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 名前は大学での用事を済ませると、適当に大学近くで夕食を済ませてから、自宅への帰路についた。研磨の家から大学に行ったので、今日も駅から自宅までは徒歩になる。それほど遅い時間ではなかったが、晩秋の日は落ちるように沈み、大学を出たときには薄暮だった空も、自宅の最寄り駅についた頃には西の空の裾がほのかに明るいだけの、まったくの夜空に変わっていた。

 黒尾さん、まだ孤爪くんの家にいるのかな。自宅に向かいながら、ふとそんなことを考える。
 ネコを見るという目的こそ果たしたものの、赤葦という予想外の来客があったことで、家主の研磨とはほとんど話をしないまま退室してきてしまった。研磨の性格や名前との付き合いの浅さを考えれば、むしろ名前がいなくなった方があの場が和やかになるのだろうとは思うのだが、それでもさすがに慌ただしく出てきすぎた。三人の予定を合わせ、わざわざ名前を案内した黒尾にも悪いことをしたと思う。
 また誘ってもらえるといいんだけれど。図々しくもそんなことを思うのは、次回こそ研磨ともう少し親しくなりたいのと、研磨の家にやってくるネコを眺めていたいからだ。自覚したばかりの黒尾への恋心とは、まったく露ほども関係ない。
 黒尾を好きだと認めたところで、これまでと何かが変わるわけでもない。そういう意味では、名前にとっては恋心など、あってもなくても同じことだった。自分の気持ちに折り合いをつけられた分だけ、気分がいいというだけに過ぎない。
 何も変わることはない。今までも、これからも。
 と、そんなことを考えながら歩いていると、ふと名前は背後に気配を感じた。咄嗟に鞄の中の防犯ベルに手を伸ばして振り返ると、
「名前ちゃん」
「こ、こんばんは、茂部さん……」
 ぎこちない笑顔を顔に貼り付けた茂部が、暗闇の中にぬっと立っていた。
 一体いつから名前の後ろを歩いていたのか。駅を出たときにはいなかったはずの茂部に、名前は思わずぶるりと震えた。
 茂部と顔を合わせるのは、先日家まで送ると押し切られそうになったところを、偶然黒尾に救ってもらって以来だった。事情をオーナーに話したうえで、名前はバイトの時間や曜日を、これまでと少しずらしてもらっていた。そのおかげなのか、『猫目屋』に客としてやってくる茂部とも、ここしばらくは顔を合わせていない。
「大学の帰りかな」
 茂部が名前と視線を合わせて尋ねる。その顔にあるのは名前が知る、客として『猫目屋』にやってくる茂部らしい穏やかさだ。だが茂部の穏やかさが剥がれたあとの顔を垣間見たばかりの名前は、その見せかけの穏やかさを信じ込み、気を許すわけにはいかなかった。
「卒論のことでちょっと」
「そっか。卒論はどうにかなりそう?」
「はい。どうにか、なんとかなりそうです」
 当たり障りのない会話を交わしながら、茂部はごく自然に名前の隣に並ぶ。途中まで帰り道が同じなのだから、合流を拒むだけの理由もない。そのまま名前の家の方角へと歩き出した
 名前は鞄の中で握っていた防犯ベルを手放すと、かわりにスマホを探り当てる。
「ちょっとすみません、ゼミの教授からメッセージが」
 適当な作り話で誤魔化すと、すばやく黒尾に現在地を送信した。次に黒尾のスマホに発信すると、黒尾が電話口に出るのを待たず、呼び出し状態のままでスマホを鞄へと戻した。
「すみません。卒論提出直前なのでいろいろ細かい確認が多くて」
「大変だね、適当な教授にあたると楽なんだけど」
「うちのゼミは結構卒論をしっかりやるので」
 黒尾は着信に気付いただろうか。気になりはするものの、すでにスマホは鞄の中だ。たとえ黒尾が着信に気付いたところで、名前と通話することはできない。
 だが、それでもいい。黒尾のことだから名前からの着信を、間違い電話だと切って捨てるようなことはしないだろう。もしかしたら電話の向こうの名前たちの会話に耳を澄ませて、状況を察してくれるかもしれない。そうでなくても、現在地情報を送信したから、何かあったのだろうということは分かってくれるはずだ。
 胸が嫌な高鳴り方をしている。隣の茂部は今のところいたって温厚だが、いつその仮面が剥がれるのかは名前にも分からない。
 いつものことながら、駅からの帰り道は人けに乏しく静かだ。まばらに設置された街燈が、かえって夜道の暗さを浮かび上がらせている。
「ここのところはバイトも減らしてる?」
 茂部の問いに、名前は微笑を浮かべて頷いた。
「そうですね。卒論も追い込みですし、……卒業前に大学の友達と会ったりとか、いろいろ」
「そうなんだ。『猫目屋』さんに行っても名前ちゃんがいないことが多かったから、忙しくしているのかなとは思ってたんだけどね」
 さらりと告げられた言葉に、背すじがひやりと凍る。まさか名前がシフトに入っているところを狙われているわけではないだろうし、そもそも茂部の真意もさだかではないが、だからといってみすみす聞き流せる話でもない。
 ほとんどありえないことではあるが、茂部が名前に対して何の感情も――下心すら抱いていないということだって、可能性だけは存在している。だが、茂部の言葉はそんな一条の光のような可能性すら、容易に吹き飛ばす。
「名前ちゃんがいないと、オーナーも寂しいだろうね」
「はは……、一応私も卒業前ですから。バイトばっかりしてるわけにはいかなくて」
「就職はこっちでするの?」
「一応その予定です。まだ配属がどうなるか分からないので、何とも言えませんが」
 本当は名前の勤務先はすでに決定している。今住んでいる場所から通える距離に勤め先があり、他県への異動がないことまではっきりしていた。
 だが、それを茂部に言う理由はない。茂部はことさら不審がる様子もなく、「そんなもんだよね」と相槌を打った。
「卒業前に友達ともたくさん遊んでおかないといけないし、この時期の大学生は本当に大変だね」
「はは……そうですね……」
「黒尾さんとも、よく遊んでるの?」
 実在しない大学の友人との予定に乾いた笑いをもらしていた名前は、不意打ちのように飛び出したその名前に、はっと顔をこわばらせた。前方に向けていた視線を、ゆっくりと隣の茂部に向ける。茂部は作り笑いにも見える薄笑いを浮かべ、名前に視線の照準を定めている。
 ぞくりと背すじが冷たくなった。暗がりの中にあっては、静かに凪ぐ黒々とした茂部の瞳は、不気味に輝く闇のようだ。静けさの奥に、何か暴力的なものが滲んでいるような気がして、名前は咄嗟に目をそらす。
「よく、ってほどではない……ですけど……」
「そっか……そうなんだね」
 空気がしだいに重くなってくる。茂部の歩みはやはり遅く、一刻も早くこの場を立ち去りたい名前は、気ばかりどんどん急いていく。
 やがて茂部と分かれる交差点までやってくる。心を決め、名前は茂部を見上げた。
「茂部さん、あの、もうこの辺りで」
「どうして? 暗いし家まで送るよ」
 当然のように送ると申し出られる。だがここまでは名前も想定していた範囲内だ。ここで強く出なければ、また前回と同じように押し切られそうになってしまう。
 黒尾との通話はまだ繋がっているのだろうか。鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ、名前は引き結んだ唇を開いた。今すぐ黒尾が助けてくれるわけではなくても、心の支えにはなる。
「本当に、大丈夫です」
 黒尾のことを思い出したおかげか、声は震えず、視線もぶれなかった。
「うち、もう近所なので」
「遠慮しなくても、近所なら尚更だよ」
「結構です。遠慮とかではなく、本当に」
 言い過ぎかもしれないと思いつつ、こうとでも言わなければ伝わらないだろうとも思う。普段ここまではっきりとした拒絶を他人に向けることがないから、口にした名前の方が言葉の強さにおののく。
 茂部はしばし、無言でその場に立ち尽くしていた。明かりの少ない夜の中で、微動だにせず屹立した茂部は彫像のようで恐ろしい。知らず、名前はじりと足を背後にずらした。
 この隙にと、名前は口を開けたままの鞄の中に視線を向ける。画面が点滅しているか確認しようとした、その時、
「黒尾さんにはいつも送ってもらうんだろ?」
 つと、茂部が名前の方に一歩踏み込んだ。名前が反応して逃げるより先に、茂部は名前の手を掴む。その手のぬるさに、名前の全身からさっと血の気が下がった気がした。
「ちょっと、」
「黒尾さんには送らせるんだろ」
「く、黒尾さんも、家の前までは送らないですから」
「この間は、家の前まで送っていったじゃないか」
「……この間って、いつの話ですか」
 黒尾が名前をマンションの前まで送るようになったのはつい最近のことだ。茂部とのことがあったから、それ以来念のためにと家の前まで送ってくれるようになった。だがそれまでは、黒尾の方が気を遣ってマンション前までは送らないようにしてくれていた。茂部が黒尾の姿をマンション前で見たとしたら、それはつい最近のことのはずだ。
 しかし、いつ。名前は茂部にマンションを教えたことなど一度もなかったし、黒尾と一緒にいるところを、あれ以降茂部に見られた記憶もない。
 名前が混乱するのにも構わず、茂部は一層名前の手を強く握った。
「黒尾さんはよくて、僕はだめなんだね」
 そういうつもりでは、そう咄嗟に言いかけて、名前はしかし、その言葉を呑み込んだ。茂部の言っていることは間違っていない。黒尾にマンションまで送ってもらっていることは事実。そして同じことを茂部にしてほしいとは、名前にはどうしても思えない。
「すみません……」
 そう言う以外に、名前は茂部に掛ける言葉を何も思い付かなかった。茂部は「僕の何がいけなかったのかな」と低く呟く。独り言のような調子でありながら、その問いは明確に名前の返答を求めている。求められている返事は、名前には分からない。
 さりげなく掴まれた手を振りほどこうとしてみたが、生憎それはかなわなかった。胸の嫌な高鳴りは未だやまない。鞄にちらりと視線を遣ったが、だからといって何がどうなるわけでもない。たとえ通話が黒尾につながっていたとしても、電話越しではかえって茂部を逆上させかねない。
 逡巡のすえ、名前は答えた。
「黒尾さんは親切な人です。だけど、その親切を人に押し付けるようなことは、黒尾さんは絶対にしないです」
「押し付ける……。僕は親切を押し付けてる?」
「時々、ほんの少し……」
「そんなつもりはなかったんだけどなぁ」
 名前の手首をつかむ茂部の力が、ほんの一瞬揺らぎのように弱まった。すかさず名前が手を振りほどく。茂部は驚いたように名前をじっと見つめた。
 その目に、名前はほんのわずかな罪悪感を抱く。だが直後、茂部の瞳に先ほど一瞬垣間見えた衝動的な暴力の色が滲んだのを見ると、名前の胸に罪悪感はたちまち恐怖で掻き消えた。
 じりっと一歩、名前がまた後ずさる。茂部は距離こそ詰めてこなくても、隠しきれない怒気を発して名前を威圧した。
 名前の手が鞄の中で防犯ベルを探す。しかし最前スマホを探す際に鞄の底に落としてしまったせいで、指先はなかなかベルを探り当てることができない。
 茂部の表情にはもう、穏やかさや親しみやすさといったものは、一筋すらも残されていなかった。夜闇に紛れる茂部の顔色は不気味なまでに赤黒い。
 茂部が一歩、名前に詰め寄る。乱雑に踏み出した茂部の足元で、砂がざりと音を立てた。
「僕は……名前ちゃんに、何か酷いことをしたかな。これでもかなり、親切にしてきたと思うんだけど」
 その瞬間名前の脳裏に思い浮かんだのは、以前黒尾の言っていた言葉だった。親切と下心は違う。黒尾が名前に差しだしてくれるものは掛け値なしの親切だが、茂部が押し付けようとしているのは、けして親切などではない。
 茂部にはそれが分からないのだろうか。そう考えたところで、分からないのだろうと断じる。もしもその違いが分かっていれば、今頃こうして名前と夜道で押し問答などしているはずがない。名前の言葉に、これほど耳を貸さずに逆上しているはずがない。
 震えかけた指先を、ぎゅっと強く握りこむ。茂部に握られた手首には、今もまだその感触がはっきりと残っていた。明るいところで手首を見たら、もしかすると痣にでもなっているのかもしれない。手加減をしていたかは分からない。だがどうあれ、彼我の腕力の差は歴然だ。
 怖いと、そう思いかけた思考を無理やりに消し飛ばした。
 気力をふりしぼり、名前は茂部を見据える。まっすぐ見つめた眼差しに、茂部はほんの一瞬怯んだように目をしばたかせた。しかしすぐ、顎を上げて名前を見下ろす。自分の方が立場が優位であると、露骨に示そうという態度だった。
「親切に、していただいたこともあったかもしれません」
 名前は低く、声をおさえて言った。
「だけど、少なくとも今、それからこの間も、親切にしていただいたとは思えません」
「送っていこうって言うのは、僕なりの親切のつもりだよ」
「押し付けられても困ります。私にとっては、それは親切とは違うんです。それに、分かりやすく酷いことをされていなくても……今こうして、夜道でふたりで、そういう態度をとられることは、私にはとても、すごく、怖いことです」
 そこまで言い切ってから、名前は思い切り息を吸い込んだ。そして、
「親切と下心の違いくらい、私にも分かります」
 きっぱりと、そう告げた。茂部の顔が大きくゆがむ。それは名前に対する申し訳なさではなく、ましてや自省の念などであるはずもなく。
 そこにあったのはただ、己の矜持を傷つけられたことへの、防衛反応のような怒りの発露でしかなかった。
「僕が、ここまでしてやろうって言うのに、」
 茂部の声が、わなわなと震えていた。その腕がぬっと持ち上がったかと思えば、名前の方に振り降ろされる。咄嗟に名前は身体を竦ませた。襲い来るはずの衝撃に、目を瞑ったまま肩を縮こまらせて備える。
 だが、どれだけ名前が待とうとも、茂部の手が名前に向け振り下ろされることはなかった。その代わりに、今ここにいるはずのない、名前が今ここにいてほしい、たった一人の声がする。
「何をしてるんですか」
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