029

 手洗いついでにスマホを確認すると、ゼミの担当教授から急ぎの呼び出しが入っていた。呼び出しの用件自体は大したことないものだったが、ひとまず今日中に大学に来られそうなら来るようにとのお達しだ。卒論提出期限も間近に迫っている。名前は一足先にお暇して大学に向かうことにした。
 手洗いを出て、元居た部屋に向かう。部屋の近くまで歩いて行くと、開け放たれた扉の向こうから、室内で会話する声が漏れ聞こえてきた。どうやら三人は縁側から部屋の中に戻っているらしい。
 本当ならば、さっさと部屋に戻って暇を告げるつもりだった。だが名前の足は、黒尾たちが待つ部屋の敷居をまたぐ前に、ぴたりと足を止めた。漏れ聞こえてくる会話の中に、自分の名が含まれていることに気付いたためだった。
 盗み聞きするつもりはなかったが、部屋の中に入っていくのも気が引ける。名前は結局、部屋の扉のかげで室内の話を盗み聞きする恰好になった。
「黒尾さんが女の人とこうやって親しくするの、正直意外でした。まして孤爪と引き合わせるのも、よっぽど苗字さんのこと信用していないとできないですよね」
 赤葦の淡々とした言葉に、名前の胸がどきりと跳ねる。室内の三人が名前の盗み聞きを知るよしもないのだろうが、それにしてもこういう話題はいたたまれない気分になってくる。
 だがもうひとりの当事者の黒尾は、名前の感じるいたたまれなさなど思い付きもしないような飄飄とした調子で、
「信用してるからな」と平気で嘯く。「苗字さんは特別」
 えっ、と思わず声を上げそうになって、名前は慌てて両手で口を塞いだ。特別。まさかそんな言葉を黒尾の口から聞かされることになろうとは、つゆほども思いもしなかった。黒尾への気持ちを自覚したばかりの名前の胸に、そのたった二文字の言葉はいやな波をわきたたせる。一体黒尾はどんな顔をして特別などと放言しているのだろう。盗み聞きする立場の名前には、室内の様子を窺い知るすべはない。
 ふたたび赤葦が問いただす。
「黒尾さん、さっきは苗字さんのこと、友達って言ってませんでしたっけ。付き合っているかどうかは別として、特別な人ということですか」
「ま、そうだな。少なくとも、適当に仲良くしてるわけではない」
 胸の鼓動が否応なしに速まるのが分かった。黒尾に適当にあしらわられたことがないことくらい、わざわざ言葉にされなくても名前は実感として知っている。それでも改めて言葉にされると、ぐっと胸にくるものがある。
 だが、その直後の黒尾の言葉が、名前の浮つきかけた心を正しい位置に押し戻した。
「苗字さんは大事な『茶飲み友達』なんでね。そうそう適当なことはしないんですよ」
「……そうですか」
 赤葦のわずかに下がったトーンの声に、名前は自分の心がシンクロしたような感覚を覚えた。
 特別は特別でも、それはあくまで友達の枠の中での特別に過ぎない。黒尾にとっての名前は、特別な友達。名前が黒尾に抱く気持ちとどれほど似通っているところがあったとしても、それは根っこの部分で決定的に別物だ。すれ違ったきり交わることはない。
 それもそうか。室内の遣り取りに耳を澄ませながらも、名前は不思議とすんなり納得していた。名前が恋心を自覚したところで、それは名前の中で変転を迎えたにすぎない。黒尾が名前をどう思っているかなど、名前にどうこうできるものではない。
 そもそも黒尾は一番最初からずっと、名前のことを特別な友人として大切に扱い続けてくれている。そこから勝手に恋心を生み出したのは名前であって、黒尾が何か変わってしまったわけではないのだ。それが分かっているから、名前がことさらに落胆することもない。ただ、そういうものなのだと再確認しただけだ。
 室内の会話が途切れ、間延びした沈黙が流れてくる。名前は盗み聞きするのをやめて、敷居をまたいだ。そして名前に視線を向ける三人に向け、スマホを手にちょっと頭を下げた。
「すみません、ちょっと急に大学に行かねばならなくなってしまって」
「大丈夫? 送っていこうか」
 そう言って黒尾が腰を上げかけるのを、名前は慌てて制した。
「いえ、大丈夫です。ちょっと卒論に不備が発覚して……急ぎではないんですけど、急いだ方がいいやつで」
「矛盾してるけど大体わかった」
「すみません、片付けとか全然してないのに」
「いいって。ほら、急げー」
「本当すみません。孤爪さん、ありがとうございました。ええと、赤葦さんも、慌ただしくてすみません」
「いや、気を付けて」
「では失礼します」
 慌ただしく荷物をまとめると、名前は挨拶もそこそこに孤爪家を後にした。先ほどまで身体を満たしていたふわふわとした気持ちは、黒尾がはっきりと名前を友達だと言い切ってくれたおかげで、すっかり払拭されている。
 黒尾の気持ちが少しも揺らいでいないことは、それはそれで名前にとってはありがたいことだった。意味もなく浮ついたり期待を高めたりせずに済む。もともと恋心を自覚したからといって、黒尾と付き合いたいとまでは思っていないのだ。
 自分は黒尾のことが好きで、黒尾は自分のことを友人だと思っている。名前の気持ちに多少の変化があっても、これまでと関係は何ら変わらない。
「よし、切り替えて、卒論」
 わずかに余韻を残していた浮ついた気持ちを振り払い、名前は頭を学業モードに切り替えた。

 +++

 名前が慌ただしく去ったあとの室内には、何とも言えない微妙な空気が漂っていた。研磨は面倒くさそうにスマホをいじっている。黒尾は意味もなく名前の去っていった玄関を窓越しに眺め、赤葦はそんな黒尾に訝しげな視線を投げていた。
 問うべきか、問わざるべきか。赤葦の頭にそんな問いがぐるぐると回る。問えば面倒ごとに首を突っ込むことになりそうだが、だからといって問わないでいるのも後味が悪い。
 赤葦が黒尾による何らかのはかりごとに巻き込まれたことは明白だ。そして赤葦は、自分が何に巻き込まれたのかを分からないままにしておけるほど、達観してはいなかった。
「俺、何に巻き込まれたんですか」
 知りたいという欲求にはあらがえない。直球で問う赤葦に、黒尾はわざとらしく「何が」としらばっくれた。赤葦の眉間に皺が寄る。
「黒尾さん、さっきあの人にわざと聞かせましたよね。気付いてたんでしょう、苗字さんが扉の陰にいたこと」
 研磨がちらりと、黒尾に視線を遣る。黒尾は口角を上げたまま、「まあ、そうだなぁ」と曖昧に肯定した。
 今日、名前が何やら萎れていることに気付いた時点で、黒尾はある程度名前の胸中を予想していた。さすがにあれほどはっきり「嫉妬した」などとぶちまけられるとは思わなかったが、少なからず似たような話をされるだろうと察しはついていた。
 名前との距離が縮まっている――そのことを、黒尾は名前よりも敏感に察していた。それも当然だ。黒尾の方が意図的に、名前に何かと声を掛けたりしている。人に優しくする以上、相手のリアクションと距離間をはかり続けるのは、優しくするものの義務のようなものだろう。
 自分が優しくしたことで、名前が黒尾に心を寄せつつあることにも、黒尾はすでに気付いていた。そうでなければ、あの名前の胸に妬心など生まれようもない。
 だからこそ名前に向けるアドバイスの方向を、あえて「友達同士でもそういうことはある」というように誘導した。これまでと同じように、それは茶飲み友達として不自然でない範疇にあるものだと、名前に言い切った。
 もっとも、そうして黒尾が受け容れ呑み込んでしまったことで、結果的に名前が恋心を自覚してしまったことまでは、さしもの黒尾も知る由もないことだ。
 そしてまた、距離間を誤りかけているのは名前だけでないことにも、不本意ながら黒尾は気付いていた。自分が名前に友情以外の気持ちを見出しそうになっていると、認めないわけにはいかない。
 だから黒尾は、わざと名前に聞こえるように友達宣言をした。名前がこれ以上踏み込まれなければ、黒尾から踏み込んでしまうこともない。名前が友達としての距離を守っていれば、今のこの心地よい距離を今後も保ち続けられるはずだ。少なくとも、黒尾はそのように考えていた。
「苗字さんはさ、ことのほか『茶飲み友達』って関係の名前を大事にしてるんだよね」
 赤葦の問いに答えているようで煙に巻いている黒尾の答えに、赤葦は露骨に顔をしかめて首を傾げた。
「よく分かりませんが」
「だから、いろいろはみ出したものがあると、人間不安になったりするだろ。そういうのを『茶飲み友達』って名前のなかに片付けなおしておいたら、まあ心穏やかにやっていけるのではないかい」
「やっぱりよく分かりません」
 赤葦の訝しげな視線と、研磨の呆れたような、面倒そうな視線。双方の視線を受けながら、黒尾はへらと笑った。本心では、自分の言葉の空虚さに黒尾も気付いている。だが、そこを深く追求しては前提が瓦解しかねない。黒尾は名前と『茶飲み友達』でいたいのだ。今のこの関係に、余計な手出しをしたくはない。
 だが赤葦は、そんな黒尾の胸中などまったく忖度しようとしない。「よく分かりませんが」と前置きをしてから、淡々と持論を並べた。
「はみ出してるものを無理やり片付け直したところで、また溢れてはみ出してくるのは時間の問題なんじゃないですか。そのラベルの箱におさまりきらなくなったなら、諦めて別の箱を用意するか、それができないのならはみ出した部分を切り取って捨てるしかないと思います」
 
 +++

 言いたいことを言うだけ言って、赤葦はさっさと帰っていった。もともとの訪問の理由が研磨と知人の顔つなぎのために義理を通したというだけなので、それさえ済んでしまえばもはや長居する理由もないのだろう。
 赤葦を見送った黒尾はこたつに足を突っ込んで、まるで恐ろしいものでも見たかのように両腕で自分の身体を抱いた。同じくこたつで暖を取る研磨が、その様子をしらっとした目で眺める。
「赤葦のあれ何だ!? あいつ怖くない? 何? なんであんな示唆的なことを言い残していくんだ!」
「まあ、気にしなければいいんじゃない?」
「あんなふうに言われて気にせずにいられるか!」
 こたつに入ったままじたばたと身もだえする黒尾は、心底恐ろしい思いをしているようだった。
 高校時代からの知己であり、学年は黒尾の方が一学年上。いくら赤葦が曲者ぞろいの全国区セッターのひとりだったとはいえ、赤葦と自分が化かし合いをすれば、まだまだ自分に分があるはずだと黒尾はひそかに思っていた。だがその評価も、もしかすると見直さなければならないのかもしれない。
 取り乱す黒尾に対して、研磨はあくまで冷静だ。
「赤葦と苗字さんも、結構波長が合うんじゃないかなと思ったけど。お節介かもしれないと思っても紹介するっていう方針はやめにしたの?」
「さあな」
 ごろりと床に転がり、黒尾はぞんざいな返事をする。
「おれのときはお節介上等で引き合わせたのに」
「それはお前、研磨と苗字さんなら案外うまくやれそうだと思ったからだろ」
「赤葦の方が、苗字さんと合う気がするけど」
「どうだろうな。赤葦も大概変なやつだし、とっつきにくいとこあるだろ」
「……さっきのクロ、赤葦のことを苗字さんに紹介したくなさそうに見えた」
 そう言われた黒尾は、勢いをつけて起き上がると、きょとんと研磨を見た。 
「おまえ、もしかして俺に気を遣って赤葦とふたりで席外してくれてたの?」
「そんなことないよ。結果的にそうなったってだけ。そこまでクロたちの面倒見る気ないし。人のことに首突っ込みたくもないし」
 でも、と研磨は続けた。
「紹介してたら案外赤葦と苗字さんは話が弾んだかもね」
「そうならないかもしんなかっただろ」
 答える声は、どこか不貞腐れたような響きになる。そんなつもりは微塵もなかったが、これではまるで、黒尾が自分の友達を赤葦にとられまいとしているようだった。名前の妬心うんぬんが、こんな形ですぐに自分に跳ね返ってくるとはと、黒尾は内心苦笑する。
 しかしもちろん、それだけが赤葦に名前を紹介しなかった理由ではなかった。黒尾は思いつめたように溜息を吐き、そして神妙な面持ちで呟いた。
「実はこの間、苗字さんに友達紹介しようかって訊いたら、俺とふたりがいいって言われたんだよ」
 途端に研磨の目がひややかになった。幼馴染が滅多とない人間関係がらみの相談をしてきたかと思えば、突然のろけ話を放り込まれたのだ。冷ややかにならないはずがない。
 研磨の瞳の想像以上の冷たさに気付き、黒尾は急いで訂正した。
「違う違う、おまえが今想像しているような話ではない」
「別にどういう話でもいいけど……おれ関係ないし……」
「関係ないとか言うなって。研磨には苗字さんのこと紹介しただろ。友達のこと関係ないとか言わない」
 慌てながらに取り繕い、研磨の機嫌をうかがう。研磨はげんなりした顔をしていたが、それでも黒尾の話に付き合うつもりはあるようで、無言で話の続きを黒尾に促す。
 こたつの上に出しっぱなしの菓子盆に手を伸ばし、黒尾はふと名前のことを考える。赤葦と名前。言われてみればたしかに、話が合いそうなふたりではあった。赤葦は本好きが高じて出版社に就職を決めたし、名前もたしか本好きだったと記憶している。そもそも大学一年の頃に孤立する原因になったのも、好きな作家のイベントに女帝の恋人と一緒に行ったからだと聞いた。
 普段の黒尾であれば、そんなふたりが友人同士になるために、一肌脱ぐくらいは朝飯前だ。だが今日に限っていえば、そうしようとは思わなかった。もちろん名前の「黒尾とふたりでいい」という気持ちを尊重した部分も大いにあるが――
「まあ、でも研磨の言うとおり、俺も苗字さんに、無理に友達紹介しなくてもいいかなとは思った」
 前言を翻した黒尾に、研磨はぱちりと瞬きをした。黒尾の言葉にははっきりとした芯がない。きっと黒尾自身、自分の本心の向きがよく分からないまま、手探りで言葉を発しているのだろう。
 研磨は黒尾を注意深く観察する。人一倍自他の心の動きに敏感な幼馴染が、こと名前のことになると何故だかへなちょこになりがちだ。研磨の目から見れば、その理由が奈辺にあるかなど明らかなのだが、当の本人は不思議と気付かぬものらしい。
「どうして紹介しなくていいかと思ったの?」
 研磨が水を向けると、黒尾は悩ましげに目蓋を閉じた。
「なんだろうな。俺も苗字さんとふたりとか、研磨と三人とかで楽しい気もするし、それに――」
 それに。その接続詞に連なる言葉を思い浮かべたその瞬間、黒尾はがたがたと音を立ててその場に立ち上がった。大きな物音が立ち、研磨が驚いたネコのように身体を強張らせる。
 研磨は瞠目して黒尾を見上げた。だが黒尾は、研磨の見開いた目にも気付かず、呆然と空を睨んでいる。かと思えば、
「いや、なんだ今の! なんか今おそろしい思考に支配されかけてた!」
 突如、意味不明な言葉を発してわなないた。
「は?」
「怖っ! 赤葦のせいか!? 俺の思考どうした!?」
「どうかしてるのも怖いだのもクロだよ」
 研磨の冷たい声音に刺されながらも、黒尾はひとり頭を抱えた。

――それに、苗字さんが俺より赤葦のこと好きになったら面白くない。
 黒尾の頭に浮かんだフレーズは、間違いなく、名前が『茶飲み友達』として甚だ不適切だと断じたものと同一だった。
- ナノ -