはしない。
 そんな言い合いののち、赤葦が折れた。予定調和のこととはいえ、赤葦は激しい疲労感に襲われ項垂れた。
「……苗字さんには、俺がバラしたって言わないでくださいよ」
「言わない言わない、情報源は明かさないのが鉄則だからな」
 どこの諜報機関のエージェントですか、と突っ込むのすらも面倒だ。適当に話を受け流し、赤葦は正直に名前との遣り取りを黒尾に伝えた。
「といっても別に、バレンタインについての差し障りない話しかしてないですよ。黒尾さんが学生時代に本命をちらほらもらってたらしいとか、手作りは重たくないかとか」
「お前、なんで俺が本命チョコもらってたの知ってんの」
「誰かに聞いたんですよ。春休みの合宿とかじゃないですか」
 バレンタインとホワイトデーが終わった頃には、例年春休みの短い合同合宿が開かれる。そのときに部員の誰かから聞いたのだろうと、赤葦は半ば投げやりに答えた。黒尾は釈然としない顔で首をひねる。
「そんな話したか? 全然覚えがない……。いや、それはまあいいとして。手作りの話は最終的にどうなったんだよ」
「苗字さんくらいの親しい相手なら、手作りでも重くはないんじゃないかって言ったら、微妙な顔で喜んでました」
「微妙な顔が気になるところではあるものの、手作りを押したのはかなりグッジョブ」
「黒尾さん手作り好きそうですよね」
「好きな子からもらったやつならな」
 さらりと厳しいことを言う。だがそれに関しては赤葦も同意見なので、ことさら異論を口にはしなかった。
 それきりしばらく、ふたりの間に沈黙が落ちる。黒尾は何かを思案するように、顔を前に向けたまま何やらぼんやり黙っている。その横顔を、赤葦も黙って眺めていた。
 黒尾と名前の間にある関係について、赤葦は必要以上に踏み込もうとは思わない。名前の恋愛相談を聞くのはやぶさかではないし、黒尾に密告まがいのことを頼まれれば、よほどのことがない限りは協力もするだろう。逆に言えば、他人の恋路にかかわるのはその程度に留めたい。
 だが恋愛のことならばいざ知らず、旧知の黒尾が不合理な行動をとっているとなれば話は別だった。気にならないといえば、それはやはり嘘になる。
 黒尾と名前の場合、両思いであることは誰の目にも明白だ。まして、黒尾は名前が自分のことを好きだということすら知っている。知ったうえで、こんな茶番じみた関係に大真面目に取り組んでいるのだから、赤葦から見れば、そんな黒尾は不自然以外の何物でもない。
 黒尾のことだから何か考えがあるのだろう。そう思う反面、さっさと告白してしまえばいいのにとも思う。そうすれば少なくとも、こうして名前の知らないところで、赤葦が黒尾に詰められるということはなくなる。
「俺が言うことでもないと思いますけど、黒尾さん、告白しないんですか?」
 そう口にした瞬間、赤葦のスニーカーのつま先が小石を蹴った。飛び跳ねた小石が道の先で音を立てて地面に落ちる。
 小石が飛ぶのを眺めたのは、黒尾に視線を向けたくなかったからだ。不躾だったかもしれない。そんな罪悪感めいた感情が、赤葦の胸にむっと沸き上がる。
 だが一方で、協力しているのだからこのくらいの放言は許されるはずだと、開き直る気持ちも心のどこかにあった。そうでなければ、あまりにも協力し甲斐がなさすぎる、とも。
 様々な思いを乗せた赤葦の言葉に、黒尾は短い沈思ののち、
「なに? 気になる?」
 と茶化すような、それでいて真剣でもあるような、どうにもとらえにくい問いで返してきた。問いに問いで返すのは卑怯だが、はぐらかすつもりもないようで、黒尾の表情はいたって穏やかだ。赤葦の耳に、ごくりと自分が唾を飲む音が聞こえた。
「そういうわけでもないですけど……」
「ないけど、何」
「だって黒尾さん、苗字さんが黒尾さんのこと好きなの気が付いてますよね?」
「そりゃあまあ、苗字さん分かりやすいし」
 それならば、何故。そう言おうと赤葦が口を開いたところで、赤葦の言葉を待たずに黒尾が続けた。
「けど、まあこっちにも色々事情がな、あるんだよな」
 事情というたった二文字に、黒尾はすべてを包み込んで説明を済ませる。その瞬間、赤葦は急激にこの問題がどうでもよくなってしまった。黒尾のことだ、聞けば答えてくれるのだろうが、たとえその答えを知ったところで赤葦が得することなどひとつもない。
「はあ、そうですか。深くは追及しませんが」
「よしよし、そうしてくれ」
 面倒くさげな赤葦の肩を、黒尾が面白がるように叩いた。いやに馴れ馴れしいその態度に、こうして面倒がらせることこそ黒尾の策略だったのか、とはたと気付く。だがもはや黒尾の策から降りるすべもない。赤葦にできることはといえば、せいぜいがこれ見よがしに溜息を吐くことと、
「苗字さんは、黒尾さんに告白されたら喜んで頷いてくれると思いますよ」
 などと言って、ちくちくと黒尾をささやかに刺すことくらいだった。
 冷たい風が、ふたりの間を吹き抜けていく。黒尾は笑うでも怒るでもなく、ただぼんやりと曖昧な表情を浮かべて言った。
「んー、そうだな。俺がうっかり苗字さんの信頼を今みたいに勝ち得る前だったら、そうだったかもな」
「……言ってる意味がよく分かりませんが」
「要するに、安心して、信頼して、夜でも平気で部屋に上げられる男だと思われる前だったら、それでよかったかもなってこと」
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