週に一度、一時間程度。最初に挨拶と約束を交わして以降、それが黒尾と名前の『お茶会』のペースになった。会う曜日は特に決めていない。名前がアルバイトの日を見計らい、勤務時間の終わり掛けの頃になると、ふらりと黒尾はやってくる。
そのまま一時間ほど店内で話をして、店が閉まる午後六時頃に解散する。オーナーの予定や店の都合で時々時間は前後するが、基本的には一時間より長引くことも、また早く切り上げることもない。
はじめのうち、日程の調整は黒尾の祖母が間に入り行っていた。しかし名前が滅多にアルバイトの後に予定を入れないことを知った黒尾が、苗字さんさえよければ適当な日で、と言い出したのを機に、今ではこの不規則な『お茶会』のかたちに落ち着いた。
店のドアベルが鳴るのと同時に、雨の音がひときわ強くなった。名前が机の上の手元から顔を上げると、シャツの肩口をうっすらと濡らした黒尾が、名前に気付いてこちらに歩いてくるところだった。
「こんにちは、黒尾さん」
「こんにちは。今日バイトは?」
「雨で暇なので、早めに上がらせてもらいました」
そういうこと、と黒尾が頷き、名前の正面に腰かける。
オーナーが道楽として経営しているこの『猫目屋』は、混んでいるときでも八割席が埋まるかどうかというところだ。今日は朝からの雨のせいで、ぱったり客足が途絶えていた。
「雨だし、今日は黒尾さん来ないかと思ってました」
「雨だし、店がすいてるだろうなと思って行くことにした」
悪戯めいた笑みを浮かべる黒尾に、つられて名前も頬をゆるめた。
名前にとって黒尾との『お茶会』は、想像していたよりずっと楽しく、面白い時間となった。女子大に通う名前には、たとえ年齢はひとつしか違わずとも、社会人の男性などほとんど未知の生物に等しい。てっきり話題選びから苦戦するのではと、名前はひそかに案じていたのだが、蓋を開けてみれば黒尾は気さくで気取らず、そして名前に気を遣わせることすらまったくない人物だった。
「いらっしゃい、鉄朗くん」
「こんにちはー。ブレンドお願いします」
お冷を出しに来たオーナーに注文を済ませると、黒尾は名前の手元を覗き込んだ。ふたりがけのテーブルの上にはノートと筆記用具、辞書がわりのスマートフォン、分厚い参考書に文字がびっしり書かれたプリントがごちゃごちゃと置かれている。コーヒーのカップはテーブルの隅に追いやられ、忘れ去られたまますっかり中身も冷え切っていた。それを名前は、今更のように飲み干す。
「苗字さん、それ何やってんの?」
「見ての通り、試験勉強です」
「就職とか資格試験の?」
「いえ、もうじき期末試験なので」
名前が答えると、黒尾が驚き目を剥いた。
「えっ、四年にもなって試験勉強しなきゃならんような講義があんの? 苗字さんってもしかして、結構計画性なく履修科目決めてたタイプ? 卒業間近で焦って教養とってる?」
「失礼な。卒業時に資格とるために、追加で講義をひとつとってたんです」
「ふうん。で、その講義の試験がそんなやばいの?」
「やばくはないですけど、やるからにはいい成績とりたいじゃないですか」
当たり前のことというように返事をすると、黒尾は束の間じっと名前を眺め、それからふっと口許をゆがめて笑った。
「苗字さんって、結構負けん気強い?」
「名前ちゃんは相当負けず嫌いだよ」
コーヒーを運んできたオーナーが、にやりと笑って口を挟んだ。ついでに名前の前にも、サービスだよと言って新しくコーヒーのカップを置く。
「名前ちゃんね、前に常連さんに麻雀大会に誘われたとき、麻雀のこと何も知らないのに、ルールと役と点数計算の方法、丸暗記してきたもんね。あれ一夜漬けで暗記してきたんでしょ?」
「ほうほう、それはそれは」
「ちょっと、オーナー。そういうのバラすのやめてくださいよ……」
顔を赤らめた名前は、照れ隠しにノートと参考書を閉じた。新しく出してもらったコーヒーに口をつけ、そしてすぐ、淹れたての熱さに舌を火傷し顔をしかめる。
そんな名前を、黒尾は頬杖をついて眺めていた。黒尾からの視線に気付き、名前は気まずげに口をとがらせた。
「なんですか、黒尾さん」
「いや? ただ、ちょっとイメージと違ったなと」
「どんなイメージ持たれていたんですか」
「ゆとり大学生、ほぼフリーター」
「間違ってはいませんが」
「うそうそ。苗字さんが真面目なのは知ってる」
まだ知り合って間もないのに、まるでよく知った間柄のように黒尾は言ってのける。にやりと笑う黒尾にどう返事をすべきか分からず、名前はまた誤魔化すようにコーヒーカップに口を付けた。今度は火傷しないよう、そっと注意して口に運んだ。
黒尾はいつも飄飄としているが、翻って発する言葉に嘘はない。それは『お茶会』をするようになってすぐ、名前が気付いたことだった。
冗談を口にすることはあっても、自分を飾ったり、あるいはリップサービスとして偽りを吐くことはない。そういう黒尾から出る褒め言葉に、名前は時折戸惑ってしまう。面と向かって褒められたくらいで戸惑うほど、褒められ慣れていないわけではないはずなのに。
カップごしに黒尾の表情を窺うと、黒尾は名前の羞恥心など気にも留めない様子で、優雅にコーヒーを飲んでいた。スタイルがよく雰囲気もあるから、黒尾は何をしていても様になる。そうしていると、ただの大学生に過ぎない名前とは住む世界が違う人のように見えて、名前は何とも複雑な気分になる。
黒尾のような魅力的な男性が、自分とこうして気さくに話をしている。そのことが、名前には時々不思議に思えた。恋人がいるかは聞いていない。こうして休みのたび名前と『お茶会』をしているのだから、決まった相手はいなさそうだが、たとえ相手がいたとしても何ら不思議なことはない。
何度か直接、恋人がいるのか尋ねようとしたこともある。が、結局その問いをぶつけたことはない。名前は黒尾を男性として好きなわけではなかったから、恋人がいようがいまいが関係なかった。何より、黒尾は名前にそうした質問をしない。だから名前も、黒尾から話さない限りは問いただすことはしないと決めた。
窓を打つ雨の音は徐々に強くなっている。オーナーはのんびりと読書をしていて、店じまいの支度を始める素振りもなかった。こんな日だからこそなのかもしれない。急くような理由は何もない。
名前はテーブルに広げた勉強道具を鞄に戻した。ごそごそと片付けをしていると、黒尾がふと、
「それにしても、そうか。試験勉強してるってことは、学生諸氏はそろそろ夏休みか」
しみじみした調子で呟く。
「そうですね。試験が七月の末なので、夏休みに入るのは八月になってからですけど」
「いや、それでも夏休みの期間ふた月くらいあんだろ? 苗字さんは友達とどっか行ったりすんの?」
「いえ、今のところはそういう予定はないですね。バイト漬けです」
「えっ、まじで? 大学四年の夏だぞ。卒業旅行とか行かねえの?」
「……旅なら宮城に帰省はしますけど」
「友達と?」
「……ひとりで」
あからさまにばつが悪そうな名前の返事に、テーブルに奇妙な沈黙が落ちた。黒尾の視線が、探るように名前を刺している。名前は黒尾から視線を逸らし、あくまで何でもないふうに口角を上げた。
黒尾は器用だ。これまでの『お茶会』でも、見ず知らずの者同士の会話として、互いの身の上話に触れる機会はしばしばあった。しかし黒尾は、名前が触れてほしくないと思うような話題については、驚くほど巧妙に触れることを避ける。
あれはきっと、私の些細な表情の変化や話しぶりを見て、丁寧に話の流れを手繰っているに違いない。『お茶会』を解散し、自宅に戻ってその日の会話を思い出すにつけ、名前は黒尾の話術に舌を巻いた。
ただ話が面白いだけの人間ならば、きっといくらでもいる。しかし黒尾の話のうまさは、そうした小手先の技術とは別の部分に重きが置かれているようだった。
今もきっと、名前の表情から何かを察したのだろう。黒尾はおもむろに視線を名前から外し、雨やまねえなぁと、窓の外を見て呟いた。
名前は内心、胸を撫でおろした。黒尾の察しが良くて助かった。秘密ごとなどほとんど持っていない名前だが、この話題だけは唯一、できれば触れてほしくない話題だ。
しかし、安堵したのも束の間。
「あ、じゃあたとえばあれは?」
そう言って黒尾が指さしたのは、店内に貼られた手書きのポスターだった。地元の小学生が書いたものを白黒コピーしたポスターは、町内の商店に店内貼付用に配布されたものだ。
内容は近所の氏子神社で毎年開催される夏祭りのおしらせで、日時と場所が書かれている。この『猫目屋』からも組合を通して、いくらかの協賛金を拠出していた。
音駒で育った黒尾にとっては、馴染みの地元の夏祭りでもある。しかし名前は、事もなげに首を横に振った。
「東京に来てからはお祭りとか、あんまりそういうイベントみたいなのは行ったことないです」
「こういうの、あんま興味ない感じ? 女子ってそういうの好きかと思ってたけど」
「興味ないわけではないんですけど。実際、宮城にいた頃は普通に花火大会とかも行ってましたし、お祭りとかはわりと好きですね」
名前にもイベントごとを楽しみたい気持ちはある。高校時代には文化祭や体育祭に熱心に参加していたし、地元の祭りで人手がいれば自分から手を上げて参加した。名前の地元は宮城でも田舎の方なので、地域の結束はこの辺りと変わらず根強い。
そう答えると、黒尾は、
「それならこっちでも行けばいいのに」
と当然の感想を口にした。
「そうは言っても、ひとりだと行きづらい場所って結構あるじゃないですか」
「友達は?」
「大学進学でこっち出てきたので、こっちに知り合いいないんですよ」
「いや、だって苗字さん大学四年だろ。大学の友達は? ひとりくらいいるだろ?」
矢継ぎ早の質問に、ふたたび名前は黙り込んだ。先ほどはうまく会話が逸れたと思ったのだが、実際にはまったくそんなことはなかった。むしろ先ほどよりも、一層窮地に追い込まれてさえいる。
大学の友達。そう言われたところで残念ながら、名前の頭の中に具体的な人物の顔が浮かび上がることはない。