三人揃って店を出ると、苗字はすぐに通りかかったタクシーを拾い、それに乗り込んだ。そんな苗字を見送って、赤葦と名前も駅に向かって歩き出す。
「苗字さんの家……は、音駒の方か。それなら途中まで一緒だ」
「赤葦くんもあの辺りに住んでるの?」
「いや、俺は途中で乗り換え。苗字さんは一本だからいいね」
「揺られてるだけでいいからね」
駅に着くと改札を抜け、ともにホームまで上る。カフェから駅まで、それほど距離は離れていないものの、とはいえ気まずい相手とならば息苦しく感じるくらいの時間はかかった。だが意外にも、赤葦との時間を気詰まりに感じることはなかった。
赤葦はもともと相手が誰であろうとも、それほど気まずさを感じない性質だ。名前もまた、赤葦相手ならば、多少の沈黙でも間が持たないなどと気にせずに済んだ。
まだ親しさとは程遠いながらも、赤葦は一緒にいて気楽なタイプだ。黒尾が先回りして名前に楽をさせてくれるなら、赤葦はそもそも気遣いをしないしさせない。いい意味で自然体であり、名前が無理せずとも波長が似通っている。
「赤葦くんって、ゆるっとしてるね」
「そうかな。俺、取っつきにくいって時々言われるけど」
「そう? 変に気を遣われてる感じしないから、こっちも楽だなーと思って今、ここまで歩いてきたよ」
「はは。たしかにあんまり気を遣ったりはしてないかもしれない」
「マイペースって言われるでしょう」
「どうだろう。長いものに巻かれたり、勢いのある人についていくのも嫌いではない」
とりとめなく話題が流れるのに任せながら、赤葦と名前は電車を待つ。
ほどなく、ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、隣同士で座席に座った。夕方と夜のはざまという微妙な時間帯だからか、縦座席の車内には空席が目立つ。足元のヒーターがあたたかく、駅まで寒空の下を歩いたせいで凍えた身体が、ゆっくりと解けていくようだ。
電車に揺られているうち世間話はつらつら流れ、話題はまた黒尾と名前のことに戻ってきていた。
「え、じゃあクリスマスは黒尾さんと孤爪と過ごしたんだ」
驚く赤葦に、名前はにこにこと頷く。
「そうだよ。幼馴染水入らずのところにお邪魔しちゃって、それはちょっと申し訳ない気持ちもあったんだけど。でも美味しいお肉と美味しいビールで最高のクリスマスだった」
「黒尾さんはともかく、孤爪に招かれるのは結構すごいことなんじゃないかな」
「それはほら、私の場合は黒尾さんの紹介で知り合ってるから。黒尾さんパワーだよ」
研磨が類まれな人見知りで内向的な人間だということは、名前もすでに知っている。もっとも、学生時代に比べれば現在はだいぶ人見知りも改善されたらしい。名前が研磨と友達になれたのも、多少の社交力を身に着けた今の研磨だからこそだろうと、以前名前は黒尾から聞いたことがある。
一方で赤葦は、学生時代の研磨のこともよく知っている。付き合いは高校生になってからなので、研磨がもっとも内向的だった時期は過ぎてはいるのだが、それでも赤葦にしてみれば「あの孤爪が」という気持ちにはなるのだろう。名前がクリスマス鍋の話をしている間ずっと、赤葦は驚きっぱなしで名前の話を聞いていた。
窓の外を流れていく屋根に視線を遣ったまま、名前はしみじみとこの一年ほどの出会いについて思いを馳せる。
「私が孤爪くんと友達になれたのも、こうやって赤葦くんと話をしてるのも、考えてみれば黒尾さんのおかげなんだよね。私、もともと友達がいな……いや、少なかったんだけど、黒尾さんのおかげで大学の最後一年はものすごく楽しく過ごせたよ」
最初は黒尾の仕事の息抜きとして、名前が黒尾に紹介されたはずだった。しかし蓋を開けてみれば、名前の方が黒尾から、より多くのものを受け取っている。
これまでも折に触れて黒尾に感謝してきた名前だが、いよいよ大学の卒業が近づくと、改めてこの一年がいかに充実していたかを思い知る。
勉強とバイトばかりしていた三年間も、名前にとっては充実した大学生活だった。だから四年生の一年間は、いわばボーナスステージのようなものだ。黒尾と一緒にいられれば、マンションまでの短い帰り道ですら、名前の中で楽しい思い出になって蓄積された。
そんなことを考え、幸福な思い出に身を浸していた名前は、ふと赤葦からじっと視線を注がれていることに気が付いた。その視線に、慌てて意識をうつつへと引き戻す。電車ががたんと大きく揺れ、そのままカーブを曲がっていく。車内に差し込む光は、いつのまにかぐっと赤みを帯びていた。
赤葦の切れ長の瞳にやどる鋭い眼光が、底にある感情を不明瞭にしたまま、まっすぐ名前を刺していた。身体の正面とは違う向きを向いた顔を支える首は太い。だが赤葦を目の前にしながらも、名前はうっかりするとその首筋に黒尾を連想しそうになる。
ほとんど邪念に等しい思考を、自らの手の甲をつねることで名前は無理やり振り払った。かっかと顔が熱くなるのは、効き過ぎのヒーターのためだけではない。
「赤葦くん? どうかした?」
平静をよそおい訊ねると、赤葦は一瞬気まずげに言い淀んだ。どうやら赤葦も、無意識に名前に視線を遣っていたらしい。それからしばしの沈黙ののち、赤葦は声を低めて名前の問いに応じた。
「いや、なんていうか……名前ちゃんは黒尾さんのことを――、あ、もう苗字さんって呼んでいいのか」
と、唐突に話題が摩り替る。その急旋回に、名前は思わず笑みをこぼした。
「呼び方、どっちでもいいよ。名前ちゃんって呼ばれるのも、ちょっと面白くなってきちゃったし」
「面白いとは……」
「赤葦くんに名前ちゃんって呼ばれるの、ちょっと面白くない?」
「面白いというよりは、違和感があるかな」
赤葦にとってはそうなのだろう。だから名前も、下の名前で呼んでほしいなどと無理強いする気はなかった。呼ばれ方にこだわりはなく、赤葦が呼びやすいように呼んでくれればそれでいい。
「ええと、それで、何の話だっけ?」
名前が赤葦に話の続きを促す。赤葦はひとつ頷いてから、口を開いた。
「ああ、うん。名前ちゃんは黒尾さんのことを、すごく慕っているんだなと思って」
「えっ」
結局下の名前を採用したのか――という驚きもさることながら、名前は、名前が黒尾を慕うということについて、赤葦が今改めて言及したこと自体に驚き瞠目した。
電車の車内アナウンスが、上滑りした名前の意識を素通りしていく。数拍、言葉を探して口をはくはくと開いたり閉じたりする名前を、赤葦は怪訝そうに見つめた。
やがて名前は、ようやく言葉の端緒を探り当てたというように、
「だ……だって、あんなに気配りのうまい人って、なかなかそんなにいなくない? そりゃあもう、私は黒尾さんの『茶飲み友達』ではあるけれど、当然ながら尊敬してるよ。いっそ尊崇だよ」
一息に言葉を吐き出した。
「尊崇……」
半ば引いたように赤葦が呟く。しかし名前は力強く、大きく頭を縦に振った。
「そりゃあもう。黒尾さんのことを好きなんだって気付いたのは、結構最近のことなんだけども。でも、尊崇はだいぶ前からしてるからね」
黒尾のことを好きだと思うより、黒尾を尊敬する気持ちの方が先行しているのだ。名前が恋愛感情にそれほど重きを置いていないのは、それが後から発生したものだからというのも大きな理由としてあった。
名前の心に先にあったものは『茶飲み友達』という名前と、黒尾への敬意。それならば先にあったものが優先されるのは、名前にとってはごく自然なことだ。
赤葦は、名前の力説に、うんともすんとも返事をしなかった。その反応の鈍さに、名前は戸惑い首を傾げる。赤葦ともあろう人物が、黒尾の人間性について理解していないとも思えない。
不審に思って名前が赤葦の顔を覗き込むと、赤葦は何とも言えない味の飴を食べたような顔つきで、
「名前ちゃん、黒尾さんのことが好きなの?」
と、やはり声を低めて問うてきた。電車が駅に到着して、冷たい風が車内に吹き込んでくる。名前の意識は寸時、吹き込む冷気に割かれてしまう。乗り込んできた乗客でいくらか空席がうまったが、依然車内はすいている。
ドアが閉まり、電車が発進する。ガタガタと揺れる電車に身を任せているうちに、名前は自分が赤葦の問いに答えていないことにようやく思い至った。
合っていたはずの赤葦と名前の会話のテンポが、気付かぬうちにずいぶんずれていた。まるで地球の反対側の人間と、タイムラグのある会話をしているような遣り取りだ。どうしてずれてしまうのかもよく分からず、名前は半ば困惑した顔で赤葦を見た。
「え、おかしいかな? 私、なんかおかしいこと言ってた?」
「いや、おかしくはない、おかしくはないけど……いや、おかしくないのか……?」
見合わせた顔は、互いに怪訝な表情になっていた。そして、しばらく見つめあった末、名前はようやく気がついた。
名前は黒尾に好意を持っている。そのことを、名前はもはや当然の前提のように思っていた。だがよくよく考えてみれば、そんな話は研磨にも、もちろん黒尾本人にも打ち明けたことはない。まして今日がほとんど初対面の赤葦が、そんなことを知っているはずがない。
年末年始の宮城帰省の際、名前は方々で好きな人がいるという話を振りまいてきた。それは矢巾の要請によるものでもあったのだが、ともあれその結果、嫌というほど黒尾の話をさせられた名前は、周囲の人間がみな「名前は黒尾を好きだ」という情報を共有しているかのように錯覚してしまっていた。
もしかして、私は話すべきでない話を、今赤葦くんに打ち明けてしまったのかもしれない。そう気付いた瞬間、さっと名前の血の気が引いた。やってしまったのかもしれない。しくじったのかもしれない。そんな思いが、名前の胸に去来する。
だが赤葦は、名前の言い訳を待たずに、
「一応聞くけど、その好きっていうのは恋愛的な意味なんだよね……?」
探るような調子で、名前に問いを重ねてきた。どうやら赤葦は赤葦なりに、名前と黒尾の状況を把握するため、情報を咀嚼し、理解しようと努めているらしい。茶化したり、引いたりするような反応はひとまず見られない。
「ええと……そうだね……。恋愛的な意味も含んでるし、人間的な意味も含んでるかな。人として好きだっていうのと、異性として好きだっていうのは両立するよね?」
慎重に、言葉を選んで名前は言う。赤葦も、戸惑いながら首肯した。
「それは、多分。両立するんじゃないかな」
「あ、そ、そうだよね。やっぱりそうなんだよね。だから私も、人として好きだなと思っていた黒尾さんのことを、いつのまにやら恋愛的な意味でも好きだなと思っていたという感じで……」
そして、しどろもどろになりながら、そこまで説明したところで、
「あっ、でも付き合いたいとかではないんだよ」
すかさず名前はそう付け加えた。赤葦に限って人の恋路に手出しをしたりはしないだろうが、万が一にも余計な気を回されては困る。善意が空回り、その結果最悪の事態を招くことだって十分にありうる。
案の定というべきか、赤葦は意外そうな表情を浮かべた。
「えっ、そうなの? 好きだけど、付き合いたいわけではないんだ?」
「もちろんです。だって黒尾さんは私のこと、ただの『茶飲み友達』としか思っていないわけだから。成就する見込みもない相手に振り向いてもらおうと頑張って、それで全部めちゃくちゃになったりするよりは、現状維持で十分満足しているというか……」
「ああ、それは少し分かるかもしれない」
「それに、黒尾さんのことを困らせたくもないしね」
自ら発したその言葉に、名前の胸はどきりと鳴った。
赤葦に対して語る言葉は、すべて名前の本音のはずだった。それなのに、口から発する言葉はどこか、自分で自分に言い聞かせるような響きを帯びている。
無理をするより、現状維持の方がいいはずだ。黒尾のことを困らせるようなことはしたくない――そんな耳ざわりのいい言葉たちは、発した自分ですら空疎でしらじらしいものに聞こえてしまう。
だがさいわいにして、名前の感じた空疎さを、赤葦は言葉のなかから感じ取らなかったようだった。
「そうか……。それじゃあ名前ちゃんは、黒尾さんに気楽に片思いしてる現状でひとまず満たされてるんだ」
「そういうことになるんだと思う」
赤葦の要約に、名前は異議を挟むことなく同意した。自分が満たされているのか。まともに好きな男性と付き合ったことがない名前には、満たされていると言い切るだけの自信がない。もしかしたら付き合うことができたなら、もっと満たされるのかもしれないと思わないわけではない。
さりとて黒尾と付き合いたいと思っているわけではないのも事実。それならば、現状は満たされているとしか言いようがなかった。これ以上、黒尾に何も望んではいない。
電車がゆっくりと速度を落とす。「俺、次で乗換だから」と赤葦が膝の上に抱えていた鞄を肩に掛けなおした。電車が完全に停まるのを待ってから、赤葦はすっと立ち上がる。
「じゃあ、また」
赤葦が軽く手を上げた。名前は慌てて、
「今の話、黒尾さんには内緒にしてね。黒尾さんと変な感じになっちゃうとすごく困るから」
赤葦にそう念押しする。赤葦はほんの一瞬、見間違いかと思うような瞬間だけ、名前を見定めるような顔をして――そしてすぐ、彼らしい淡い微笑みを口許に浮かべた。
「それは、うん。もちろん」
そうして赤葦は、乗り込んでくる客の背後にするりと消えて、あっという間に見えなくなった。最後に一瞬だけ見せた赤葦の表情が気に掛かったものの、直後どやどやと乗り込んできた学生の集団に履いていたブーツの先を踏みつけられたことで、名前はあっという間に目の前の現実に呑み込まれてしまった。