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 名前がタクシーに乗り込んだのを確認してから、黒尾はいそいそと研磨の家の中へと戻った。しばらくタクシーが来なかったこともあり、こたつでぬくまっていた身体は、すっかり芯から冷えている。足早に室内に戻ると、研磨がちょうど、梅酒をグラスに注いでいるところだった。
「え、おまえ今から飲むの?」
「クロまだ飲むでしょ」
「飲むけども」
「苗字さんがいたら話しにくい話が今から始まるのかと思って。それならシラフより少しでも酔ってた方が聞きやすいし」
 平坦な口調でまさしくこれからのことを言い当てられ、黒尾は参ったという顔をした。立っているついでに冷蔵庫からビールを一本取り出してから、黒尾もこたつに戻る。名前に持たせたぶん以外にも、まだ何本か買い置きが残っていた。

「ふうん、そんなことがあったんだ」
 飲みなおしの乾杯もそこそこに、たまっていた話を洗いざらいぶちまけた黒尾に、研磨は短くひと言コメントした。先日の茂部との一件についても、遅ればせながら報告を済ませる。
 あってはならない仮定だが、今後またこういう非常事態が起こらないとも限らない。いざとなれば名前の避難先として研磨の家を使おうという目論見が、黒尾にはあった。有事の際には宮仕えの黒尾よりも、研磨の方がフレキシブルに対応できる。そういう意味でも、研磨との情報共有は必須だ。
 だが、黒尾がこの件を持ち出したのは、もちろんそれだけが理由ではない。
「そういうことがあったから、今日のクロは苗字さんに対してちょっとうっ……物凄く分かりやすく過保護だったの?」
「おまえ今ちょっと鬱陶しいって言おうとした?」
 敏感に黒尾の変化をキャッチする幼馴染の洞察力に舌を巻きつつ、遠慮のない放言にはきっちりと言及した。
 黒尾としても、自分が過保護になっている自覚はそこそこにある。研磨宅の敷地内とはいえ、夜に名前をひとりで立たせるのを嫌がったのは、その過保護さのあらわれだ。だから鬱陶しいなどと言われると、自覚がある分つらい。
「苗字さんがいいならいいと思うけど」
 形ばかりだが、研磨が自分の放言に一応のフォローを入れた。無責任にも聞こえるが、研磨には名前と黒尾の間の微妙な空気に責任などないのだから当然だ。
 黒尾は溜息を吐いて、ビールを啜る。去り際、名前が鬱陶しがっているようには見えなかった。少なくとも黒尾の目には。
「鬱陶しがられてはいないだろ。多分」
「それはそれですごいけどね。苗字さん、しっかりして見えるけど世話焼かれるのに抵抗ないんだ」
「最初はあったみたいだけど、順応性が高いんだろ。まあ、もともとお嬢っぽいしな。この間グーグルアースで実家見せてもらったんだけど、祖父母んちですって苗字さんが見せてくれた家、家っつうか屋敷だった」
「なるほど」
 名前の実家が地元では少し名の知れた素封家だということは、研磨もうっすら聞き知っている。アルバイト着だった初対面のときはともかく、名前の身に着けているものがそれなりに上等なものだということにも気付いている。
 いくらアルバイトばかりしているとはいえ、喫茶店の学生アルバイトの給料など知れている。上等な私物は実家が裕福な証拠だ。
「そのお屋敷見て、クロは挨拶に行く想像とかしたの?」
「さすがにそこまで気が早くはない」
 いずれは挨拶に行く気があるんだ、とは思ったものの、研磨はわざわざ口に出したりしない。人目を惹く華と社交力を持つこの幼馴染が、その素養とはうらはらにそれほど華やかな恋愛遍歴をしているわけではないこと、そして根が真面目かつ古めかしいところがあるので、恋愛と結婚を分けては考えられないことを、研磨は不本意ながらよく知っていた。
 研磨が黙っているのをいいことに、「俺このまま恋愛トークに入ってもいい?」と、黒尾が切り出す。
「それを話したくて残ったんじゃないの? だいたい、嫌って言ってもクロは勝手に話すじゃん」
「いや、さすがに嫌がってる相手に恋愛の話するほど、ふわふわしてねえわ」
「そうかな。彼女ができそうなときのクロって、結構ふわふわしてると思う」
「俺いま彼女できそうに見えてる? 研磨の目から見てそんな雰囲気ある?」
「いや、今は見えてない」
「何なんだよ」
 ともあれ、夜も深まり、酔いも深まる頃。幼馴染の成人済み男性ふたりが膝をつきあわせ、恋愛の話を真剣に話し込むときに生じる照れや気恥ずかしさのようなものは、どうあれかなり薄れてしまっていた。
 話の端緒を探るようにビールを啜る黒尾を、研磨は冷静な瞳で眺める。研磨は黒尾と名前の関係がどうであろうと、さして興味は抱かない。しかしこの家で黒尾と名前が赤葦と鉢合わせてから、まだそれほどの月日がたったわけでもない。それなのに黒尾の言動が、すでに大幅にずれていることには、黒尾の幼馴染として多少興味があった。
「おれは、どういう心境の変化があったのか不思議に思ってる」
 思索にふける黒尾に率直にそう伝えると、黒尾が不思議そうに首を傾げた。
「心境の変化?」
「この間、苗字さんは特別な友達って、友達宣言してたじゃん。赤葦まで巻き込んで」
「あー、はい。そうでしたね……」
 ばつが悪そうに眉をひそめる黒尾に構わず、研磨は続ける。
「あれって結局、宣言でもしておかないと好きになっちゃう、というかもうほぼ好きみたいな話だったってことだよね。それなのに、宣言しても結局好きだって認めてる、その心境の変化は何なのかなと思って」
「どうでもよさそうな顔をして結構ぐさぐさ刺しやがる。痛いところを、上から、容赦なく」
 茶化したような物言いだが、その実それは黒尾の本心でもあった。黒尾とて自分の言動に一貫性がないことは重々承知しているし、だからこそ研磨に直球でそこを問われると、痛いところをつかれた気分になる。
「別に、心境の変化ってほど劇的なことがあったわけではない。あの茂部って人のことがなかったとしても、遅かれ早かれ認めてたとは思うし」
 言い訳のようにそんな前置きを置いてから、黒尾は溜息をひとつ吐き、言った。
「なんていうかな。思ってたより、自分が苗字さんの中の特別になってたのが、嬉しかったんだよな」
「それは前から分かってたことじゃないの?」
「分かってたけど、完全には分かってなかった」
 黒尾の言葉に研磨が首を傾げた。それもそうだろうと黒尾自身思う。だが、それ以上にうまい言い方を見つけられなかった。
 名前が自分のことを特別に思ってくれていることは、黒尾も以前から察している。だからこそ友達だと名前に聞こえるように話したりと、こまごまとした気遣いで現状維持に努めてきたのだ。
 特別になりすぎれば、遠からず名前との仲が恋愛にもつれ込むだろうことは容易に想像できる。だが元々祖父母を経由して知り合った名前のことは、恋愛対象として見たくなかったというのが本音だ。近くに寄り過ぎず、適当な距離でじゃれているくらいが丁度いいのだと、本心からそう思っていたはずだった。
 その気持ちがずれ始めたのは、一体いつからだっただろうか。決定打は茂部とのことだったかもしれないが、それ以前からもうずっと、折に触れ名前の侵食を許し続けてきた。
「苗字さんって友達いないだろ。で、この間、いろいろあって部屋に入れてもらったんだけど、部屋もさ、無駄なものがねえんだよ」
「ミニマリストってこと?」
「いや、そういうんじゃなくて」
 そのときのことを思い出そうとするように、黒尾の瞳が遠いところを見つめる。黒尾が名前の部屋に招かれたのはこれまで二度。その二度ともが突然の訪問にもかかわらず、名前の部屋は整頓が行き届いていた。
 単に清潔だとか物が少ないだとか、そういうことではない。
「なんか、なんていうかな、苗字さんの部屋って、苗字さんの本当に好きなものとか、大事なものだけ厳選して置いてる感じなんだよな。部屋に浮いてるものがないというか」
「ああ、それはなんとなく分かる」
「だよな。そういうところは研磨にちょっと近い」
 研磨の部屋もまた、研磨が選び抜いたものだけが置かれている。高価なものもあれば、雑多で廉価な、がらくた同然のものもある。
 だがそれらのすべてに研磨は価値や意味を見出している。逆に言えば、どれほどの一級品であろうとも、研磨が価値を見出さないものはこの家にはほとんど置かれていない。
「俺はわりとそういうの適当で、どっちでもいいけどとりあえず捨てずにおこうとか、手放す理由もないから持っておこうとか、俺の部屋にもそういうもんが多いだろ。いや、多いんだよ。だから苗字さんの部屋見て、あー、苗字さんっぽいって思ったし、自分がその部屋に入れてもらえたのがまあまあ嬉しかったりもしてだな」
 むろん黒尾は、名前が自分の部屋に黒尾がいることを異質と感じていたことなど、まるで知る由もない。一方で、名前の特別な場所に招かれたことの意味を、名前すらはっきりと理解していないにもかかわらず、黒尾は正しく理解していた。そしてそのことを、名前が思う以上に、あるいは黒尾自身が想像していた以上に、黒尾は嬉しく思ってしまった。
 だからこそ、直後に赤葦まで巻き込んであんな小芝居を打ったのだ。結局はそれも無駄なあがきとなってしまったが。
「あとは、まあアレだな。俺、泣いてる苗字さんにハグしかけたんだけど、そのときに『あ、まずい』と思って、咄嗟に堪えたんだよ」
「それは……そうだね。そのとき勢いに任せてハグしてたら、今頃クロも変質者だよ。自制心があってよかったね」
「そうだけども」
 元も子もない研磨の発言に、黒尾が顔をしかめた。その顔を見て、研磨は言う。
「抱きしめても許されるポジションが、欲しくなったんだ?」
「……そう纏めると俺がこらえ性のないやつみたいになるからやめて」
「でも間違ってないでしょ」
「そりゃあ許されるならハグりたいけども」
「さすがにハグは友達では許されないもんね。木兎さんみたいな人ならともかく、クロも苗字さんもその辺り真面目だし」
「そうそう。だから恋人になって許されたい。いや、何を言わせるんだよ」
「クロが勝手に言っただけじゃん……」
 むっと眉根を寄せてグラスを傾けたところで、研磨はいつのまにか自分のグラスが空になっていたことに気が付いた。すかさず黒尾が、研磨のグラスに新しく梅酒を注ぐ。研磨が満足そうに微笑んで、梅酒をちびっと舐めた。
「ふうん……。じゃあクロは、これからは苗字さんの恋人を目指すんだ」
 そういうことならば、それほど難しいこともなさそうだと研磨は思案する。名前が黒尾に好意を持っているのは一目瞭然だし、春からも名前は東京で暮らすことが決まっている。ふたりが思い合っている以上、付き合うにあたっての障害などひとつもなさそうだった。
 しかし、
「ところが、そう簡単な話でもないんだな」
 黒尾が神妙な面持ちで、ビールの缶を顔の高さに持ち上げた。
「考えてみ? 今までさんざん僕たちお友達ですよってきっちり線引きしまくって、優しくしてるのも年下の女子にはこのくらいして当然だとか、下心と親切は違うとか偉そうに言ってたやつが、急に露骨に好意ありますって顔してきたらどう思うよ?」
「……結局下心だったのか、と思うかな」
「だろ!?」
 こたつに足を埋めたまま、黒尾が勢いよく研磨の方に顔を突き出す。はずみでこたつの天板が揺れ、梅酒がちゃぷんとグラスの中で揺れた。
 研磨がもの言いたげに黒尾を睨む。だが黒尾は、さして気にするふうもなく続けた。
「俺がもし、今ここで苗字さんにモーションかけたとする。そしたら今まで俺が苗字さんに対してやってきた親切が、すべて下心によるものだったのかって疑われる。それはちょっと、さすがに……」
 今度は一転して、黒尾は打ちひしがれたように背を丸める。だいぶ酔いが回ってきているのか、いつになく赤裸々に胸のうちを告白している黒尾は、研磨の目から見てもかなり手詰まりになっているように見えた。そもそも手詰まりになっていなければ、こんなふうに酔うようなこともない。
「たしかに、たしかにな? 赤葦まで巻き込んで友達宣言したり、度重なる苗字さんの『親切ですね』攻勢にも、年下の女の子への対応としては普通であって、何ら特別なことはないと念押し続けてきたのは俺ですよ? けどまさか、それが全部ここで自分に返ってくるとは思わねえだろ。迂闊に押したら今までのすべてが裏目に出かねんこの状況って何だ!?」
「自業自得? 因果応報?」
「それはそうだけれども!」
 勢いよく返事をしたはいいものの、黒尾はそこで空気が抜けた風船のように、ぺたんと天板に顔をつけた。だらしない姿勢は普段の黒尾らしくもなく、研磨はここでようやく少しだけ、黒尾に対して同情めいた感情を覚えた。
 分かりやすく、途方に暮れている。黒尾が途方に暮れているところなど、研磨はもう何年も見たことが無かった。研磨の知る黒尾は面倒見がよく頼り甲斐があって、飄々としているくせに人望が厚い人間だ。幼馴染の研磨の前でさえ、黒尾はごく自然にそう振る舞う。
 こんなふうに酔って取り乱し、隙だらけの黒尾は珍しい。というよりも、見たことがない。大学生の頃、手酷い失恋をした時すら、黒尾はこんなふうにはならなかった。
 何か言葉を掛けるべきだろうか。励まし慣れない研磨は、黒尾の醜態を前に決めあぐねる。
 だが結局、研磨が何か励ましの言葉を口にするより先に、黒尾は自力で背すじを伸ばして復活を遂げた。
「けどまあ、強がってるってわけでもなく、今はまだあんまり押すタイミングでもねえのかなとも思うしな。苗字さんも色々あったばっかだし」
 今でも茂部の話をすると、名前の表情が少し強張るということに、他人の機微に敏い黒尾は当然気付いている。自分と茂部が同じような人種だとはまるで思わない黒尾だが、だからといって男性という単純な属性までも無視するつもりはない。
 今ここで自分が名前に迫ることで、名前に嫌な思いを少しでもさせる可能性があるのならば、ひとまずは現状維持で時間が解決するのを待つ手を選ぶ。黒尾はそういう人間だった。
「そういうわけだから、当分はこのままじわっと仲良くしとく。ハグはできなくても、現状俺が苗字さんにいちばん近い男友達なのはたしかだろうし。実際、このポジションもこれはこれで美味しいしな」
 それもまた、黒尾にとって間違いなく本音だった。男友達どころか、東京に友達と呼べる人間がほぼ皆無な名前にとって、黒尾は恋人でなくてもすでに十分特別な立ち位置を確保している。ならば何も、今このときに急いて事を仕損じる必要はどこにもない。じっくり攻略していけばいいだけの話だ。さいわい、黒尾はそういう方法が嫌いではなかった。
 気を落としたかと思えば、大人ぶった余裕を見せたりもする。いささか情緒不安定な黒尾を、研磨は冷静な目でひたと見据えていた。
「そんな悠長なこと言ってて、トンビに油揚げをさらわれないといいね」
 ぽつりと呟いた研磨の言葉に、黒尾が赤ら顔で首をひねる。
「トンビ? そんなやついたか……?」
「トンビはいないかもしれないけど、トンビと同じ猛禽類ならわりと近くにいるからね」
 研磨の不穏なひと言は、ちょうど吹きつけた真夜中の風に震えた窓ガラスの音に掻き消され、黒尾のもとまで届かず消えた。
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