年が明けたら初詣に行って牡蠣を食べようという話は、黒尾が新年早々風邪をひいたことで、ずるずると予定延期になっていた。体調を崩している相手に連絡をとるのも忍びなく、お大事にとメッセージを送って以降は、名前から黒尾に連絡をとってもいない。黒尾からも特に何の音沙汰もなく、新年はそんなふうに、微妙に距離を置いた状態で始まった。
ようやく黒尾が快復し、遊びに出られるまでになったと連絡が来たのは、一月も終わり頃になってからのことだった。
夕方頃に待ち合わせして、音駒駅近くの氏神神社で初詣を済ませてから、電車に乗ってくだんの牡蠣小屋へと移動した。黒尾に連れていかれたのは、路地裏でひっそりと営業する小規模な居酒屋だ。店前に『かき』と白抜きされた幟こそ立っているものの、人目を惹くような客引きをしているわけでもない。
「ところがどっこい、ここの牡蠣がうまいんだな」
そう言って黒尾が店のドアを開けると、すぐに炭火のにおいが鼻をくすぐった。事前に臭いのついてもいい服で、と黒尾に言われていたので、今日の名前はいつものアルバイト着と変わりないような、無頓着な恰好をしている。
案内されたテーブルにつき、早速牡蠣とビールを注文した。木製の各テーブルには中心に七輪が据えられており、そこで注文した魚介や牡蠣を焼く仕様になっている。店内にはサラリーマンらしき複数連れが数組いたが、それほど騒がしくすることもなく、皆牡蠣に夢中になっている。
すぐにビールのジョッキが運ばれてくる。黒尾と名前は、何はともあれ乾杯した。店内は炭火の煙と熱気であぶられており、喉を流れるビールが何とも心地よい。
「風邪の方はもう大丈夫なんですか?」
ビールで人心地ついたところで、名前は訊ねた。本当は開口一番に聞きたかったことなのだが、ひと月ぶりということで何だか妙に緊張してしまい、今の今まで切り出せていなかったのだった。
ちなみに電車で移動している間は、神社で引いたおみくじの話をしているうちに目的地に着いてしまった。初詣も現地集合だったので、要するに今日はまだ、おみくじの話くらいしかしていないということだ。
名前と同じく美味そうにビールジョッキをあおっていた黒尾は、
「すっかり全快」
と口の端を上げて笑う。何ならピースサインまでつけてくる。
「年末年始にいろいろ集まりがあって、できるだけいろんなとこに顔出したかったから無理して都合つけたりしてたんだけど、まあ無理しすぎたな」
「クリスマスに会ったときより、ちょっと痩せましたよね?」
「顔がなー。食欲は普通にあったんだけど、なんかちょっとげっそりしたのが、なかなか元に戻んないんだよな。でも体重はそんな減ってない」
「じゃあ見た目だけ不健康っぽい感じになってるんですね」
「そうなんだよな。まあ、そのうち戻るだろうと思ってんだけど」
長身の黒尾は長年のスポーツ経験もあって、かなり体格がしっかりしている。だからだろうか、少し痩せて見えるというだけで、ずいぶんと身体がしぼんでいるように見えた。とはいえ、それでもまだまだ大柄なのだから、単に名前が気にしすぎているだけの可能性もある。
大皿で牡蠣が運ばれてくる。ほかの魚介と一緒に網に並べ、上からアルミホイルを被せる。軍手をはめた黒尾が手際よく網に並べてくれるので、名前はお礼を言いつつビールをちびちびやるだけだ。
牡蠣が焼けるのを待ちながら、名前はまた黒尾の様子をうかがった。
「じゃあ黒尾さん、年始はずっと自宅で寝込んでいたんですか?」
網から顔を上げ、黒尾は「まあな」と苦笑した。
「って言ってもずっと熱が出てたってわけでもないから、一番しんどいの過ぎてからは、ちょいちょい起きてゲームやったりマンガ読んだり色々してたけどな」
それならば、連絡のひとつくらいしてくれてもいいものを、と思う。だが、だからといってそれを口に出すほどの勇気も図々しさも、名前は持ち合わせてはいなかった。
名前が年末年始に帰省している間には、黒尾からちょこちょこと何ということのないメッセージが入っていた。黒尾の風邪を機にそれが途切れたので、名前はひそかに寂しさを感じていたのだ。
だが名前は黒尾にとって、ただの友人のひとりに過ぎない。むろん『茶飲み友達』という、ふたりの間でのみ伝わる特別な友人の称号は勝ち得ているものの、そこには何の特権も存在しない。
アルミホイルの下で音を立てる牡蠣の音に、口の中で勝手にわいてくる唾もろともに、名前は寂しさを呑み込んだ。
「でも、体調よくなるのが仕事始めに間に合ってよかったですね」
「いや、本当にそうだぞ。新年明けたらすぐに春高――って言っても分かんねえか。高校バレーの冬の全国大会が一月初めにあるんだけど」
春高ならば、矢巾から聞いたことがあるので名前も知っている。だが口を挟むことはせず、黒尾の話に耳を傾けた。
「で、それ絡みで、顔出せないと結構まずい仕事も多くてさ。まあそれもあって、苗字さんと牡蠣食いに行くのが延期になってたわけですが」
「全然大丈夫です。むしろ私も知り合いの結婚式とかなんだかんだで宮城に戻ったりしていて、ばたばたしてたので」
「じゃあお互いに、やっと落ち着いたところってことか」
「そのようです」
名前は頷き、ビールをあおった。黒尾が牡蠣をひっくり返して「もうちょっとだな」とにんまり笑った。
ちらと窓の外に視線を向ける。窓ガラスは結露して、外の様子はモザイク状にしか判別できない。店の前の狭い路地を時折車が通るのか、白い光のようなものが黒いモザイク絵を横切り消えていく。
「結婚式はいとこくんもいたの?」
ふいに黒尾に問いかけられ、名前は視線を窓から黒尾へと戻した。網からは牡蠣の香ばしいにおいがふわんと漂っている。
「そうですね。そっちの親族だったので」
「へー」
聞いたわりには気の入らない相槌だった。むっとしつつも、黒尾の視線が網に向いているので、それも仕方ないことかと思う。黒尾の意識は今、牡蠣の食べごろを見定める方に向いているようだった。
よし、と黒尾が呟いて、ナイフで刳り出した牡蠣を名前の皿に載せてくれる。至れり尽くせりの極みだ。研磨宅での鍋といい、こういう面倒見のよさが黒尾には染みついているのだろう。
ふうふうと息で冷ましてから牡蠣を口に入れる。
「あぁっ、美味しい……」
はふはふと口の中で牡蠣をもてあましながら言うと、黒尾がにやりと満足そうに笑った。
「それはよかった。宮城県民もにっこりのお味ということで」
「はい。宮城県民のお墨付きを今ここに与えます」
「宮城を背負って牡蠣食ってんの?」
イキイキとした顔で突っ込んで、黒尾は自分も牡蠣を頬張った。ほかの魚介もいい焼き色になっており、ビールがどんどん進む。
「それで、結婚式はどうだったんだい」
「話、聞いてたんですか」
「聞いてるって。いとこくんと一緒に出席したんだろ」
空いた網に第二陣を並べながら黒尾が言った。といっても親族の結婚式なので、名前にはこれといって披露できるような話もない。
「そうですね……。いいお式でしたよ。あ、でもお式の日が成人の日だったので、私が振袖で参列したら『新成人みたいだ』ってめちゃくちゃ言われました」
「そりゃ俺が親族でも言うな」
「でも一月の宮城ですよ。ドレスより振袖の方があったかいじゃないですか」
「そういうことなの?」
黒尾が笑いながら首を傾げる。その顔を見て、さては黒尾さんは冬の東北の寒さを知らないのだなと、名前は思った。そもそも一月に結婚式を強行するなど、東北の気候を考えれば結構な無茶無謀なのだ。それでなくても年始は慌ただしい。
「写真は? 振袖姿で撮った?」
暑くなってきたのか、黒尾がセーターのそでを捲り上げて言った。夏場に腕など見慣れていたはずだが、逞しい腕と太い血管が妙に生々しく感じられ、名前はさっと視線を逸らす。
「うーん、撮るには撮りましたけど……。写真は親族写真でちゃんとしたのを撮った分、あんまりスマホに写真なくて。あ、でも秀くんと撮ったやつならありますよ」
「どれどれ、見せてよ」
「成人式じゃんっていじられた写真なんですけど」
名前は鞄からスマホを取り出し、写真を開いてから黒尾に手渡した。振り袖姿の名前とスーツ姿の矢巾が、並んで写真におさまっている。名前の母親が撮影したものなので、きちんと全身が写っていた。
その写真を、黒尾はしげしげと矯めつ眇めつ眺めている。
「これはたしかに成人式みたいだって感想になっても仕方ない。苗字さんがあの、ふわっふわのやつ着けてないのだけ惜しいな」
「成人式じゃないんですってば」
「こうやって見ると、いとこくん結構背高いな。百八十くらいあるんじゃない?」
「たしかそのはずです。百八十一とか二とか、そのくらいだったかな」
名前が言うと、黒尾が写真の矢巾の顔を拡大する。童顔で可愛らしい目元がアップになった。この顔で高身長で、そのうえ身内贔屓とはいえ性格もまずまずなのだから、モテないはずがないのにな、と名前は遠くの矢巾に思いを馳せる。
「秀くんも高校までバレーやってたんですよ。この話しましたっけ」
「聞いたような気もするけど……。強豪?」
「県内では強いみたいな話は聞いたことあります。全国大会は出場してないけど……、あ、でも先輩にひとり、海外でプレーしてる人がいるって言ってたような」
「そうなの? 海外か、誰だろうな」
黒尾がいつまでも画像を眺めているので、焼けてきた牡蠣を名前が裏返した。ふと黒尾を見れば、いつのまにか拡大されているのは矢巾ではなく、名前の振り袖姿になっていた。
「うわっ、ちょっと、そんな見ないでください」
「なんで? 苗字さん着物似合うな」
「えっ、そうですか?」
唐突に褒められ、うっかりまんざらでもないような返事をしてしまった。はっとするも既に遅く、黒尾はにやにやと意地の悪い笑顔を浮かべて名前を見ている。気恥ずかしさから、ただでさえ炭火で炙られて熱い名前の顔が、一層熱をため始める。
「……あんまり揶揄わないでください」
「揶揄ってない、本気。可愛い可愛いってみんなに言われてきたんじゃない?」
「さすがに新婦をさしおいて、そんなことにはなりませんよ」
ふうん、と気のない返事で引きさがった黒尾だが、それでもまだ、視線はスマホの画像に注いでいる。名前がテーブルごしに手を開いて突き出すと、それでようやく黒尾は名前にスマホを返却した。
炭火の網の上では、殻がアルミホイルの下で爆ぜている。黒尾は牡蠣の様子に気を配りつつ、
「もしかして宮城での初詣も着物着ていった?」
とテーブルに身を乗り出して名前に訊ねた。
「いえ、結婚式で振袖着るって分かってたんで、着物はいいかなと思って今年は普通に私服で」
「なんだ、惜しかったな」
「惜しいとは……」
いまひとつ黒尾の言葉の意味が分からず、名前は首をひねった。だが黒尾は構わず、
「苗字さんと友達になって、もう何か月だ? えー、五六七……八か月だろ?」
と、幼い子供のように、名前と出会ってからの月日を指折り数える。
「あとやってないイベントって言ったら、お花見くらいか。けどそのわりには、着物とか浴衣とか見損ねたなと思って」
「黒尾さん、着物とか浴衣とか着て出かけたいんですか?」
「俺は着ないけど、女の子は着たくない?」
「ううーん……わりと、どちらでもいい……」
「なるほど、冷めていらっしゃる」
黒尾は頬杖をついて名前を眺めていた。
地元にいた頃には着物も浴衣もそれなりに着たが、東京に出てきてからはめっきりそういう機会もなくなった。だが昨夏、アルバイト着で夏祭りに行ってしまったのは、あまりに風情の欠片もなかった。次があれば浴衣とまでは言わずとも、もう少しちゃんとした恰好をしようとは思っている。
同じことを、黒尾も考えていたのだろうか。
「ま、この先もなんだかんだ出掛けることがあれば、着物でも浴衣でもいつかは見られるか」
もう少しちゃんとした格好を、という名前よりはもう一段高い望みを口にして、黒尾は何かを試すように名前に視線を送った。意味深な視線に、名前はわずかにたじろぐ。
この先の話をされることは嬉しいが、黒尾がそれでどうして意味深な瞳をするのか、その理由までは名前には分からない。
「……黒尾さんのその和装への熱意は一体何なんですか?」
自分が着たいわけではなく、名前に着せたいというのもよく分からない。恋人ならばともかく、ただの友人が浴衣を着ていたところで、よくて夏らしいなと思うくらいのものだろう。
しかし黒尾は、
「いや、男はみんな好きだろ」
平然とそんなことを嘯いてみせる。
「そうですか? 秀くんは私の振袖を見ても、『重そう、転ぶなよ』で終わりでしたけど」
「そこはノーコメントで」
ぱちんと殻が爆ぜ、黒尾がアルミホイルを牡蠣から剥がす。結局、和装談義はそこまでになり、あとはいつもと変わらぬ四方山話に終始した。
だが、来年もしも黒尾と夏祭りに行くことがあれば、その時は浴衣を着ていこう。
黒尾につられるように名前も志しを一段だけ高くしてから、名前は黒尾が皿においてくれた牡蠣にいそいそと箸を伸ばした。