032

 ネコも杓子も駆けまわる師走。だが喫茶『猫目屋』の店内には、世間の慌ただしさとは無縁かのようなゆったりとした空気が流れている。例によってほとんど空席の店内で、ここのところはすっかり定位置となったカウンター席に腰かけた黒尾は、カウンター内で片付けをしている名前に、つと視線を向けた。
「苗字さん、クリスマスのご予定は?」
 グラスを磨く手を一瞬止め、名前は黒尾の顔を見、ついでテーブルの上のタブレットを見る。先ほどまで持ち込んだタブレットで仕事をしていたと思っていたのに、黒尾はいつのまにやらまったく仕事とは関係なさそうなサイトを開いている。
 名前はカウンター内に貼られたカレンダーを確認した。今年のクリスマスの日付は、『猫目屋』の定休日を示す青い丸でくっきり囲まれている。
「今のところは皆無ですね」
 よどみなく答えた名前に、黒尾は呆れた目をして口角を上げた。
「予定が無いどころじゃないんだ。皆無って」
「今年はちょうど『猫目屋』の定休日に重なってしまうので、バイトを入れるわけにもいかないんですよね。今から単発のバイトを探すのも面倒で」
「そういうことなら丁度良かった」
 タブレットの画面をふつりと消して、黒尾はカウンターにぐっと身を乗り出した。
「研磨んちでクリスマス鍋やるんだけど、苗字さんも来ない?」

 壁掛け時計がぼぉんと鳴り、名前の退勤時刻の五時を告げる。名前はオーナーにひと言かけてから、まかないがわりのコーヒー片手に、カウンター席の黒尾の隣に腰をおろした。
「クリスマスに鍋、ですか」
「いや、本当はさ、研磨も年末年始にあわせて実家に戻るつもりって話だったし、別に成人した男同士で鍋するつもりもなかったんだよ。あいつの仕事って、最低限の機材さえあれば場所はそんなに選ばないものも多いしな」
 黒尾が研磨の周辺状況について説明を加える。もともと実家と一人暮らし先がそう離れていないこともあり、研磨は長期休暇に限らず実家に顔を出すことも多い。
「けど、研磨んちのおじさんおばさんが、今年はクリスマスに合わせて旅行することになってだな。まあそういうことなら、俺が研磨くんのクリスマスを、ひとつ盛大に彩ってやろうかと」
「黒尾さんはご自身に、幼馴染のクリスマスを彩るだけの華があると、そう自認しているんですか……?」
「そういう言い方するのやめなさいよ」
「冗談です。黒尾さんには華ありますよ、自信を持ってください」
「嬉しいけど、普通に恥ずかしくなるからそれもやめなさい」
 とにかく、と、黒尾が咳払いとともに仕切りなおした。
「そういうわけで、俺もクリスマスに用事があるわけでもないし、次の日休日だしってことで、急遽研磨の家でクリスマス鍋をすることになったって話。で、せっかくだし、苗字さんにも声掛けてみました」
 目端のきく黒尾のことだから、クリスマス当日が『猫目屋』の定休日であることも、把握したうえで声を掛けているに違いない。名前のアルバイトは夕方までだが、何事にも腰の重い名前にとっては何もない日の方が誘いを受けやすい。
 つくづく、黒尾は名前の性格を読んでいる。そのことに内心で舌を巻きながら、名前はぼんやり手元に向けていた視線を、黒尾に戻した。
「ありがたい話ではあるんですけど、でも、私なんかが参加していいんですか?」
 研磨の人見知りを危惧しての質問だったが、黒尾は特に悩むこともなく「もちろんです」と頷いた。すでに研磨には名前を誘うことを伝えてあるのだろう。
「研磨んちの鍋はすげえぞ。あいつに肉調達係させると、めちゃくちゃいい肉用意してくるからな」
「それはなんというか……割り勘だと厳しいんですが……」
「いや、それに関しては完全に研磨が好きで買ってるやつだから。そのかわり肉以外は俺と苗字さんで買い出し担当になる。あ、あとケーキの予約。当日は車出すし、一緒に買い物行こうぜ」
「いいんですか?」
「逆にだめな理由ある?」
 にっと口を横に広げて笑った黒尾に、名前はぺこりと頭を下げた。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 話が一段落したところで、名前はエプロンを片付けにバックヤードに戻った。今日は黒尾もお茶会をするつもりがなさそうなので、この後は普通に帰ることになるのだろう。黒尾はお茶会の時はテーブル席を選び、そうでないときはカウンター席につく。座る席でその後の予定が分かるのだ。
 ということは、クリスマスの話をするためだけに、わざわざ『猫目屋』に来たということか。電話やメッセージで済ませればいい話を、と思いかけ、黒尾が自分のことを気づかっているのだと気付く。
 茂部との一件から半月近く経ち、茂部が接触してくることもない。それでも黒尾は、ともすると名前自身以上に警戒し、名前を気にかけてくれている。こうして名前がバイト先を辞めることもなくのほほんとしていられるのも、黒尾が気づかってくれているからというところが大きい。
 着替えを終えてホールに戻ると、すでに黒尾のカップも名前のカップも片付けられていた。黒尾はタブレットをかばんに片付け、帰り支度を済ませている。名前が戻ってくるのを待っていてくれたようだった。
「行くか」
「ありがとうございます」
「何が?」
「いろいろです」
 当たり前のように自宅まで送ってくれる黒尾に、名前は深々と頭を下げた。黒尾は不思議そうにしている。名前はひっそりと満足して、黒尾と一緒に『猫目屋』を出た。

 店の外に出ると、とっぷりと日は暮れ、すでに夜のにおいが漂い始めていた。「今日の夕飯何食べんの?」と黒尾が言う。「昨日たくさん作ったシチューがあるので、それを食べます」と名前が答える。
「シチュ―いいな。寒くなってくると食べたくなるよな」
「この間お客さんにお野菜をたくさんいただいたので、どどんと作ってしまいました」
「苗字さんひとりでそんな食べきれんの?」
「冷凍にすればしばらくもつので」
「えっ、シチュ―って冷凍できんのか」
「具材はちょっと選びますけど。社会人になったら、もう少し大きい冷蔵庫が欲しいんですよね」
「でかい買い物だな」
「そうなんですよね。それでちょっと悩んでます」
 取り留めのない遣り取りをしながら、のんびりと名前の家に向かう。冷たい夜気を避け、コートのポケットに手をつっこんだ。黒尾の手も同じように、自分のコートのポケットにおさまっている。並んで歩いていても、腕がふれることはないだろう距離。不用意に近すぎも遠すぎもしない距離は、名前の心をほっとさせる。
 ふと気付くと、黒尾が名前のことを見下ろしていた。いつのまにかぼんやりしてしまい、黙り込んでいたらしい。直前に黒尾と交わしていた会話も思い出せず、名前は申し訳なく肩を落とした。
「すみません……。ええと、何でしたっけ」
「いや、大した話はしてなかったけど……」
 黒尾は、いやに真剣な顔で名前の顔を覗き込んだ。ぎくりと名前の肩が揺れる。
 あたりは街燈もまばらな夜闇。先日の茂部とのこともある。いくら気心知れた黒尾が相手でも、距離を詰められると落ち着かない。
 短い沈黙ののち、黒尾がぐっと背すじを伸ばして名前から距離をとった。かと思えば、最前までの深刻そうな表情はすっかり抜け落ちて、
「今日、ちょっとこっちの道から帰ろうぜ」
 と、普段通らない道を指で示す。ふたりが立っているのは、ちょうど四つ角の手前だった。名前は首を傾げる。名前の家はこの道を直進した先で、ここで横道に入れば、ただ遠回りになるだけだった。
 急いでいるわけではないので、別に名前は構わない。だが、ただ名前を送っているだけの黒尾にしてみれば、さっさと送りとどけて帰宅したいのではないか。
「いいですけど……」
「たまには気分転換」
 からりと言って、黒尾はすたすたと辻を曲がる。慌てて名前もその背を追いかけた。
 小走りになりながらふと、名前は来た道を振り返る。そこでようやく、黒尾の意図に気が付いた。その道はちょうど、少し前に名前が茂部といさかいを起こした場所だった。おそらく黒尾は、諍いの場の目前で言葉少なになった名前に気を遣って、遠回りでも別の道を選んでくれたのだろう。
 気づいた途端に、胸がむずむずと落ち着かなくなる。名前は駆け出し黒尾の隣に並んだ。別に茂部とのことで気が重くなっていたわけではない。それでも、黒尾の優しさがありがたいことには変わりなかった。
「ありがとうございます」
 名前がまたお礼を言う。今度は黒尾も悪戯っぽい顔で微笑んで「何のことだか」と誤魔化した。

 やがて名前の暮らすマンションが見えてきた頃、ふいに黒尾が「クリスマスのことだけど」と切り出した。
「嫁入り前の箱入り苗字さんを、研磨んちとはいえ、有事でもないのに男の家に外泊させるのも悪いから、当日は俺がちゃんと責任もって、苗字さんを家まで送ります。その点はご心配なく」
 茂部のことを思い出した流れで、送迎のことも思い出したのだろう。夜道を極力ひとりで歩かせないという黒尾の考えは、出会ったばかりの頃から一貫している。茂部との一件によって、その考えはますます強まったらしい。
「でも、鍋やるのにお酒飲まないわけにはいかないですよね」
 言外に、送迎は無理なのではと匂わせる。だが黒尾は、
「それはまあ、苗字さんを送っていってから研磨と飲みなおすかな」
 しれっとそう言い放った。名前は思わず、足を止めた。
「えっ、それってわざわざ私を送って、また孤爪くんちに戻るってことですよね」
「まあ、俺はもともと研磨んちに泊まるつもりでいたし」
「そんな気を遣わせるくらいなら、普通に自力で帰りますよ」
「そうは言っても鍋食って酒飲んでってしてたら、帰るのもそれなりに遅くなるだろ。苗字さんひとりで帰すくらいなら、研磨んちの客室使ってもらった方がいいけど、それも良くないだろうし」
「そうですね、孤爪くんに気も遣わせますしね」
「そこは布団出しといてもらうだけだから、そこまで気にしなくていいけども」
 それに黒尾の言うとおり、やましいところがないといっても、男女がそうそう雑魚寝などするものではない。女子高から女子大に進学し、特に男女間の交流もないままここまでやってきた名前は、未婚の男女が雑魚寝など言語道断だと思い込んでいる。
「いっそ俺も一緒に帰るか」
「だからそこまで気を遣ってもらわなくて大丈夫ですってば」
 と、そのままでは口論になりそうなところで、タイミングよく名前のスマホが鳴る。ひと言断ってから、名前はスマホを確認し、そして「あっ」と短く声をあげた。
「要は、私がひとりで帰らなければいいんですよね?」
「迎えに来てくれるような知り合い、東京にいないだろ」
 いぶかる黒尾に向け、名前はずいっとスマホの画面を差しだした。画面に映しだされているのは今まさに、名前が受信したばかりのメッセージを含むメッセージのやりとり。黒尾が画面上部のトーク相手を確認すると、そこには Shige と表示されていた。
「クリスマスの日、最終の新幹線で秀くんがこっちに来るそうです。なので駅で待ち合わせして、そのまま一緒に帰りますよ。それなら駅から私の家まで、ひとりで帰らずに済みますし」
「いとこくん、何かあった?」
「何もなくても来ますよ、秀くんは」
 恋人でもいれば話は違ったのだろうが、そうでないときの矢巾はそれなりの頻度で東京に遊びに来る。名前の生活ぶりを確認するという使命を帯びており、新幹線代のカンパがある分フットワークが軽い。今回は名前の家を拠点に年末の東京で遊んだあと、名前と一緒に宮城に戻ることになっていた。
 名前がそのことを今の今まで忘れていたのは、矢巾の上京日がまだ確定していなかったからだった。クリスマス当日の夜に行くと、今まさに連絡が来たのだ。
 名前の提案に、黒尾はふうむと思案する。
「まあ、そうだな。研磨んちから駅まではタクシー使えばいいし、それなら一番安全か」
 ようやく黒尾が頷いたので、名前もほっと胸を撫でおろした。黒尾の気遣いは、ここのところ親切というよりいっそ、過保護の域に入りつつある。それが親しい間柄の年下の女子に向ける黒尾のデフォルトなのだと分かっていても、名前はまだ完全に馴染むことができずにいる。
 黒尾さんの特別は、友達としての特別。それ以上でも以下でもない。
 黒尾自身が以前口にした言葉を、名前は心の中で復唱し、そっと息を吐き出す。そうでもしていないと、黒尾の優しさを歪曲わいきょくし、都合よく「それ以上」の好意を見出してしまいそうになる。
 親切として差し出されたものを、ねじ曲げてはいけない。優しさを疑うような、不実なことをしてはいけない。改めて胸に刻み直し、名前はすっきりとした顔で黒尾を見上げた。
- ナノ -