031

 聞き慣れたその声に、名前はおそるおそる目蓋を開いた。身を竦ませた名前の目の前で、茂部よりもさらにひと回り大きな黒尾の手が、茂部の手をけして離さぬようにと強く握り捕まえている。
「黒尾さん……」
 ぽつりと呟いた瞬間に、全身に張りつめていた緊張がふっと解けたような気がした。黒尾は茂部の手を捕まえているのとは反対の手で、通話画面になったままのスマホを握っている。ここまで走ってきたのだろう。よく見れば肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返していた。
「揉めてる声が聞こえたんですけど、何してるんですか。茂部さん」
 低く怒気をはらんだ声に、名前までもがぞっとした。黒尾の目は一度も名前を見ることなく、ただまっすぐに茂部にのみ注がれている。その視線をまともに受ける茂部は、先程の激情をあっけなく失ったように見えた。
「黒尾さん」
 もう一度、名前は黒尾を呼んだ。何故か、そうしなければならないような気がした。名前の声に、黒尾がゆっくりと名前に顔を向ける。名前が見たこともないほどの険しい顔をした黒尾は、名前と目が合うと一瞬安堵の色をちらつかせ、「大丈夫?」と固い声で問うた。名前は一度、大きく頷いた。
 黒尾がふたたび茂部に視線を戻す。捕まえていた手は放したが、逃がすことを許さぬよう、全身に警戒をみなぎらせている。茂部は黒尾を睨み返したが、すでに最前までの迫力はない。
 しばし、膠着状態が続いた。沈黙が重い。
 この上は黒尾にすべてを任せるべきかと、名前がちらりと黒尾を見上げる。その視線に気付いてか、黒尾はひとつ息を吐いてから、
「名刺ありますか」
 心胆を寒からしめるような声で茂部に訊ねた。
「名刺? なんでそんなもの――」
「『猫目屋』になら残ってると思います」
 茂部がしらばっくれるより先に、名前が割って入った。「以前いただいたものですが、そういうものは捨てずにオーナーが保管してくれているはずなので」
 決まり悪げに茂部が視線をそらす。黒尾はずいっと一歩、茂部に詰め寄ると、その長身で惜しみなく脅しつけてから、茂部に最後通牒を突き付けた。
「そういうことで……、これ以上何かあれば、こちらも相応の対応をさせてもらうことになると思うんで、よろしくお願いします」

 茂部が立ち去ったのを確認してから、名前はようやく気を緩めた。黒尾が到着してからの名前は特に何をしたわけでもなかったが、あの場に身を置いていたというだけでも、嫌というほど心身を消耗する。
 茂部のような人間が、自分よりも強者である黒尾に牙を剥くとは思えない。だが、追い詰められた茂部が強硬手段に出ないとも言い切れなかった。自分だけでなく黒尾にまで被害が及ぶ可能性を考えれば、緊張はむしろ黒尾が現れてからの方がずっと強い。
「大丈夫?」
 黒尾が心配そうに名前の顔を覗き込む。名前は鞄をぎゅっと抱えなおし、こわごわ浅く頷いた。
「なんとか大丈夫です。黒尾さんこそ、急いで来てくださったんですよね。ありがとうございます」
「いや、電話の向こうでうっすらだけど話し声聞こえてたし、何かあったのかと思うだろ」
「気付いていただけてよかったです」
「あと、位置情報は助かった」
「こちらこそ、本当に助かりました」
 正直なところ、黒尾が間に合うとまでは期待していなかった。黒尾に発信したのは、いわば保険のようなもの。そしてその保険があったからこそ、名前は茂部に対してどうにか太刀打ちできた。
 ともあれ、大事にならずにほっとした。名前はそっと胸を撫でおろす。黒尾があれだけ脅しているから、きっと茂部も懲りたことだろう。もとより名前個人にそれほど執着していたわけでもなさそうだ。
 と、名前が済んだことに安堵していると、ふいに黒尾が固い声音で「苗字さん」と呼んだ。名前はつと顔を上げる。すると依然険しい表情のままの黒尾と、ばちりと視線がぶつかった。
 瞬間、胸がざわりと落ち着かなくなった。すでに波乱は幕を引いたはずなのに、黒尾の目には未だ苛立ちが燻ぶっている。
 戸惑う名前に、黒尾はゆっくりと切り出した。
「俺のこと呼んだのは、正しい判断だったと思う。なんかあったとき、苗字さん一人じゃいくら何でも危なすぎるしな。けど、なんで俺が来るまで待てなかった?」
 詰問するように尋ねられ、名前は一瞬言葉に詰まった。それはたしかに、そうできたなら理想的だったのかもしれない。名前ひとりで茂部に対峙するより、黒尾が介入した方がよほど穏便に、迅速に事が片付く。そのことは名前にも理解できた。
 だが、実際には黒尾が駆けつけてくれる保障など何処にもなかった。来てくれるか分からない黒尾を待つよりも、自分で対応する方がずっと現実的だったのではないか。
「時間を稼ぐとかなら、ここじゃなくてもできただろ」
「でも、最寄りのコンビニ通り過ぎちゃってたし」
「そんなのどうとでも理由つけて戻れたんじゃないの」
 黒尾の言葉にはあからさまな苛立ちが滲んでいる。黒尾が怒っているのが茂部に対してだけではなかったことに気付き、名前は途方に暮れた。
 そうは言っても名前だって必死だったのだ。その時その時で、名前はもっとも適当だと思う行動をしたつもりだった。
 無鉄砲だったところはあるかもしれない。それについて注意を受けても仕方がないとも思う。だが、ここまで叱られるのは釈然としない。
「黒尾さんなら来てくれるって思ってたけど……、でも、もしかしたら間に合わないかもしれないって、そう思ったんですよ」
「だったら、なんであんな煽るようなこと言うんだよ」
「それは、こう、話の流れで」
 黒尾の言葉に返事をしながらも、名前の胸はざわついていく。茂部と相対したときのような不快さはなかったが、ただただ胸が落ち着かなかった。名前が萎れて見えるというのなら、今こそ萎れているのだろう。だが今の黒尾は夜闇と腹立たしさで視界を悪くし、名前が肩を落としているのにも気付かない。
「苗字さんがひとりで余計なこと言って、あいつに逆上されてなんかあったらどうすんだ」
「だって、」
「だってじゃない。実際危ない目にあいかけただろうが」
「そう、ですけど……」
 何か言い返したかったのに、うまく言葉が出なかった。どのように言ったところで、黒尾の神経を逆撫でしてしまうような気がした。
 そんな名前に、黒尾は苛立ちまぎれに溜息を吐く。そしてふいと名前から視線を逸らすと、
「多分、そういうところ」
 ひどく投げやりな調子で、黒尾はぼやいた。
「そういうところがあるから、苗字さんはひとりで平気なんだよなって、思われるんじゃないの。実際俺も今、思ったし」
「……何ですか、それ。何の話ですか」
「大学祭のとき、苗字さんの知り合いが言ってただろ。苗字さんはひとりで平気だって。友達なんかいなくても自分でなんでもできるから、自分ひとりでどうにかした方が手っ取り早いと思ってるから、だからああやって、平気で向こう見ずなことするんじゃねーの」
 視線を名前から外したまま、黒尾は胸にわいた言葉を吐き出し続けた。
 いざというとき、名前は黒尾を頼らなかった。自分では頼っていると思い込んでいるのかもしれないが、深い部分で信頼しきってはいない。だから最低限の保険だけかけて、自分で問題を解決しようと無茶をする。
 大学内のいざこざくらいならば、それでも十分だったのだろう。だが、人けのない夜道で成人男性を相手に、一体名前に何ができたというのか。迂闊なことをすれば余計にひどい目にあうだけだというのに。名前は自分を過信しすぎている。
 そのことが、黒尾にはどうしても腹立たしかった。
 だからついつい、当てこすりのような言葉まで口にした。
「俺なんかの助けがなくても、自分ひとりで対処できるって、苗字さんはそう思ってるんだろ」
 たとえそうなのだとしても――これまでそうだったのだとしても、これから先ずっと、そうであるとは限らないのに。自分ひとりで対処できることなんて、土台限られているというのに。
 名前の思考はひどく傲慢で、浅い――そう思っていることを言外ににおわせて、黒尾ははっきりと、名前に言葉を叩きつけた。これで少しは名前が頭を冷やして反省すればいいのだと、そんなことを思いながら。
 しかし、黒尾が憤然と視線を戻した先にいたのは、呆然として涙で顔を濡らしている名前だった。
「は、」
 思わず言葉を失う。呆然と泣き続ける名前を、黒尾もまた呆然と見つめる。
 先に言葉を発したのは、名前だった。
「なんで」
「えっ、な、なに……。苗字さん……?」
「なんでそんなこと言うんですか……」
 ヒッと名前の喉が引き攣り音を立てる。夜のしじまの中にあって、その音はふたりの間にいやに大きくはっきり響いた。黒尾がはっと我に返る。そして先ほどの名前と同様に、途方に暮れた。
 名前は年下の女子、それも日頃可愛がりこそすれ、虐めたことなどついぞない相手だ。その名前を、さんざん怖い思いをしたであろう後に、止めを刺すようにして泣かせた。その事実に気付き、愕然とする。
 そうしている間にも、名前は繰り返ししゃくり上げ、子供のように泣き続けていた。嗚咽の間隙を縫うように、無理やり言葉を絞り出す。
「黒尾さんのこと頼らなくても、へっ、平気なんて、そんなの、思ってるわけないじゃないですかぁ……く、黒尾さんにっ、電話、つながってなかったら、あ、あんな、いくら話の流れだって、怖くて言えるわけないのに……」
 目元にたまった水滴が、頬を伝ってぼたりと落ちた。夜の闇に吸い込まれ、落ちた涙はあっという間に見えなくなった。
「なのに、なんで、そんなこと言うんですか……」
 同じ言葉を繰り返す名前に、黒尾は何を言っていいものか、まったく見当もつかなかった。名前はますます、激しくしゃくり上げる。
 狼狽えた黒尾が一歩、おそるおそる名前に近づいた。
「うおおお……待った待った俺が悪かった、謝るからちょっ、待っ……」
 しかし名前は聞く耳を持たず、「なんなんですかぁ」と、弱弱しく抗議する。
「なんで、そんな、今そんなこと……ううう……ていうかっ、がっ、学祭……なに? っひ、なんの話してるんですか……っ!」
「いや、だって苗字さん、前に同じようなこと言われたときは、全然平気な顔してただろ!? 何言われても気にならないって自分で言って――えっ、なんでそんな泣く!?」
「だからぁ、何の話をしてるんですかぁっ」
 いよいよ名前の嗚咽も大きくなって、黒尾はひたすら狼狽し続ける。
「だから大学祭で、苗字さんの知り合いの女子が」
「そんなの、だって、そんなの」
 堪えきれない嗚咽で言葉を切れ切れにさせながら、目を真っ赤にして。それでも名前は黒尾を見上げて言った。
「だって、黒尾さんは、何を言われても気にならないような、私にとってどうでもいい人なんかじゃ、ないでしょ……?」
 その言葉に、黒尾が目を見開いた。しかしそんなことは、名前にとって、言うまでもない当たり前のことだった。
 自分を嫌う、知人とも言えないような距離の相手と、黒尾がまさか同じはずがない。どうでもいい誰かに何を言われても気にならない一方で、黒尾から発せられた言葉ならば、たとえそれがどれだけ取るに足らない言葉であっても、名前の心はきちんと揺れる。
 ちゃんと傷つく。
 それが黒尾の言葉なら。
 堰を切ったように溢れる涙に、名前はもはや抗うことをやめていた。なんだかもう、全部どうでもいいような気すらする。しだいに投げやりな心持ちになりつつあった名前は、ふと両肩に軽く重さがかかっているのを感じた。涙を拭って前を見れば、黒尾が名前の両肩に手を置いて、項垂れるように顔を俯けている。
 ほんの一瞬、名前は抱きしめられる寸前のような格好だと、泣きすぎて暈けた頭で思った。
「ごめん、苗字さん。もう絶対ひどいこと言わないから、だから許して」
 顔を俯けたままで、黒尾がぐったりと謝る。黒尾らしくもない、疲れ果て、気力の欠片もないような声だった。
「女の子があんな状況で、ひとりで、平気なわけないよな。うん、知ってたのに、俺がひどいこと言ったな。ごめん、本当に」
「わた、わ、私もごめんなさい」
「うん、ごめん」
「ごめんなさい」
 何度も何度も、互いにくりかえし謝り合う。名前の肩に置かれた黒尾の手は、大きいばかりで頼りない、心許ないような手のひらだった。節ばっていて皮膚の厚い手のひらが、名前の小さな肩を痛ませないぎりぎりの力で掴んでいる。
 茂部の手首をつかまえたのと、同じ手だとは思えない。縋るように自分の肩をつかむ黒尾の手の感触を、名前は意識の隅でぼんやりととらえていた。

 ★

 ようやく名前が泣き止んだのは、それからしばらく経ってからのことだった。鞄から取り出したハンカチで目元を拭い、そのままハンカチで顔を覆う。恥ずかしさと情けなさでいたたまれず、今にもこの場から消え失せてしまいたかった。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、本当にすみませんでした……」
「お見苦しくないから大丈夫」
「うう、忘れてください……」
 名前の自宅に向けて歩きながら、そんな会話を交わす。いつも通りを装いながらも、やはりふたりの間を流れる空気にはどことなくぎこちなさが残っていた。
 ふと、隣を歩く黒尾からの視線を感じ、名前は内心で首を傾げる。だがすぐに、黒尾の視線の先がハンカチを握る自分の手なのだと気が付いた。顔の高さまで持ち上げた手は、今になって小刻みに震えている。
 慌ただしく感情が移り変わったすえに、やっとのことで押し殺していた恐怖が首をもたげてきたらしい。その手を黒尾の視線から隠すように、名前はハンカチを鞄の中に押し込んだ。ちょうどマンションの前に到着し、黒尾が足を止める。
 名前はくるりと黒尾の方に向き直ると、無理やり笑顔を取り繕った。勢いよく頭を下げ、
「今日は本当に、ありがとうございました。おやすみなさい」
 だが名前が顔を上げるより先に、
「はい、ちょっと待った」
 黒尾が名前を呼び止める。顔を上げ、名前は黒尾を見上げた。黒尾は眉尻を下げ、困ったような表情で淡く微笑んでいた。 
「……これ、俺本当に間違えたくないことだから苗字さんに聞くし、正直に答えてくれていいんだけど」
 そう前置きをしてから、黒尾は真剣な声で問う。
「俺、もう少し一緒にいた方がいい? それとも、ひとりにした方が心休まる?」
 真剣な、それでいて遠慮がちな問いかけだった。名前はじっと黒尾を見つめる。
 黒尾は名前の不安を見て取って、そのうえで名前に選択肢を提示してくれる。自分が一緒にいない方がいいのならと、身を引く優しさも持ち合わせている。
 好きだと思った。黒尾のその優しさが、どうしようもなく好きだと。
「……それじゃあ、あの……できればもう少しだけ、一緒にいてほしいです。その、黒尾さんさえよければ、ですが」
 恥じ入る声はささやくようで、そのか細さゆえ、余計に名前は恥ずかしくなる。
「ん、分かった」
 黒尾はすぐに頷いた。そのとき、びゅうと強い風が吹き、黒尾と名前は揃って身を縮こまらせる。夜もだんだんと更け始め、冷え込みはいちだんと厳しくなっていた。
「あの、ここは寒いので」
「じゃあ、どっか店……いや、この時間は近場全部しまってるか」
 名前の家の近所には店が少ないし、あったとしても閉店がはやい。どこか店に入るのならば、来た道を引き返して駅まで戻らねばならなくなる。せっかくここまで帰ってきたのだから、わざわざ引き返すのは気が進まなかった。
 黒尾が困り顔で顎を摩りながら思案している。逡巡のすえ、名前は、
「私の部屋でよければ」
 と、おずおず黒尾に提案した。黒尾が怪訝そうに眉根を寄せたのを見て、名前は自分が何かひどい間違いを犯したような気分になった。だがよくよく黒尾を見ていると、それが訝しさによるものではなく、名前を気遣うがゆえの戸惑いであることが分かる。
「そりゃあ苗字さんちってのが一番手っ取り早いけど……でも俺、上がって大丈夫?」
 この場合、黒尾が懸念しているのは黒尾個人がどうこうということではないのだろう。ついさっき、名前は茂部という男性によって怖い思いをさせられている。その恐怖を感じたままで、茂部と同じ男性である黒尾を部屋に上げるのは怖くないのかと、そのことを懸念しているのだ。
 黒尾の質すような視線を受け、名前はゆっくりと頷いた。
「大丈夫です、黒尾さんなら」
 黒尾さんは怖いことをしないって、知っているから。
 名前のその答えに、黒尾は曖昧に笑って、「信用されてて何より」と呟いた。
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