満腹になるまで牡蠣と魚介を堪能してから、きっちり割り勘で支払って、名前と黒尾は店を出た。食べた量は黒尾の方が多いのだが、今日はクリスマスプレゼントの差額分を埋めるための割り勘でもある。
実際には、これしきの負担では、差額は到底埋まらないのだろう。だからといってこれ以上厚意とお金についてとやかく言うのも憚られ、名前もここを引き際にした。まんまと黒尾に乗せられている感は否めないが、仕方がない。
炭火と暖房であたたまった店内を出ると、冷たい空気に全身包まれきゅっと身が引き締まる。さすがに大寒の頃、東京の寒さもひとしおだ。見ると隣の黒尾も鼻の頭を赤くしており、冬だよなぁと名前はしみじみ思う。
駅までは少し歩く。狭い路地を抜けて目抜き通りに出ると、雪がちらつきそうな寒空の下を、名前たちと同じくほろ酔いの人びとが、めいめい背を丸めて歩いている。
「神社にもちゃんとお詣りできましたし、牡蠣も美味しかったですし、いい一日でしたねぇ」
吐く息の白さを見ながら、名前が言う。見上げれば黒尾も名前に顔を向けており、視線が合うとにっと笑われた。
「だな。まあ牡蠣はともかく初詣はもう、全然初詣って時期でもなくなっちまったし、それについては申し訳ないと思ってる」
「別にいいですよ。実家でも初詣行きましたし」
「それはそうなんだろうけど」
「それより、黒尾さん病み上がりなのに、牡蠣なんか食べて大丈夫だったんですか? 病み上がりってあたりやすいって聞きますけど」
「そういうのは食べる前に言ってくんない?」
「可哀相……なんと言ったらいいのか……」
「あたる前提で哀れまれても」
「初詣のときに、牡蠣にあたりませんようにってお願いしておけばよかったですね……」
「あたるかあたらないか、こればっかりは神のみぞ知る」
「あはは、当たるも八卦当たらぬも八卦」
「それ違うし、苗字さんさては結構酔ってるな?」
名前が口を横に大きく開いて笑うと、黒尾が眉を下げて苦笑する。
本当のところは、それほど酔っ払ってもいない。黒尾ほどではなくても酒には強い体質だし、屋外の寒さでわずかなほろ酔いもさっぱり消え去っていた。
酔ったことにしておけば、締まりのない顔に不審を抱かれることもない。黒尾と美味しいものを食べて、同じ電車に乗って帰る。その幸福に多少にやついていたとしても、酔っているなら許される。
「でも、こんなに美味しい思いをしたんですから、あたったらその時はその時ということで……」
「おい。いや、加熱したのしか食べてないしな、大丈夫だろ。多分……」
半ば本気で心配し始める黒尾に、家に帰ったらもう一度、神社の方角に向かって拝んでおこうと、名前がひっそり心に決める。と、そんな話をしていると、
「おや、あそこにいるのは赤葦」
視線を前方に向けていた黒尾が、やおら声を上げた。つられて名前も前を見ると、たしかにふたりの少し先をもこもこと着ぶくれた長身男性、赤葦がひとり歩いていた。
黒尾の声に振り向いた赤葦は、
「あれ、何してるんですか。こんなところでふたりして」
黒尾と名前を交互に見て、より視線の近い黒尾に話しかける。
「今まで苗字さんと牡蠣食ってきたところ」
「牡蠣って……。黒尾さん、ついこの間まで風邪ひいてたって言ってませんでしたっけ。大丈夫なんですか」
本気で正気を疑うような目で、赤葦が黒尾を見る。まさに今、その件について名前と黒尾も話していたところだったのだが、すでにたらふく牡蠣を食べ終えている以上、あとは天命を待つよりない。
それよりも、黒尾は赤葦が風邪のことを知っていたことに首をひねった。
「なんでおまえが俺の風邪のこと知ってんの?」
「この間の梟谷の集まりの時に聞きました」
「ああー、そういや木兎にそんな話したな。年始にいきなり『ひま?』って電話かけてきやがったから」
ボクトという新しく出てきた名前を、名前は頭の片隅に書き留める。話の流れからして、ボクトというのも黒尾と赤葦の高校時代の部活仲間なのだろう。もしかしたらそのうち、何処かで顔を合わせることになるかもしれない。
と、黒尾との話が一段落したところで、赤葦が視線を名前に移す。赤葦とは年始に顔を合わせたばかりなので、ひと月ぶりの黒尾と違い、あまり久し振りという気がしなかった。
「こんばんは、赤葦くん。先日ぶりだね」
軽く挨拶をして手のひらをひらひらと振ると、赤葦もわずかに相好を崩す。
「うん、名前ちゃん酔ってる?」
「いや、そこまで酔ってない。寒くて酔いが醒めた」
「顔が赤いけど」
そういう赤葦の顔も、寒さのせいで赤くなっている。赤葦からは酒精を感じないから、単に寒さで赤らんでいるだけだろう。名前も酔っているという感じはしないから、顔が赤いというなら寒さのせいだ。
「顔が赤いのは多分寒さのせいだけど、でも、こんなに寒いならもっと飲んであったまっておけばよかったかも」
「はは、たしかに。名前ちゃんは今日もビール?」
先日名前がちらりとビールが好きだという話をしたことを、赤葦は律儀に覚えていてくれたらしい。目と目を合わせて、名前はにやりと笑った。
「そりゃあね。牡蠣だしね。もちろんビール」
「その拘りはちょっと分からない」
名前の発言をばっさりと切り捨てた赤葦は、そこでふたたび黒尾に視線を戻した。名前もつられて黒尾を見上げる。そういえば黒尾さんには赤葦くんと会ったことを話していなかったな、と今更ながらに名前がそんなことを思っていると、黒尾はかっと見開いた目を赤葦に向け、
「赤葦、おまえ、え? いつからそん……そんな、え?」
と、およそ黒尾らしくもない、狼狽え支離滅裂になった言葉を吐く。一瞬よろりと傾いた黒尾の身体は、その場で数歩たたらを踏んで、それからようやく赤葦の方へとずいっと一歩踏み出した。
一歩距離を詰めるだけでも、黒尾の長身では迫力が違う。さすがに赤葦は、自らも長身なのでそれしきで怯んだりもしなかったが、心底怪訝そうに顔をしかめて黒尾と対峙した。
「えっ、なんですか……」
「赤葦、いま苗字さんのこと下の名前で呼んでなかった?」
「あっ」
「あっ、おい! 今おまえ露骨に『やべっ』て顔しただろ!」
黒尾の言うとおり、露骨に『やべっ』という顔をした赤葦は、ふいと黒尾から視線を逸らした。だが、それが逆効果であることにすぐに思い至ったのか、ふたたび黒尾の方に顔を向ける。
凄まじいまでの眼力で黒尾を見据えた赤葦は、己の潔白を証明するように、まっすぐに黒尾に視線を注いでぶらさない。
「違うんですよ黒尾さん、これには全然深くない、浅い理由がありまして……」
「赤葦くんとは、サイン会で会ったんです」
横合いから、見かねた名前が口を挟み、赤葦が合わせてぶんぶんと首肯した。名前としては呼び名くらい何だっていいのではと思うのだが、茂部の一件以降黒尾がやや過保護になっていることも知っている。何やらあらぬ誤解が生まれ、結果黒尾と赤葦双方に迷惑を掛けることだけは、どうあっても名前は避けねばならなかった。
もっとも、一体どのような誤解が生まれるのかなど、皆目見当もつかないが。
「そうです。それだけです」
赤葦が名前の言葉に乗っかる。自分の言葉で説明するより、名前の説明に乗った方が手っ取り早いと踏んだのだろう。黒尾は名前に視線を移すと、短い沈思ののち、
「そういや、サイン会に当たったって、クリスマスに苗字さん言ってたな」
独り言のようにぼそりと呟く。
「そうなんですよ。たまたま赤葦くんも同じサイン会に来ていて、それでちょっと仲良くなったんです」
実際にはその後にお茶などしたりもしたのだが、そこまでのことを今この場で説明する必要もないだろう。そもそも黒尾は名前の彼氏ではないし、名前も黒尾の彼女ヅラをする気はない。巻き込まれている赤葦にだけは多少申し訳なく思うが、黒尾のこの反応は名前にとっても予想外だったのだから仕方がないとしか言いようがない。
黒尾はいまだ、訝る視線で赤葦を見つめている。げんなりした顔の赤葦は、それでも藪蛇を避ける心得はあるようで、先程から黙って黒尾の視線に晒されている。
通り過ぎる人たちが、長身ふたりの物々しいムードにちらちらと視線を投げていく。しばらくののち、黒尾は納得いかない顔で言った。
「いや、けど赤葦に限って、ちょっと仲良くなっただけの相手を、下の名前にちゃん付けで呼ぶようなやつじゃないだろ」
「たまたまそのとき俺と一緒にいた人が、苗字さんと同じ苗字だったんです。それで、話の流れで下の名前で呼び分けることに」
「ふうん……」
あからさまにもの言いたげな返事に、赤葦が眉根を寄せた。
「ふうんって何ですか。ちょっと、やめてくださいよ……。本当に何もないですから」
「ふうんって相槌打っただけだろうが。別に何も勘ぐってない」
「そうですか。それならいいです」
「ところで赤葦、おまえ好きな女子とかいんの?」
「めちゃくちゃ勘ぐってるじゃないですか……!」
赤葦がそう抗議の声を上げたところで、黒尾は一転、けろりとした顔で笑った。
「いや、悪い悪い、本当に冗談だって。ちょっと悪ノリしすぎたな」
どうやら赤葦があまりに嫌そうな顔をするので、少し悪ノリしすぎただけだったらしい。絡まれる赤葦としてはたまったものではなかっただろうが、何はともあれ嫌疑が晴れたことにはほっとした顔をした。傍から見ていた名前もひっそりと、内心で安堵の息を吐く。
やっと肩の力を抜いた赤葦が、深く溜息を吐き出した。
「はあ……、本当にやめてくださいよ。俺、黒尾さんに睨まれるようなことする気ないですから」
「何それ、褒めてる?」
「褒めてはいないです」
どちらかといえば面倒ごととは関わり合いになりたくないという、消極的な意思表明だろう。赤葦はたまたまそこに居合わせただけの人間であり、黒尾と名前の間のあれこれに首を突っ込むつもりはまったくないのだ。
「赤葦くんとは好きな作家さんが同じなんですよ。だから、趣味の話ができて嬉しいです。周りに本の話できる人少なかったから」
名前が横から補足する。黒尾は一瞬苦い顔をした後「へー」と返したが、さすがにそれでは大人げなさすぎると思ったのだろう。
「……それは、非常によかったな」
取ってつけたようにそう言い添えた。
「つーか苗字さん。そういうことなら、言ってくれたら俺も苗字さんの好きな本読んだのに。本の話したいのとか、わりと初耳なんですが? 苗字さん?」
「黒尾さんって本とか読むんですか?」
赤葦が呆れたように言う。名前も内心同じような気持ちでいる。仕事のために必要なのだろう本ならば、黒尾が読んでいる姿を見たこともあるが、名前や赤葦のように文芸作品のたぐいを読んでいるところはついぞ見たことが無い。
「これでも普通に本くらい読むぞ」
果たしてどこまで真実かは不明だが、黒尾がそう言うのであれば名前が貸し渋る理由もなかった。本の話ができる相手が増えるのは嬉しいし、自分の好きなものがどんなものなのか、黒尾が知ろうと思ってくれることも嬉しい。この際黒尾がどんな感想を持つかは二の次だ。
「じゃあ今度おすすめの本お貸ししますね」
「まじ? サンキュ」
「…………」
もの言いたげな視線を黒尾に向ける赤葦は、しかしその視線以上の言葉をあえて口にすることもしなかった。黒尾は素知らぬ顔でにやにやと笑っているし、名前はひとまずこの場がおだやかな形で纏まったことにほっとしていた。
バス停に向かうところだという赤葦と別れ、名前と黒尾はふたたび駅への道を歩き始めた。もともと大して残っていなかったほろ酔い気分も、赤葦と話しているうちにすっかり醒めてしまった。しっかりした足取りで駅に向かっていると、隣を歩く黒尾が唐突に溜息を吐き出した。
「はー、しかしまさか俺の知らないところで、苗字さんと赤葦が仲良くなってるとはなー」
その言い方がどうにも口惜しそうなので、名前は驚き黒尾を見上げた。黒尾の口許は笑っているが、目元はどこか強張っている。その表情を見て、たちどころに名前の中で不安が首をもたげる。
「えっ、もしかして嫌でしたか? 赤葦くんのこと独占しておきたかった感じですか。秘蔵っこ……?」
「いや、そっちじゃなくて。苗字さんが広い世界に羽ばたいていってしまうのだなぁと」
「……なんですかそれ。友達百人の黒尾さんに言われても」
名前の友人がひとり増えたところで、社交的な黒尾の交友関係の足元にも及ばない。それに名前が多少赤葦と仲良くなろうとも、付き合いの長い黒尾の方が、赤葦にとっては親しい友人なのだろう。
むっと口をへの字にする名前の横で、黒尾が気付いて苦笑する。だがその苦笑もすぐに消え、黒尾はふたたび重い溜息を吐いた。
「あんまり余裕ぶってもいられない、ってことかね」
「……余裕ぶってるんですか?」
「まあね、結構ね」
駅舎がふたりの視界の先に見えてくる。だが名前は、黒尾の呟いた言葉の意味をはかりかね、戸惑う瞳で黒尾のことを見上げていた。