034

 研磨宅でのクリスマス鍋パーティーは、黒尾のしきりによって恙無つつがなく進行した。最初に具材を切って以降は、名前には特に仕事の割り振りもない。完全に黒尾に鍋を任せきっている研磨ともども、のんびりと鍋を楽しんだ。
 一応クリスマスだからという名目で集まっているものの、面子が面子なのでそれほどイベント感はない。ケーキもホールケーキではなく、カットされたものを数種類買ってきた。つけっぱなしのテレビでは、特にクリスマスと関係のない連続ドラマが流れているので尚更だ。
「チキンとか買ってきた方がよかったか」
 鍋のアクを取りながら黒尾が言う。先ほどからこまごまと鍋の面倒を見ているが、研磨の平然とした様子から察するに、これもいつものことらしい。名前は「牛だけでお腹いっぱいですよ」と答える。研磨もこくこくと頷いた。普段から食の細い研磨は、鍋だけですでにうんざりした顔をしている。
 鍋が一段落したところで、こたつの上のカセットコンロを撤収し、冷蔵庫から取り出したばかりのケーキを出した。間をあけると満腹感がせり上がってきてしまうので、腹まで落ち着いてしまわないうちにさっさとケーキに取り掛かる。
「おれ、ホイップクリーム食べられる気がしないんだけど……」
 目のまえに差しだされたショートケーキを見て、研磨が顔を暗くした。苦笑する名前の正面で、黒尾がにやりと笑っている。
「いちごだけ食って土台はあげるとか言ったら怒るからな」
「さすがにそこまで子供っぽいことしないし」
「私のフルーツタルトと変える? 少しは食べやすいかも」
「………………大丈夫」
「熟考したな」
「うるさいな」
 幼馴染同士のなごやかな遣り取りを見ながら、名前はフルーツタルトにフォークを刺した。さすがに研磨と会うのも三度目とあって、会話のぎこちなさもだいぶ薄れた。同い年の気安さから、名前の口調もすっかりくだけている。
 ふと見れば、黒尾も楽しそうに目元を弛めていた。酔いが回り始めているのか、目元がうっすら赤らんでいる。
 名前の前で黒尾が酒を飲むのは夏祭り以来だ。あの時はさして酔っているようにも見えなかったが、今日はこの後研磨の家に泊まる予定のためか、気にせずどんどん飲み進めている。
 一方、研磨はほとんどシラフでウーロン茶ばかり飲んでいる。ビールは好きでないらしく、最初の乾杯で梅酒を飲んだあとは、ずっとウーロン茶に徹している。
「卒論は終わってるんだっけ」
 研磨に気楽に問われ、名前はまた頷いた。
「やっとこの間提出したよ。もう大学に行くのもあと何回かだし、だいぶ気が楽だよ」
「そして始まる、社畜生活」
「そんなに大変な部署じゃないって聞いてるので大丈夫です」
「出た、コネ入社」
「違います。縁故採用です。いや縁故採用でもないんですけど」
 からになった缶を片付けて、名前もビールを取りにこたつから出た。古い家はどうしても底冷えする。急いでこたつに取って返し、足をぬくめながらプルタブを開けた。ひと口あおったところで黒尾のぬるい視線に気付き、名前は咳払いでゆるんだ顔をごまかした。
「苗字さんは社会人になったら、何がしたいとかあるの?」
 研磨がさりげなく話題を戻す。
「そうだねぇ……。住んでるところも変わらないし、そんなにどうということもないんだけども」
「今度こそ友達できるといいな。ほら、会社の同期とかに」
「どうですかね。私、たぶん縁故採用なの同期にバレてるんですよね。いや縁故採用ではないんですけど」
「最初から難易度高くなってんのかよ。けどそういうのって何処からともなく漏れるよな」
「まあ、別に職場に友達つくる必要もないからね」
 名前と同じ大学生ながら、すでに一廉ひとかどの企業家として知られている研磨の意見に、名前はううむと唸った。
 研磨の言うとおり、会社には仕事に行くのだから、無理に友達などつくる必要はない。それこそ大学生活と同じように、最低限困らない程度に付き合えばいいという考え方もある。
 とはいえ大学時代を孤独に過ごした名前としては、知り合いを増やすチャンスでもある新生活に、多大な期待を寄せていた。それがまさか、こんなふうにして始まる前に希望をついえさせるはめになるとは、まったく思ってもみなかった。
 社会人になってしまえば、従兄弟の矢巾だって今のように東京に遊びにくることもなくなるかもしれない。そうなればいよいよ本格的に、名前には東京で遊ぶ相手がいなくなってしまう。
「社会人になっても、ときどき遊んでくれますか」
 ぽつりと呟いた言葉は、はからずも弱弱しく響いてしまった。いつになく弱気になってしまうのは、この半年ほどを黒尾と友人として過ごし、その楽しさを知ってしまったからだ。ひとりで行動することに慣れ、鈍麻していた寂しさが、今さら鋭くぶり返している。
 心持ちしゅんとした名前に、黒尾と研磨がすばやく目くばせした。次の瞬間、黒尾が「えっ」と大仰な声を上げた。
「もしかして苗字さん、茶飲み友達解散する気か!?」
「解散……。そんなつもりはさらさらないですが、そもそも茶飲み友達ってユニットか何かなんですか?」
 思いがけず大きなリアクションが返ってきてしまい、名前の声は反対に平坦になる。大袈裟に騒ぐ黒尾を一瞥いちべつし、研磨がウーロン茶で湿した口を開いた。
「おれは……おれが出掛けなくちゃいけないのは面倒くさいけど、こうやってクロと遊びに来るのとかは、時間さえ合えば」
「おまえはもう少し外に出て新鮮な空気を吸いなさい」
「嫌だよ、寒いし……」
「夏は暑いって言うでしょうが」
 名前の来年からも遊び相手になってほしいという話が、気付けば研磨の引きこもり癖の話にすり替っている。名前はぽかんと呆気にとられた顔をして、テンポよく言い合う黒尾と研磨を見つめていた。
 やがてその言い合いも、結論を見ないままなあなあになって終わる。黒尾がしきりなおしと言わんばかりに咳払いをしたあと、ビールをひと口あおって言った。
「心配しなくても、社会人になった苗字さんとも茶飲み友達ですよ」

 ★

 夜もすっかり更け、宴もたけなわという頃。テレビで流れていた連続ドラマも終わり、深夜のバラエティ番組が、気持ち程度にクリスマスらしい話題を取り上げている。それを見るともなく眺めているうちに、名前はあることを思い出した。
「そういえば」
 壁際に置いた鞄まで這っていき、名前は鞄の中身をごそごそと漁る。その様子を黒尾と研磨が、何だなんだと不思議そうに見ている。
 名前が鞄から取り出したのは、丁寧にラッピングされた、赤と緑の小ぶりのギフトバッグがふたつ。先日、宮城帰省用の東京みやげを買いに行った際、思い立って用意しておいたものだった。
「これ、クリスマスなので一応、ささやかなものですが」
 黒尾と研磨にひとつずつ、それぞれプレゼントを手渡す。事前にプレゼントについては一切取り決めていなかったので、黒尾も研磨も不意をつかれたような顔で名前からのプレゼントを受け取った。
「えっ、なに、そういうのありのやつ!?」
「いえ、あの、全然そういうのではなく……。日頃のお礼も兼ねてというか、あ、ほら黒尾さんとか先月誕生日何もしませんでしたし」
「苗字さんの誕生日だって何もしてないだろ」
「私はいいんですよ。ケーキ買って食べたんで」
「自分で?」
「オーナーが買ってくれました」
 聞かれたことに答えただけなのに、黒尾がもの言いたげな目で名前を見る。この流れで自分の寂しい誕生日の話を掘り返されるのも嫌で、名前はふいと黒尾から視線をそらした。
「プレゼントといっても全然高級なものとかではなく……、そもそも黒尾さんと孤爪くんなんて、どう考えても私より財力のあるふたりだし……」
 特にこのところは卒論提出が迫っていたので、アルバイトの量も減らしていた。名前の懐もけして暖かいわけではない。
「開けてもいい?」
「もちろんです。あの、でも本当にささやかなものなので……」
 なおも予防線を張ろうとする名前の前で、プレゼントはあっさりと開封されていった。ラッピングのリボンとテープを剥がし、中から出てきたのは、研磨にはアイマスク、黒尾には大ぶりのマグカップだ。
「孤爪くんはプレゼントもらい慣れてるだろうし、消耗品の方がいいかなと思って」
「ありがとう。目、疲れるから助かる」
「おまえの生活なら、そら目も疲れるだろうよ」
 マグカップを矯めつ眇めつしながらも、黒尾は茶々を入れ忘れない。黒尾のマグカップは、『猫目屋』でコーヒー片手に仕事をしている黒尾の姿を見て、プレゼントに贈ろうと決めたものだ。大容量なのも、仕事中に使うにはその方がいいだろうと思ったからだった。
「黒尾さんに何あげたらいいか本当に分かんなくて……。マグカップなら、ご実家ですし黒尾さんが使わなくても誰かしら使うかなと」
「いやいや、俺が使うから。ありがとうな」
 そう言って、黒尾は丁寧な手つきでマグカップを箱に戻し、ギフトバッグの中にしまい直した。ひとまずのところは、喜んでもらえたらしい。迷惑がられたらプレゼントは引き取ろうと思っていた名前は、ほっと胸を撫でおろす。
 そんな名前の横では、研磨が困ったように眉を下げていた。
「おれ、本当にそういうの用意してないんだけど」
 慌てて名前が首を横に振る。
「いや、本当に大丈夫。というかこれも、ほかの買い物のついでに買ったようなものなので……全然、まったく気にしないでもらえると助かる。むしろこのお肉とかお酒で私の方が得をしているくらいでね……」
「でも、この間来た時もおみやげ持ってきてもらったし」
「それでもまだお肉の方が高いと思うよ」
 そんな遣り取りをしていると、名前の携帯がアラーム音を鳴らした。そろそろ研磨の家を出なければ、駅で矢巾を待たせることになってしまう。タクシーはすでに呼んであるので、あとはさっと片付けるだけだった。
「じゃあ、あの、私は片付けてそろそろ」
「肉、まだ冷凍庫に少し残ってるけど、持って帰る?」
「いえ、大丈夫です。あとはおふたりで」
「じゃあビールは? 残してっても研磨は飲まねえから、持ってってくれると片付いてありがたいんだけど」
「あっ、それならいただいていきます。嬉しいです」
「了解」
 わずかに散らかっていた缶とビニールの類を片付けて、お土産代わりのビールを持たされてから、名前は研磨宅を後にした。

 事前にタクシー会社に指定していた時刻に表に出てみても、それらしい車は辺りには停まっていなかった。
「このへんちょっと道分かりにくいし、それで遅れてんのかもな」
 見送りのため一緒に出てきた黒尾が、スマホで時間を確認する。多少の余裕を見てタクシーを呼んでいるので、それほど急ぐこともない。矢巾からは遅くなるようならば駅内のカフェで待っていると連絡をもらっている。ビールの入った袋は、黒尾の腕に引っかかったままだ。
 冷たい風が吹きつけて、名前は身を縮こまらせた。年末ともなれば、夜の冷え込みも厳しい。コートの前をしっかり合わせ、無意識にはーっと息を吐き出した。手元すら判然としない闇の中で、吐く息がうっすら白く凍るのだけがかろうじて見える。
 楽しいクリスマスだった。少なくとも自宅でひとり、夜半に訪れるだろう矢巾を待っているだけのクリスマスとは、比べ物にならないくらい楽しかった。
 名前がしみじみと反芻していると、隣に立つ黒尾が「苗字さん」と呼ぶ。名前が黒尾を見上げると、寒さのためかかたい笑みを浮かべた黒尾が、名前にやわらかな視線を向けていた。
 何時の間に用意したのやら、黒尾がギフトバッグを名前に差しだす。
「実は俺も苗字さんにプレゼント用意してたんだけど、先越されたな」
「えっ!」
 夜のような濃紺に、星空のような銀のリボンがかかったそれを、名前は驚きながら受け取った。
「かばん持ってるから、開けていいよ。まだタクシー来なさそうだし」
 楽しげな黒尾の視線に晒されながら、名前はそっとリボンをほどく。寒さで指がかじかんで、手元で包装紙がかさこそと乾いた音を立てた。
 黒尾はじっと名前を見つめている。やがて包装紙を剥がし終え、中から出てきたのは、なめらかな革製のブックカバーだった。
 二つ折りになった真ん中に、革ひものしおりが尾のように垂れさがっている。暗がりの中なので色味までは分からなかったが、肌ざわりにはまだ固さが残り、使い込まれるのを待ちわびるような質感を肌に伝えてくる。
「苗字さん本好きだし、もう持ってるかなとも思ったんだけどな。かさばるもんでもないし、まあいいかなと」
「めちゃくちゃ嬉しいです……。今使ってるやつ、もうぼろぼろで」
「本当? それはよかった」
 黒尾にあずけていた鞄を受け取り、剥がした包装紙を鞄の中に片付けた。もらったばかりのブックカバーは、片付けずに何度も眺めて確認する。じわじわと嬉しさがこみあげて、名前は感嘆の吐息を吐き出した。
「こんないいものをいただくなら、私ももっといいもの贈ればよかったです……」
「はは、そこはまあ、社会人なんでね。それにマグカップ嬉しかったですよ」
 プレゼントの取り決めがなかったから、自分が何かをもらうことなどまったく考えていなかった。黒尾と研磨にプレゼントを用意したのだって、クリスマスにかこつけて、日頃のささやかなお礼をしたかったからだ。これほど立派なプレゼントを貰えるとは、夢にも思っていなかった。
 本当のことを言えば、名前は少しだけ、黒尾と研磨を驚かせたことを嬉しく思っていた。しかし黒尾は、いつでも名前の想像の上を行く。
「どうしても差額気になるっていうなら、年が明けたらまた美味いもんでも食べに行こうぜ。それでチャラってことで」
 気取ったふうもなく言う黒尾に、名前はわずかに目を細めた。
「……そんなこと言って、またさらっとお会計済ませてたりしないでくださいね」
「割り勘好きだよなぁ。現金出す方が面倒だろ」
 それもまた一理あるので、名前はむっと口を尖らせた。今が夜でよかったと思う。こんなふうに子供っぽい仕草をしているところを、黒尾に見られずに済む。
 タクシーはまだ来ない。きんと冷えた空気の中に、ときおり裏手の雑木林の木々がさざめく音がまじっていた。ひと度会話が途切れれば、今にも雪が降りそうな、静かで冷たい夜だった。
 黒尾と一緒なら、それも悪くないと思った。
「いとこくん来て、そのまま一緒に宮城に帰るんだっけ」
 静寂を打ち消すように、黒尾が言う。
「その予定です。こっちに戻ってくるのは三が日明けたらかな」
「実家帰るの夏ぶりだろ。ゆっくりしてきなさいよ」
「そうですね、学生最後の年末年始だしのんびりしてきます」
 寄せては返す波のような会話は、胸のうちをはかられているようで、少しこそばゆい。今更、距離を見定めるような会話をするような間柄でもないというのに。しかしそのよそよそしさは、作り物めいているからこそ楽しかった。
 わざとらしい、よそ行きの会話が胸に疼きをもたらした。その疼きに、名前は少しだけ応じることにした。
「私が東京に戻ってきたら、一緒に初詣いきましょう」
 一瞬、黒尾が虚をつかれた顔をした。だがすぐに、いつものつかみどころのない薄笑いを取り戻す。
「宮城でも初詣くらい行くんじゃない?」
「でも、こっちの神様にも挨拶しておかないと」
 牽強付会の自覚はあった。名前は顔を俯ける。風がやんで、木々のざわめきも消えていた。沈黙が耳に痛かった。
 沈黙がどのくらい続いたのか、はっきりとは分からない。しかしそれほど長く待つこともなく、
「じゃあ初詣行って牡蠣だな」
 さっぱりした声で、黒尾が笑った。顔を上げる。黒尾の悪戯っぽい瞳と、視線がぶつかった。
「……新年早々ものすごく元気になりそうですね」
「その前に実家でいいもん食って元気になってくるだろ」
「たしかに」
 黒紗を透かして見るような視界に、ふいにしらじらとした強い光が伸びる。視線を道の先に向けると、ようやくタクシーがこちらにやってくるところだった。
「それでは黒尾さん、よいお年を」
「苗字さんも、よいお年を」
 タクシーに乗り込む直前に、ビールの入ったビニールを渡された。そのずっしりと重みを膝の上に抱え、名前は駅に向かうタクシーのシートに背をあずけた。
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