036

「いや、おまえそれ付き合ってないのかよ!?」
 矢巾の驚きよりもむしろ引いたような声に、名前は「えっ」と短く声を上げる。部屋の隅には矢巾の荷物が入ったボストンバッグ。テーブルの上には先ほど黒尾に持たされたビールの缶が、ふた缶プルタブを開けた状態で置かれている。
 日付が変わる少し前、名前は無事に矢巾と合流し、自宅に帰宅した。その後、直前まで黒尾たちとクリスマス会をしていたという話の流れから、そのまま黒尾とのあれやこれやについて、洗いざらい矢巾に白状したところだった。
 はからずもほとんど同時刻、別の場所で黒尾と同じようなことをしている名前だが、黒尾と名前が違うのは、名前はこの打ち明け話を恋愛相談だとは思っていないことだ。
 名前が黒尾に好意を抱いているのは事実にしても、黒尾と恋愛したいというわけではない。そういう意味で、名前はただの近況報告のつもりで矢巾に事情を打ち明けていた。
 だが、名前がどう思っていようとも、聞いている分には紛う方なき恋愛相談だ。そういう意味での、矢巾の「付き合ってないのかよ」だったのだが、名前は真面目な顔で矢巾に頷いて見せた。
「付き合ってるわけないでしょ。だって黒尾さんだよ、優しくて紳士で理性の鬼だよ」
「いや、クローサンのこと俺は知らないんだって」
「前に少し話してたよね?」
「あれだけで人となりまで分かるかよ」
 たしかに矢巾が黒尾と交わしたのは、せいぜいが初対面の挨拶程度のものだった。それだけでは大したことが分からないという矢巾の言い分も一理ある。
 となると、黒尾と名前の関係についても、矢巾には理解の及ばないことなのかもしれない。何せ矢巾は女子と見ればタイプかタイプでないか、口説けるか口説けないかを真っ先に思考するきらいがある。それについては名前がどうこう言う気もないが、矢巾が男女間の友情についてまず間違いなく否定派だろうことは容易に想像がついた。
 研磨の家からの帰り道で、すっかり名前の酔いも醒めている。飲みなおしのビールに口を付けながら矢巾を見ると、矢巾は心底訝しげな表情で、しげしげと名前を観察していた。
「なに、その顔は」
「いや、だって考えれば考えるほど信じられないだろ……。たとえ相手がおまえでも、普通そんないい感じになってたら、口説きにかかるのが男としての礼儀じゃないのかよ。おまえ、逆にむかつかないのか……? 口説きに来いよとか、まったく思わないのか……?」
 想像した通りの台詞に、余計なおまけまでくっついてくる。矢巾の理解不能とでも言いたげな顔つきに、名前はむっと眉根を寄せた。
「そんなこと思わないよ。みんながみんな、秀くんみたいな感じじゃないんだってば」
「俺みたいな感じってなんだ! 俺の存在そのものをディスみたいに使うのやめろ!」
「そういうわけじゃないけどさぁ、昔っから秀くんって男女の友情という概念皆無じゃん」
「まあ、それはそうだな。友達になるにしても、いったん付き合えそうかは考える」
「ほらぁ!」
 矢巾と名前との間に健全な関係が成り立っているのは、あくまでそこに血縁関係があるからだ。昔から一緒に育ってきたので、異性として云々という評価をくだすタイミングを失ったということもある。
 名前は矢巾の対女子におけるフットワークの軽さを半ば尊敬もしているのだが、とはいえ黒尾との間にその価値基準を持ち込まれても困る。勝手に恋愛感情を抱いた名前はともかく、黒尾の方にその気はないのだ。少なくとも、名前はそのように思い込んでいた。
「何度も言うようだけどね、黒尾さんはそういうのじゃないんだよ。男女の友情あり派なの」
「そういうこと言ってるやつのことを、俺は絶対に信用しないって決めてる」
「もう、そういうところ。そういうところが秀くんなんだよ」
「だからその『秀くん』を悪口っぽく使うのをやめろよ!」
「秀くんだって私の悪口ばっかり言うくせに!」
 気が付けば、深夜だというのに子供の喧嘩のような会話になっていた。矢巾と一緒にいると、黒尾や研磨を前にしているときのような落ち着きはすっかり失ってしまう。
 以前黒尾と矢巾が鉢合わせた際、名前が矢巾をさっさと追い払うように部屋の鍵を渡したのも、黒尾の前で矢巾とのきょうだい喧嘩のような会話を聞かれたくなかったからだった。矢巾は名前にとっての弱みでもある。
 矢巾がごくごくとビールを喉に流し込む。すでにしたたか酔っているような顔色をしていたが、それでもビールを飲む勢いが衰えることはない。
「まあ、そのクローサンがどう思ってるかはこの際置いておくとして、だ。名前はクローサンと付き合いたいと思わないのかよ」
 テーブルに肘をつき、矢巾は前のめりに訊ねる。名前は渋い顔で唸った。
「うーん……。この先も仲良くできたらな、とは思うけど」
「けど、向こうだってそのうち彼女くらい作るだろ。前回ちらっと挨拶しただけだけど、なんかむかつくモテ方しそうな雰囲気あったしさ」
「むかつくモテ方って何」
「あの人、俺の先輩にちょっと似てんだよ。その先輩はすげえモテてた。ファンクラブとかあるタイプ」
 矢巾の先輩というからには、男子バレー部の部員の誰かなのだろうが、他校生の名前にはそれが誰のことかまるで分からなかった。だいたい、名前が矢巾の試合の応援に行ったのは、矢巾の引退試合になった三年の冬の一度きりだ。先輩とやらは当然コート内にはいない。
 しかしファンクラブが存在するというのは、さすがに並外れたモテ方だった。その手のことに疎い名前が聞いても、尋常ではないと思うほどだ。
 黒尾からそういった話を聞いたことはない。だがそもそも、黒尾は自分の恋愛遍歴をひけらかしたりはしない。黒尾が自分で言わないだけで、もしかしたらそういう過去もあったのかもしれない。
 黒尾のスマートさや思わせぶりな態度を思えば、モテないということの方がありえないような気もしてくる。
「たしかに黒尾さん、モテるんだろうなとは思うけど……。でも、あんまりそういう話聞かないからなぁ。黒尾さんも話さないし」
「そういう話しないで何の話してんだよ」
「ネコちゃん可愛いよねとか……ラーメンは何味が好きかとか……」
「老夫婦でももうちょっと刺激のある会話するだろ」
 呆れたように矢巾が言う。矢巾の言う刺激的な会話がどんなものか、名前には想像もつかなかった。刺激的な会話をしたいのかというと、そんな希望も特にはない。
 矢巾が何を言ったところで、名前にはどれもいまいち響かない。そんな様子に焦れたのか、矢巾は中身の減ったビールの缶を、だんっと勢いよくテーブルに置いた。
「いいか? 俺は別におまえとクローサンの関係についてどうこう言うつもりはない」
「もうすでにだいぶ言ってるよ……」
「これはどうこう言ってるんじゃなくて、協力しようとしてやってるんだよ。俺はおまえに彼氏ができたら手放しで喜ぶぞ。なぜならおまえのいない宮城では『もういっそ従兄弟で仲いいんだしあんたら結婚しちゃえば?』という、冗談にしても恐ろしすぎる話題が定期的に出るからな。このご時世に、そんなデリカシーとハラスメントの観念に乏しい会話が平然とまかりとおる田舎に、俺ははっきり言ってビビってる」
「そ、そんな恐ろしい話が……。いや、デリカシーとハラスメントに関しては、親族一同も秀くんには言われたくないと思うけど……」
「おまえの耳にこの手の話が入らないのは、ひとえに祖父さんお気に入りの名前に、親族総出でそこそこ気を遣ってるからだぞ。その点俺には何の配慮もない。祖父さんちにおいて、俺の人権は犬にすら負ける」
「あっ、おじいちゃんちのシロは元気?」
「元気だけど、今はシロより俺を気遣えよ」
 祖父母宅で飼っている雑種犬のシロのことを思い出し、思いがけずほっこりした気分になった。だが矢巾の伝えたいことは、シロの健康状態についてなどではない。
 名前に恋人ができるか否かは、そのまま矢巾の将来や立ち位置にも関わることだ。今でこそ冗談半分の従兄弟同士で、なんて話に留まっているが、いつ誰がその話を本気にし始めるかなど分かったものではない。矢巾は冗談でも名前と夫婦になるなど御免だし、それは名前にとっても同じことだった。
 名前が東京で素敵な恋人でも作ってくれれば、祖父母の興味関心は完全にそちらに向くはずだ。だから矢巾としては、できればこのまま名前には黒尾を口説き落としてほしいのだ。たとえ無理難題だとしても、そうしてもらわなければ未来に破滅の火種が残る。
 しかしそれは、宮城で親族の近くに暮らしている矢巾の意見に過ぎない。地元を離れた名前では、矢巾ほどの危機感を感じることはできなかった。
「でも秀くんには悪いけど、黒尾さんは私のことなんか全然恋愛対象だと思ってないからね」
 矢巾の期待もむなしく、名前は淡々と現状を報告する。矢巾が名前を恋愛対象として見ていないように、黒尾も名前を恋愛対象とは見ていない。矢巾が名前を好きになることはないのと同じく、黒尾が名前を好きになることもないのだろう。名前の思考はいたってシンプルだ。
「年末に実家に帰ったら、それとなく好きな人がいるってことだけ言っておくよ。そうすれば秀くんの人権が蹂躙されることもないでしょ」
「どうだろうな……。それはそれで面倒になるかもしれない気しかしねえよ」
「もう、じゃあどうしろって言うの。文句ばっかり言うなら秀くんがさっさと恋人作ればいいのに」
「それができたら苦労してねえんだよ」
 結局は、特に建設的な意見が出るでもなく、あとは酔っ払いの愚痴話に終始した。ビールを片付け、ふたりともが寝支度を済ませたのは、深夜も二時を回った頃だ。
 客用布団にもぐりこんだ矢巾は、部屋の照明が消える直前、名前に向かってひと言ぼやく。
「そもそもクローサンは本当に、おまえのことどうとも思ってないのか」
 しかしそのささやかなぼやきは、矢巾に背を向け寝転がった名前の耳にまで届くことはなかった。
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