033

 クリスマス当日の夕方、日が暮れる少し前、黒尾が例の高級車を名前の住むマンションの前につけた。この車に乗るのは二度目。高級なシートに身を沈めるときの、何とも言えぬ緊張感を伴って、名前は助手席のシートベルトを締める。
 なめらかに発進した車は、ナビに従うのではなく黒尾のステアリングに任せて進む。行き先が研磨の家なので、わざわざナビに行き先を登録する必要もない。
「途中でスーパー寄ってから研磨んちな」
「孤爪くんちの近くって、あの高級住宅街ですよね? 高級スーパーしかなさそうですが」
「あの高級住宅街を抜けた先に、研磨んちみたいな古い民家がぽつぽつあっただろ。あっちまで行くと普通にスーパーとかある」
 さすがに黒尾は研磨の自宅の周辺環境をよく把握している。名前にしてみれば、あっちと言われたところで雑木林があっただろうか、くらいの認識しかない。とはいえハンドルを握っているのは黒尾なので、名前が地理を把握していなくてもまったく問題はない。
 研磨の家までは、道がすいていれば一時間ほどで到着する。都心ならばともかく、研磨の家に向かう道がクリスマスだからといって混むこともなく、このままいけば問題なく定刻に到着できそうだった。
 はるか西の空で、今にも沈みそうな太陽が、橙の帯を長く伸ばしている。
「この車でスーパーの駐車場にとめるの、結構勇気要りませんか」
 運転する黒尾の暇つぶし程度に尋ねると、黒尾は前を向いたまま機嫌よく笑う。
「どっちか言うと、この車の横に停める人のが勇気要るんじゃない?」
「たしかに」
 高級車の隣には駐車しにくいという話は名前も聞いたことがあった。小心者だから、その心理も嫌というほどよく分かる。
「俺も最初は、普通に運転するのにもビビッてたけど、今はわりと慣れたな。ぶつけたら研磨に土下座だなとは思ってるけど」
「孤爪くん、土下座とか好きじゃなさそうですけど」
「でも俺くらいの図体のやつに土下座されたら、ちょっと引いて許しちゃうんじゃねえかなと思って」
「めちゃくちゃ計算ずくな土下座じゃないですか」
 研磨に土下座する黒尾の姿を、名前は脳内で思い描いてみた。たしかに研磨の性格を考えれば、黒尾に土下座などされたところで、鬱陶しがってすぐに許してしまうような気がする。もっとも、研磨はこの高級車にそれほど執着していなさそうだから、土下座しなければ許してもらえないということもないのだろうが。
 もちろん黒尾が車をぞんざいに扱うはずがないという、信頼あっての貸し借りではあるのだろう。たとえ高級車でなかったとしても、黒尾は気心知れた幼馴染の車を、適当に乗り回すような人間ではない。そんなことは名前よりも研磨の方がよほどよく分かっているに違いない。
 黒尾と研磨の付き合いは、小学生の頃からのものだと聞いている。もともと黒尾の祖父母が住んでいた家に、黒尾が後から引っ越してきたと、以前話の流れで名前は黒尾から聞いていた。
「孤爪くんとは小学生の頃からの友達なんですよね」
「そうですよ」
「本当に今更ですけど、そこにいきなり私みたいな異分子が入り込むのって、嫌じゃないですか?」
 ふと思い立って尋ねてみる。運転中の黒尾は名前と視線を合わせられないが、その代わりとでも言うように、ふっと息を吐くように微笑んだ。
「苗字さんだったら嫌?」
 逆に問い返され、名前は束の間沈思する。
「嫌……ではないですけど……、でも、気を遣うんじゃないかなとは思います。付き合いの長さが違う人がひとり混ざると、うちわ話というか、昔話みたいなのを避けたりとか、そういう気遣いがいるじゃないですか」
「ああ、それはあるな」
 黒尾と研磨は学年こそ違うものの、小学生の頃から親しくしているし、中学高校では同じ部活にも所属している。酒を飲みながら鍋をつつくのならば当然、当時の話が出ることもあるだろう。そのときに同じ記憶を共有していない名前がそこにいると、せっかくの楽しい空気に水を差しかねない。
 名前の懸念に思い当たることがあるのか、今度は黒尾が考え込み、口を閉じる。だが名前が待つほどもなく、
「まあでも、俺はともかく、研磨はあんま昔話とかしないっていうか、そういうタイプじゃないな」
 特に含むものもなく、あっけらかんとした調子で黒尾は言い切った。考え込んでいたわりに単純な言葉に、名前の方が拍子抜けしてしまう。
「そうなんですか」
「というか苗字さん、嬉々として思い出話をしまくる研磨って、想像できるかい」
「……できないですね」
「そういうこと」
 たしかに、そう言われてみると何にも勝る説得力があった。名前はまだそれほど研磨を知っているわけではないが、それでも研磨が過去の思い出や華々しい栄光を、よすがとするようなタイプでないことは分かる。
 黒尾もその点は似ているが、黒尾の場合、他人と思い出話を分かち合うとっつきやすさも持っている。研磨にはそういう情緒はあまり見られない。研磨にとっての思い出話は、糧になるものではあっても、今現在の心をなぐさめるものではなさそうだと、名前はひそかに思案していた。
「大体、研磨とは離れてる時期がそんなにない分、わざわざ昔話もそんなにしないんだよな。そういうのって、久々に会う人とのが盛り上がるんじゃない?」
「あ、それはあるかもしれないです」
 その理屈は名前にも分かった。日々顔を合わせている相手とは、互いの近況が知れている分それなりに話題もある。名前が思い出話をするときは、もっぱら話題がそれしかないか、久々に会う相手との会話の調子を合わせるためだ。
 そう考えると、幼馴染の中に入り込むことについても、それほど気にしなくていいように思えてきた。名前の考えを補強するように、黒尾も、
「前に研磨も言ってたけど、あんま気とか遣わなくていいからな。気遣われる方が、研磨は居心地悪いだろうから。自然体でいてくれればいいんじゃないかね」
 柔らかく低い声でそう付け加える。黒尾が言うのであれば、そうなのだろう。名前も納得し、「そうします」と頷いた。

 出発時の読みは正しく、一時間も経たないうちに、目的のスーパーマーケットに到着した。
 事前に黒尾に聞いていたとおり、着いたのは高級スーパーでも何でもない、どこにでもありそうな普通のスーパーだった。店の前には特売の野菜が並べられ、陳列棚には手書きの値札が、派手な黄色のびらで貼り付けられている。黒尾が半玉の白菜を手に取り、カートに載せたかごに入れた。
「研磨が牛買ったらしいんだけど、とりあえず白菜でいいと思う?」
「いいんじゃないですか? 白菜だったら何とでも合うだろうし」
「鍋のだし、どうすっかな」
 夕方のスーパーには様々な年代の買い物客がうろついている。その隙間を縫うようにして、ふたりは牛肉と白菜をメインに、それらしい具材をいくつか見繕う。「エコバッグ忘れたな」と黒尾がつぶやいたので、名前はすかさず鞄から折りたたんだエコバッグをふたつ取り出した。
「苗字さん用意いいな。俺完全に忘れてたわ」
「忘れないように、いつでも鞄に入れてるんですよ」
「さすが、おおむねしっかり者の苗字さん」
「おおむね?」
「時々大丈夫かよって思うような言動があるから、おおむね」
 意地悪く笑う黒尾に、名前は釈然としない気持ちで首を傾げた。自分で自分をしっかり者だと思っているわけではないが、だからといって黒尾に大丈夫かよと思われているというのも納得できない。
「ふくれっ面してないで行きますよ、苗字さん」
「ふくれっ面してないです」
「はいはい」
「はいは」
「一回ね」
 スーパーの順路に沿って、黒尾と名前は次々に買い物かごに食材を放り込む。食べきれないぶんは、年末に研磨の自宅で催される予定の忘年会で消費するらしい。だしはそのまま、牛鍋用のものを買うことにした。
「苗字さん飲むよな?」
 アルコールのコーナーで、黒尾はビールのパックを指さし尋ねる。名前はもちろん、と頷いた。
「ビールでいい?」
「ビールがいいです」
「知ってた。苗字さんは日本酒とかワインとかは飲まねえの?」
「飲まないわけではないですけど、うちは実家がビール党なので」
「ふうん」
「甘いお酒も好きですよ。黒尾さんは?」
「俺もわりと何でも飲む。けどま、それはまた今度だな。ビールの銘柄どれがいいとかある?」
「お任せします」
「じゃ、エビスで」
 目に眩しい金色のパックを持ち上げて、黒尾はそれも買い物かごに入れた。「六本だと足んねえかな。いや、研磨んちにこの間置いてったのあるか。いやいや、一応二パック買っとくか」と独り言を呟く。ついでウーロン茶のペットボトルと、梅酒、適当につまみを手に取り買い物かごに入れた。ウーロン茶は酔いやすい研磨の分だ。
 ひと通りの買い物を終え、会計を済ませた。どちらから言い出すこともなく作業を分担し、てきぱきとエコバッグに食材を詰めていく。
 食材を詰める黒尾の手つきは、実家暮らしの男性にしてはずいぶん手慣れていた。そういえばよくお使いを頼まれているもんなぁ、と名前はその手を眺めながら考える。
 好きな仕事に精を出し、友人の集まりにも顔を出し、名前にちょっかいをかけながら家の手伝いもしている。黒尾のバイタリティは名前の想像をはるかに超えている。
 名前よりもずっと大きな手のひらは、二リットルのペットボトルもひょいと軽く持ち上げる。一方で、サッカー台に備え付けられたポリ袋の口を開くのに苦戦していたりする。そもそもサッカー台の位置が、黒尾には低すぎるのではないだろうか。
 そんなことを思いながら手を動かしていると、
「苗字さんの実家の方はなんか変わり種のご当地具材はないの? 今日は無難なのしか買ってねえけども」
 黒尾がふと訊ねた。名前は首を傾げ考えてみたが、これといってご当地ネタを思い付くわけでもない。
「えー、普通ですよ。仙台だとせり鍋とか聞きますけど、うちは入れないし……」
「せりってアレだよな、あの、なんか草の」
「合ってますけど……。春の七草ですよ」
 黒尾の雑なコメントに苦笑しながら、名前はさらに記憶を辿った。実家で食べていた鍋の具材も、今日買った食材とそれほど変わらない。
「あっ、ご当地ではないかもですが、たまに牡蠣とかは入れますね」
「牡蠣いいな。俺、この間、牡蠣がうまい店教えてもらったぞ。今度行こうぜ」
「いいですね。今おいしい時期ですもんねぇ」
「というか宮城出身者って、もしかして牡蠣にうるさいとかある? 大丈夫?」
「大丈夫です。あ、でも生食には厳しいかも」
 そんな話をしているうちに、荷詰めも終わった。名前は受け取ったレシートを眺め、金額を確認する。三人分の食材と酒を調達したのにそれほど金額がかからなかったのは、メインである肉を研磨が別で用意してくれているからだ。
 黒尾が重い方の荷物を持ち、名前が当然のように軽い荷物を持たされ店を出る。買い物をしているうちに完全に日は暮れて、いい具合に腹もすいてきた。
 手狭な駐車場はそれなりに混んでいるにもかかわらず、研磨に借りた高級車の両脇には車は停まっていなかった。「な?」と黒尾が楽しげに笑った。

 トランクを開けて荷物を詰め込んでから、ふたたび助手席に乗り込んだ。研磨の家とこのスーパーは徒歩圏内らしい。黒尾に言われ、名前は研磨に ” 買い出し終わりました、今から行きます " とメッセージを打つ。連絡先は以前交換していたが、個人的にメッセージを送るのはこれがはじめてのことだった。
 すぐに既読がつき、研磨から了解のスタンプが返ってくる。見計らったかのように、黒尾が静かに車を出した。
 車内に流れる音楽に名前が耳を傾けていると、そういえば、と黒尾が口を開く。
「前に何かで見た話なんだけどさ、一緒にスーパーで買い出ししてて、イライラしないで楽しめる相手とは、相性がいいらしいですよ」
 脈絡があるような無いような、よく分からない話題だった。黒尾の言葉には含みがあるようにも聞こえるが、思わせぶりな物言いは黒尾の常でもある。それほど悩むこともなく、名前はこれが他愛ない世間話のたぐいだろうと断じた。
「なんとなく分かる気がします。大事ですよね、そういう日常の些細な価値観とか、テンポみたいなもの」
「苗字さん楽しかった?」
「楽しそうに見えませんでしたか?」
「いや、楽しそうに見えた」
「実際、楽しかったですからね」
 というよりも、黒尾と一緒であればたいていの場合、名前は楽しいと思っている。もちろんそれをそのまま口にするのは気恥ずかしいので、あくまで先程の買い物は、というていでの話だ。
 名前の気持ちに気付いているのかいないのか、黒尾は正面を向いたまま、にやりと口角を上げた。
「それは気が合う。俺も苗字さんと買い物すんの、すげー楽しいと思った」
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