まだまだ桜の気配は遠いながらも、梅のつぼみがゆるみ始めた初花の二月。名前は黒尾と赤葦とともに、『猫目屋』のテーブルを囲んでいた。今日は珍しく、店内にほかにもふた組の客がいる。名前たちも入れると三組の同時来店は、『猫目屋』にとってみれば盛況のうち。年の初めをやや過ぎてはいるものの、まずまず縁起の良い年はじめといえる。
そんな昼下がりの『猫目屋』で赤葦は、にこにこと屈託なく、見ようによっては何とも胡散臭く見える笑みを浮かべた黒尾に視線を遣り、
「まさか本当に読んでくるとは思いませんでした」
と呆れ半分、感心半分のコメントをした。
そもそも、今日の集まりは本来、名前と赤葦がふたりで会う予定だったものだ。せっかく好きな作家がかぶっているのだから、好きな本や、おすすめの本の話をしたいと言い出したのは名前の方で、赤葦がそれを了承した形だった。
そこに何故黒尾が割り込んでいるのかといえば、ただただ単純に、名前から集まりの話を聞いた時点で「俺も参加したい」と黒尾が言い出したからだ。もとより場所は『猫目屋』と決まっている。赤葦にとっても気心知れた黒尾がいた方が、名前と差し向かいでお茶をするより寛ぎやすいだろうということで、名前はあっさりと黒尾の参加を快諾した。
その結果が、この臨時かつ変則的なお茶会だ。名前が少し前に貸した本をきっちり読み切ってから参加した黒尾は、得意満面でその報告を赤葦にし、そうして上述の赤葦のせりふに至ったのだった。
「どうだ、赤葦。これでもう黒尾さん本読むんですかとは言わせねーからな」
「その件については謝ったじゃないですか……。いや、でも正直驚きました。あの本……というか、あの作者は結構癖のある文体を書くので、普段から本を読み慣れていない人には、読み切るだけでもなかなか難しい本だと思っていたんですが」
「たしかにちょっと読みにくさはあったけど、途中からは慣れたのか普通に読めたぞ。というか、人に頼んで借りた本なら、普通は無理してでも読むだろ」
「いや、社交辞令とかそういうのもあるじゃないですか。黒尾さん忙しいですし」
「忙しいっつっても、本読むくらいの時間は作れる」
そんな黒尾と赤葦の遣り取りを、名前はにこにこ笑いながら眺めている。赤葦や研磨を相手に、むきになったり、少しだけ言葉遣いが適当になる黒尾を見ているのが、名前は好きなのだ。
「というかそもそも、まさか本当に黒尾さんが来ると思いませんでした。黒尾さんから『俺も行くことになったから』って連絡きたときには、何のことかと思いましたよ」
今度こそ十割呆れた顔で赤葦が言った。黒尾が来ることを快諾したのは名前だが、その旨を赤葦に伝えたのは黒尾本人だった。赤葦が言っているのは、そのときのことだろう。名前は赤葦の連絡先を知らない。
ちなみに連絡先を知らない同士の名前と赤葦が、どうして今日この場の開催にまで漕ぎつくことができたのかと言えば、先日またしても、赤葦と名前が書店でばったり出くわしたからだ。その時その場で、次の約束の日時と場所まで決定した。
ともあれ、赤葦の言葉に黒尾がにやりと口の端を上げた。
「だって、苗字さんが赤葦と会うっていうから。じゃあ俺もおすすめ聞きがてら混ざっちゃおうと思って」
「なるほど。おすすめを聞くために、わざわざ。おすすめを聞くために」
「二回言うな。いいだろ、おすすめを聞くため。悪いか」
「悪くはないですが」
「だいたい、わざわざって距離でもないだろ。俺んちこの近所だぞ」
「今日は仕事はいいんですか」
「年始に休日返上で働いたから、今日は代休ですーぅ」
「そうですか……」
赤葦がどっと疲れた顔をした。赤葦にも言いたいことはいろいろあるのかもしれないが、そのいずれも、名前の前で言うべきでない発言だ。しれっと名前の正面に座り、赤葦を隣に座らせている黒尾に、赤葦はすでに今日何度目かになる溜息を吐き出した。黒尾はその溜息を黙殺した。
男ふたりがそうして静かに腹の探り合いをしているところを、名前は笑いを噛み殺して眺めている。だが名前の抑えた笑い声にも、耳聡く黒尾が気がついた。黒尾は赤葦から視線を外すと、名前へと目を向けた。
「ん、苗字さん、どうかした?」
唐突に話を振られ、名前は慌てて咳払いする。笑い声に気付かれているとは思っていなかったので、完全に油断して聞き役に徹していたのだ。
ごほん、とひとつ空咳をすると、名前は黒尾と赤葦を交互に見て答えた。
「いえ、おふたり本当に仲がいいんだなぁとしみじみしてました」
ああ、と納得したように黒尾が相槌を打つ。
「まあ、赤葦とも高校からの付き合いだからな。研磨ほどじゃないにしても、赤葦との付き合いも長くなってきたな」
「そうですね。大学に入ってからは俺は部活のバレーとかはやってなかったけど、高校時代の仲間で集まってとかいうときには、黒尾さんと一緒になることも多かったから」
前半は黒尾に対して、後半は名前に対しての返答だ。そういえば、矢巾も未だに高校時代の仲間と集まることがあると、名前も聞いたことがある。名前には分からない世界だが、そういう付き合い方があるというのは何となく理解した。
「他校っつっても、梟谷と音駒じゃ合宿も一緒だったしな。下手したらそんな仲良くないクラスメイトより、赤葦とのが一緒にいる時間長いんじゃねえの?」
「え、黒尾さんと赤葦くんでは学年が違うのに、ですか?」
首を傾げる名前を見て、黒尾がとん、と気安く赤葦の肩を叩いた。
「赤葦のとこには俺とタメの、それはもうとにかく目立つやつがいてさ。赤葦は結構そいつと一緒に練習したりしてたからな。懐いてたっていうのとも違うんだろうけど」
「いや、普通に憧れてたんですよ。だってスターですよ。スターと一緒に部活やって練習できるってなったら、できるだけついていきたいと思うでしょ」
「分からんこともないけど、ついていきたい! と思って本当についていけるのがお前のすげえところだよな。しかし、スターか。まあ、言い得て妙だよな。あの天性の主人公体質というか、華みたいなもんは」
「そうですね……」
何故か神妙な顔をして赤葦は深く頷く。しかし、きょとんとしている名前に気が付いて、赤葦はすぐに名前に向けて眉の間をくつろげた。
「とまあ、そういうわけでね。その人と黒尾さんが仲よかったんだよ。いや、今もいいんですよね」
ほどほどにな、と黒尾。
「そういう流れで、自然と俺も黒尾さんとって感じかな」
「なるほど」
と、そこで名前はふと思い及ぶ。
「あ、もしかしてその人って、ボクトさんという方ですか」
名前が尋ねると、黒尾が驚いたように目を見開いた。
「正解だけど、なんで分かったんだ?」
「前におふたりの話題にちらっと出てきたので」
「はー、よく覚えてんなぁ」
それはもちろん、黒尾にかかわる人のことならば記憶しておきたいと思い、意識して覚えるようにしていたのだ。だがもちろん、そんなことを口にはできない。名前は当たり障りのない笑顔で頷いておいた。
赤葦がじっと名前に視線を注いでいる。名前の気持ちを知っている赤葦ならば、きっと名前がどういう気持ちでボクトという名を胸に刻んでおいたか、おおよそ察しがついているのだろう。何となく気恥ずかしくなって、名前は赤葦の視線から逃れるように目を伏せた。
本の話題もそこそこに、あとは黒尾と赤葦の思い出話に花が咲いた。黒尾と赤葦が話したがったというよりは、名前が思い出話を聞きたがり、ふたりが当時のエピソードをいろいろと名前に披露してくれたのだった。
高校時代の部活の話は、研磨に聞くよりも赤葦に聞いた方がよさそうだ――そう思った名前の勘はあたっていた。研磨では黒尾との距離が近すぎて、部活の話というよりも単に黒尾の生活全般の話になってしまう。それはそれで面白くて聞き飽きないのだが、部活に照準を絞るのならば、適度に距離を保った赤葦の方が案外よく見ていたりする。
しばらくして、黒尾が手洗いに立った。その機を見逃すことなく、名前はぐっとテーブルに身を乗り出す。赤葦がぎょっとした顔をするが、それにもかまわず名前は赤葦との距離をつめると、声をひそめて赤葦に話しかけた。
「あの、赤葦くん。ちょっとお伺いしたいことがあるんだけれども」
「……どうかした?」
名前につられ、赤葦も前のめりになって声をひそめる。さほど広くもないテーブルの上で、眉間に皺をよせ顔をつき合わせるふたりは、傍から見るとあやしい遣り取りをしているようにしか見えない。だが、名前はいたって真剣に赤葦に詰め寄っていた。
「黒尾さんって過去、どのくらモテてた? 具体的に言うと、バレンタイン前後の期間」
「どのくらいって、俺は他校だから詳細までは……」
「じゃああの、黒尾さんのバレンタイン事情について、何らかの情報をお持ちだったりしない?」
鬼気迫る名前に若干気おされ、赤葦は困ったように眉尻を下げた。
赤葦と黒尾の付き合いはあくまで音駒・梟谷両校の部活動の延長線上にある。黒尾と赤葦どちらとも親しいボクトならばともかく、学年の違う赤葦では、黒尾の個人的な話をそれほど詳しく知っているわけではない。
そのことはもちろん名前も心得ている。だが、だからといって名前には他に情報収集の伝手があるわけでもない。
研磨はどちらかといえば黒尾の陣営だろうから、露骨に名前から黒尾に向けている好意を示すような話題は避けるべきだろう。その点、すでに名前の気持ちを知ってしまっている赤葦ならば、この手の話も切り出しやすかった。
「あっ、でも誤解しないでほしいのは、別にバレンタインだから告白をしようとか、そういうことは一切ないということで……、その、ただ、義理チョコというか友チョコは渡そうかなと思うと、いろいろと考えてしまうわけで……」
「事情はなんとなく理解したよ」
「理解が早くて本当に助かるよ……」
眠たげな目をした赤葦は、しかし心なしかいつもよりも多少、イキイキとした瞳で名前に頷いた。頼もしげに見える瞳の輝きを裏付けるように、
「実は結構、恋愛の話とか嫌いじゃないよ」
赤葦はそんな意外な台詞まで口にする。名前は驚き瞠目した。
「えっ、と、とてもそのようには見えないのに……?」
「話してくれる相手になら、俺でよければどれだけでも聞くよ。ただそもそも、俺に恋愛の話を振ってくる人ってほとんどいないんだ」
赤葦の言葉に、名前はさもあらんと頷いた。
「赤葦くんにくよくよした恋愛相談したら、ばさっと斬られそうだもんね」
「そう見える? そんなことないから大丈夫。まあ必ずしも有用なアドバイスができるわけではないんだけど、状況の把握とタスク管理はわりと得意だよ」
「信じられないくらい頼りになる……」
とはいえ名前の場合、積極的に事を起こそうというわけではない。目標はあくまで現状維持だ。友達以上に好かれたいという願望すらないので、赤葦の出番もそれほど多くはなさそうだった。
ともあれ、今は目の前のバレンタインだ。告白を目的としていないので、名前が知りたいのはあくまでも、バレンタインが黒尾にとってどういった位置づけなのか、そして単純な黒尾のモテ具合だけ。甘いものが好きだということは知っている。
名前がそのことを赤葦に説明すると、赤葦はふうむと思案し、顎を撫で摩った。
「……これは本当に風のうわさ程度に聞いた話だから、信憑性がある話というわけではないんだけど」
そう前置きをして赤葦は一度意味ありげに視線を伏せてから、名前を上目遣いにぎみにまっすぐ見つめた。
「個数自体は、そこまでたくさん貰ってるわけではないらしい。けど、毎年安定して本命と思しきチョコをふたつみっつ」
「そ、想像ができすぎる……」
赤葦に告げられた黒尾のバレンタインの成果情報に、名前は思わず両手で口許を覆った。さらに赤葦は続ける。
「さすがに高三のとき――黒尾さんが全国大会出場した年のバレンタインはすごかったって聞くけど、基本は大体そんな感じみたい」
「そうだよね……分かる、とてもよく分かる……」
「何が?」
「黒尾さんの優しさにときめき、思いつめてしまった結果、本命のチョコを渡してしまう女性の気持ちが」
「ああ……」
口許を覆ったまま悄然と答える名前に、赤葦は嘆息ともつかない息を吐き出した。黒尾のことだから、ばらまくように配られるチョコレートもたくさんもらっているのだろうが、この際そういった無差別配布チョコレートのことは意識から除外してもいい。むしろ名前は、秘めた思いを秘めきれず、うっかり本命チョコレートを渡してしまった女子たちに思いを馳せ、共感していた。
名前にそこまでの意欲はないものの、気持ちとしては分からなくはない。名前とて、もし黒尾のクラスメイトで、来年以降の付き合いを考えなくてもいいと言われれば、そのときは正気を失い本命チョコレートを渡してしまうかもしれない。そういう悪魔的な魅力が黒尾にはあった。