クリスマスの翌日に帰省した宮城で年末年始をゆっくり過ごし、名前が東京に戻ってきたのは三が日が明けた、一月四日のことだった。
翌五日、名前は未だお屠蘇気分の抜けきらないまま、だらける身体に鞭打って、どうにかこうにか都心の大型書店まで足を伸ばした。
三が日が明けてすぐの土日は、街にも電車にも人が多い。それは書店であっても例外ではなく、店内には老若男女が溢れている。
今日の目当ては、名前の好きな作家が昨年末に新刊を発売したのを記念した、単独のトークイベントとサイン会だ。以前似たようなイベントに参加し、大学入学の直後に痛手をこうむるという苦い経験をした名前は、こうしたイベントにはどうしても苦手意識がある。だが大学卒業を間近に控え、そろそろその傷も癒えた頃だろうと、思い切ってチケットを購入したのだった。
昼過ぎから始まったトークイベントは、年明け早々でも足を運ぶコアなファンに見守られ、終始楽しげな雰囲気で進行した。やがてトークイベントとサイン会が終了したのは、太陽が西の空に傾き始めた頃だった。
表紙裏にサインを入れてもらったばかりの新刊を、書店のカバーをかけ胸に抱えなおす。都心に出てきてはいるものの、このイベント以外には特にこれという用事もない。買い物も、宮城で新年の初売りに参戦したばかりだった。
びゅうと冷たい風が吹きつける。頬が裂かれるような寒さに、名前はわずかに背を丸めた。
このまま寒空の下をひとりでうろつく元気はない。さっさと自宅に戻ろうと、駅の方角に歩き出したところで、名前はすぐ目の前に知った人物の横顔を見つけた。
「あ、赤葦くん?」
思考が口をついて、ほとんど無意識に名前を呼ぶ。だがすぐに、呼ばなければよかったと後悔した。
赤葦は黒尾と研磨の友人ではあっても、名前とは一応自己紹介をしたことがあるだけの、赤の他人にすぎない。まして、赤葦の隣には連れがいる。赤葦と一緒に振り向いた連れの女性の顔を見た瞬間、名前は「しくじった」と思ったのだった。
その赤葦は、呼びかけに応じて振り向いたはいいものの、鼻に皺を寄せるような顔で目を眇めた。だがほどなく名前のことを思い出したらしく「あ、ええと、苗字さん」と、ぎこちなく淡い微笑みを向けた。
「はい、苗字です。こんにちは、あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます。お久し振りです」
挨拶をしながら、名前はさりげなく赤葦の荷物に視線を遣る。手に持った紙袋は、名前が今の今までいた書店で配布しているものだ。そして薄い紙袋からは、中に入っているハードカバーの本の表紙がうっすら透けて見えていた。名前がまだ抱えたままの、名前の推し作家の新刊だった。
どうやら赤葦も、同じことに気が付いたらしい。
「苗字さんもサイン会に?」
名前が抱える本を一瞥し、一転にこやかに尋ねる。
「そうなの。大好きな作家さんで。赤葦くんも?」
「うん。俺も中学の頃から好きなんだ」
思いがけない共通点だった。そういえば前回研磨の家で会ったときに、黒尾と赤葦が出版社がどうのという話をしていたような気もする。立ち入った話に踏み込むのも悪いと思い、前回はあまり個人的な話を聞かないようにしていたが、もしかすると本好きが高じてということなのかもしれない。
と、赤葦の隣でふたりの遣り取りを見守っていた女性が、
「赤葦、友達?」
と控えめに言葉を挟む。涼しげな目元の端正な顔立ちの女性は、赤葦と名前に交互に微笑みを送っていた。女性の名前でもどきっとしてしまうような艶やかさだが、赤葦はことさらときめく様子もなく、
「友達の友達というか、先輩の友達というか……学年と年齢は俺とタメです」
あくまで平坦な声で、名前との関係をそう説明した。
「はじめまして、苗字といいます。赤葦くんとは共通の知り合いがいて、それで少し前に知り合いました」
ぺこりと頭を下げ、自己紹介する。すると「あら」と華やいだ声を返され、
「さっきの話聞いててそうかなとは思ってたんだけど、やっぱりあなた、苗字さんっていうんだ。私の苗字も苗字なんだ」
見た目の艶やかさとは対照的な、何ともくだけた調子ではしゃがれた。そういえば、と赤葦が今更気付いたような顔をする。
「私、自分と同じ苗字の方に、家族以外だとはじめて会いました」
名前は女性の顔をまじまじと眺めた。苗字が同じではあるものの、名前と女性では顔立ちに似たところはまったくない。
それほど特殊な苗字でもないから、血縁関係があるわけではないのだろう。だが、やはり同じ苗字の人間にはシンパシーのようなものを覚える。
「苗字さんはご実家はこのあたりなの?」
「いえ、実家は宮城です」
「そうなんだ。私の実家のまわりだと、苗字さんって苗字のお宅は結構あるよ」
名前は「はぁあ、なるほど」とぼんやりした返事をした。赤葦にここで会っただけでも十分に驚きなのだが、その連れが自分と同じ苗字とは。年の初めから、何かしら奇縁めいたものを感じる。
名前がひとしきり感心していると、
「それより赤葦、苗字さんに私の紹介はしてくれないの?」
苗字と名乗る女性は、今度は赤葦に向けて嬉しそうに言う。「自分で自己紹介すればいいじゃないですか」と赤葦はげんなりした返事をするが、それでも年長者には従うようで、結局は言われたとおりに苗字を名前に紹介した。
「ええと、苗字さん、こちらの苗字さんは俺のサークルのOGで……」
「待って待って」
いくらも紹介しないうちに、苗字が赤葦を遮った。
「同じ呼び方の人間が三人のうち二人って、さすがにそれは紛らわしいでしょ。分かりにくいし、呼び方変えない? ふたりとも苗字さんじゃ会話がごちゃごちゃして敵わないよ」
ふたりの苗字の片割、名前ではない方の苗字が、妙案とばかりに提案する。名前たち本人はともかく、呼び分けなければならない赤葦には、ふたりも「苗字さん」がいては不便極まりない。
苗字は、視線を名前に戻して愛想よく微笑む。
「苗字さんは下の名前はなんて言うの?」
「名前です。苗字名前といいます」
「名前ちゃんか。可愛い名前。それじゃあ下の名前で、名前ちゃんって呼ばせてもらってもいい?」
「もちろんです」
「ありがとうね。赤葦も名前ちゃんって呼ばせてもらえば?」
あっという間に仕切る苗字に、当然のことながら赤葦はぎゅっと眉根を寄せた。赤葦の性格を考えれば、出会って間もない女子を下の名前で呼ぶのには抵抗があるのだろう。案の定、赤葦は眉根を寄せたままで苗字にやんわり反論する。
「いくら何でもそんなに親しくない相手を下の名前で呼ぶのは……」
「でも、三つも年上の私を今更下の名前に呼び変えるより、まだ知り合って間もない名前ちゃんの呼び方を変える方が楽じゃない? 年齢も同じならなおさら」
「……たしかに」
そう同意したのは、赤葦ではなく名前だった。これまでのふたりの話を聞いていると、赤葦が呼び方を変える場合、たしかに年上の苗字よりも同い年の名前の方が心理的に呼びやすかろうと思ったのだ。
「私は下の名前で呼ばれるの嫌とかないから大丈夫だよ。その、赤葦くんが嫌でなければなんだけど」
大学の知り合いの中には、名前を下の名前で呼ぶ人もいる。バイト先のオーナーや『猫目屋』の客、矢巾だって名前を下の名前で呼ぶのだから、いまさら赤葦に下の名前で呼ばれたところで、特に不快なこともない。
それでも赤葦は悩ましげな表情で、名前をじぃっと見据える。たっぷりと時間をとって黙考したのち、
「じゃあ、名前さん……」
ひどく気おくれした様子で、赤葦は名前を下の名前で呼んだ。だが、その気弱な声を、苗字がびしっと叱咤する。
「名前さんって、その他人行儀な呼び方は何?」
「いえ、他人なんですよ」
「若人でしょ? タメなんでしょ? そこは名前ちゃんでいいんじゃないの?」
「いくら何でも馴れ馴れしすぎるでしょ……」
ちらりと赤葦が名前に視線を向ける。同意を求められているのかと一瞬思ったものの、名前は別にこれしきのことならば、馴れ馴れしいとまでは思わなかった。もちろん相手にもよるのだろうが、赤葦は不躾で無礼な馴れ馴れしさからは程遠い。
「大丈夫だよ。というか名前にちゃん付けで呼んでくれるような人、少ないから新鮮かもしれない」
「……苗字さん、変わってるって言われない?」
「名前ちゃんも赤葦には言われたくないと思うよ」
苗字の言い分に、赤葦は不本意さを表情で示し、名前はよく分からずに曖昧に微笑む。赤葦という人間のことをまだよく知らない名前は、赤葦が変人扱いされる理由も、まだよく分かっていなかった。
吹きつける一月の風は狂暴だ。葉の落ちた街路樹が唸る風に晒されて、枝を大きく揺らしている。
いつまでも路上で話し込んでいても身体が冷えるので、ひとまず三人は近くのカフェに腰を落ち着けることにした。三人には同じ作家が好きという共通点があったし、名前と赤葦は互いに相手に少なからず興味を持っている。どこかでお茶でもと提案したのは年長者の苗字だったが、名前も赤葦もその決定に異存はなかった。
「へえ、それじゃあ黒尾さんとは家族経由で親しくなったんだ。この年になってそういうのは、ちょっと珍しい知り合い方だね」
名前の正面に座った赤葦が、薄い微笑みを貼り付けて相槌を打つ。最初こそ共通の趣味である本の話をしていたが、何時の間にかテーブル上の話題は、名前と黒尾の出会いについてに取って代わっていた。
赤葦にしてみれば、黒尾と名前の『茶飲み友達』という耳慣れない関係が、どういう経緯で発足したのか気になるところだったのだろう。黒尾はその辺りは妙に口が重く、あまり詳しく話したがらない。
一方の名前は、特に言いづらそうにすることもなく「そうなんだよね」と、あっさり出会いの経緯をつまびらかにする。黒尾と赤葦が気心知れた間柄だということは、前回のときにすでに察していたから、赤葦への警戒心は端から薄い。
「俺は部活つながりでしか黒尾さんを知らないから、主将っぽくない黒尾さんを見るのはレアかもしれない」
「そうなんだ。あ、でも、だからってわけではないけど、私も黒尾さんとはたまに、どういう距離間が正解なのか分からなくなることもあるよ。学校の先輩ってわけでもないし、でも友達っていうにはちょっと複雑だし」
「社会人と学生ってだけでもね」
「そうなんだよね」
痒い所に手の届く相槌に、名前は深く頷いた。黒尾も異常に察しがいいが、赤葦もまたこちらの言いたいことを的確に汲み取ってくれる。
名前と赤葦は同い年であるものの、赤葦はどっしりと落ち着いている。だからといって威圧するような雰囲気もなく、こうして対面で話していても、ほぼ初対面とは思えないほどに話がしやすい相手だ。年上の苗字はどちらかといえば聞き役で、苗字にとっては見知らぬ人物である黒尾の話も、時折絶妙なタイミングでにこやかに相槌を打ってくれる。
と、カップの中身がちょうど半分ほどに減ったところで、ふいに苗字のスマホが鞄の中で着信音を鳴らした。
すぐに画面を確認した苗字は、一瞬だけ渋い顔をしたあとすぐに、名前と赤葦に向けて申し訳なさげに顔の前で手を合わせた。
「ごめん、ちょっと急遽仕事に行かなきゃいけなくなっちゃって! 私はこのまま会社に行くんだけど、ふたりはどうする?」
「じゃあ俺たちも出ようか」
カップの中身を飲み干して、赤葦が言う。流れでお茶をしてはいるが、親しい間柄というわけでもないふたりには、これ以上長居するだけの理由もない。名前も「そうだね、そろそろいい時間だし」と頷いた。店の外では依然として、凍て風が枯れ葉を歩道の上で巻き上げていた。