午後五時きっかりにアルバイトを終えると、名前は急いでエプロンを外して帰り支度を整えた。アルバイトの日はいつも、まかない代わりのコーヒーを一杯飲んでから帰る。今日も名前のためにオーナーが淹れておいてくれたコーヒーのカップを手に、先ほど黒尾を案内したテーブルへと急いだ。
ほかに客もいないのに、黒尾は店内のもっとも奥まった位置にある、ふたり掛けのテーブルについていた。名前が帰り支度をしている間に注文を済ませたのか、テーブルの上にはすでにコーヒーカップと伝票が置かれている。
「お待たせしてしまいすみません」
声を掛けてから黒尾の向かいの椅子を引くと、黒尾が手元の文庫本に落としていた視線を上げ、おつかれさまですと薄く微笑んだ。
名前が椅子に掛けるのを待ってから、黒尾は文庫本を閉じ、話を切り出した。
「改めまして、黒尾です。なんかうちのばあちゃん、いや、祖母にコーヒーの一杯でも飲んで来い、名前ちゃんには話をしてあるからって言われてよく分かんないままきたんだけど、どういう話だった?」
「ええと、話すと長く……いえ、長くはないですね。長くはないんですが、ちょっと私もよく分からないので、とりあえず、この間黒尾さんがおっしゃっていた通りにお話しますね」
にこにこと人の好さそうな、それでいて胡散臭げという矛盾した印象の笑顔をたたえる黒尾を前に、名前はひとまず先日の遣り取りをすべて繰り返した。
常連の黒尾夫人――目の前の青年の祖母が、社会人になった孫の多忙さを心配しているということ。仕事とは無関係な息抜きとして、名前に話し相手になってほしいと頼んでいったこと。自分は近所で一人暮らしをする大学生で、この『猫目屋』でアルバイトをしていること。
要約すればたったそれだけのことだった。しかし名前はこんなふうに、見ず知らずの人間の話し相手をしてほしいなどと奇妙な依頼を受けたことはない。ゆえに、若干この依頼を持て余してしまっていた。
そもそもが、もうひとりの当事者である黒尾のいない場で決まったことだ。まずは黒尾に状況を説明し、その上で意向を聞きださないことには話が始まらない。
ひと通り名前の話を聞いた黒尾は、薄い笑顔を崩さぬまま、テーブルに肘をつき手を組んだ。
「なるほど、それで苗字さんは俺の話し相手をするよう頼まれたと」
いつのまにか、黒尾からの呼び方が『名前ちゃん』から『苗字さん』と改まっていることに気付く。胡散臭い人に見えるが、もしかしたらいい人なのかもしれない。名前は内心、第一印象から得た黒尾の評価を書き換えた。
呼び方ひとつとっても、相手が自分をどう位置づけているのかはうかがえる。少なくとも、黒尾は年下だからというだけの理由で、名前を気安く名前で呼ぶような男性ではなさそうだった。
テーブルの上で組まれた黒尾の手に視線を遣る。大きな掌と、長くて節くれだった指。装身具のたぐいはつけていない。やや平たい爪はきれいに切りそろえられており、指先は清潔さを感じさせる。
大きいのは掌だけではない。オーバーサイズの半袖のシャツから伸びた腕は、しなやかながらもよく鍛えられている。胸板も厚い。日頃から体づくりをしている者の身体だった。
秀くんも鍛えてるけど、こういうごつさはないな。名前の両手を合わせても二の腕の周に足らなさそうな、黒尾のたくましい腕を眺めてぼんやり思う。いとこの矢巾秀は均整のとれた体つきをしているが、高校の部活を引退して以降は女性ウケを主軸に置いた鍛え方をしているため、黒尾のような目に見えるごつさはない。
そんな思索にふけっていた名前は、
「なんか悪かったな、巻き込んだ感じで」
黒尾のその声に、はっと我に返った。名前は慌てて視線を黒尾の顔に戻す。
重く眠たげな目は底知れないが、少なくとも謝罪に嘘はなさそうだ。名前は頬をゆるめた。
「そんな、謝っていただかなくて大丈夫です。黒尾さんにはいつもよくしていただいていますし……、たしかに変な話になっちゃったなとは思いましたけど」
「思ったんだ。いや、まあ思うよな」
「でも本当に、黒尾さんにはお世話になってるので。お惣菜のおすそわけいただいたりとか」
「え、そうなの?」
黒尾がわずかに瞠目する。
「先日はきんぴらをいただいて。本当に美味しかったです」
「どうも」
突然孫の話し相手になってほしいなどと言われ困惑したのはたしかだが、それ以上に恩人である黒尾夫人に報いたい気持ちが勝った。親元を離れて暮らしている名前にとって、よその家の味とはいえ、自分以外の誰かが作った家庭料理を食べられる機会はそうそうない。それ以外にも、折に触れて気に掛けてもらえるということが、上京してからの三年間でずいぶん心の支えになっていた。
その恩人の孫が、目の前の青年なのだ。そう思うと、なんだか不思議な気分だった。
もう少し、青年のことを知りたいと思った。
「質問をしてもいいですか」
おそるおそる尋ねる。名前の言葉に黒尾は微笑み、どうぞ何でもと頷いた。
「失礼ながら、黒尾さんはどんなお仕事をなさっているんですか?」
「ばあちゃんから聞いてない?」
「鉄朗さんというお名前と、今年ご就職なさったということしか」
実際にはその鉄朗という名前も、夫人に聞いたのではなくオーナーから聞いたのだが。いきなり個人的すぎただろうかと案じる名前に、黒尾はにっと口角を上げて答えた。
「俺の仕事はバレーボール協会、の下っ端も下っ端、一番下っ端です」
「バレーボール協会、ですか?」
「そう。俺、小学生の頃からバレーやってて」
「ああ、身長も高くていらっしゃいますもんね」
黒尾の祖父も年齢のわりに背が高く胸板もあつい。だが孫の黒尾は、祖父よりもさらに上背があった。ひょろ長いという印象がないのも、スポーツマンといわれれば納得がいく。
「俺が自分の職場のいいなと思ってるところ、誰に教えても『何の会社?』って聞かれないところ」
屈託なく笑う黒尾に、名前はさらに印象を上書きした。第一印象よりもずっと、かなり、とっつきやすい人らしい。
「黒尾さん……ああ、鉄朗さんではなく、黒尾さんのおばあ様が、就職したばかりなのに忙しそうってお話をなさっていたので、てっきり何か外資系のすさまじく忙しい会社とか、そういうところにお勤めなのかと想像していました」
「なるほどな、たしかに忙しそうって聞いたらそういうイメージするよな」
バレーボール協会が忙しくなさそうだというつもりはなかったが、だからといって凄まじく忙しいというイメージもなかった。というよりも名前には、そもそも具体的な業務の内容の想像がつかない。
「実際は苗字さんの言う通りそこまで忙しくて目が回るってほどでもなく……、というか忙しいは忙しいんだけど、俺の場合は特に時間外にいろいろ顔を出したりしてるだけというか。俺はまだ一年目だし、業務自体はそこまで忙しくないんだよな。あとは仕事柄休日がカレンダー通りじゃなかったりするのもある。うちのばあちゃんとかは、土日に俺が仕事に出たりするイコール、やたらと俺が忙しいと思ってる節がある」
「なるほど」
業務の内容は不明だが、黒尾がみずから進んで忙しくしているのだということだけは、名前も何となく理解した。話を聞いている分には、いわゆるサービス残業や、勤務時間外の労働を強いられているというわけでもなさそうだ。むしろ精力的に、好きな仕事にかかわろうとしているのだろう。
となると、最初に名前が黒尾の祖母から聞いた話とは、ずいぶん事情が変わってくる。
「……でしたら黒尾さんは別に、私とお茶飲んでお話して息抜きとか、そういうことをする必要はないってことですよね?」
名前が首を傾げると、黒尾もまたきょとんとした顔をした。
「ん? まあ、そうだな。わざわざ息抜きの時間を予定として作るほどではないな」
「じゃあ、このお茶して話をするという会合は、今回限りで打ち切りということでいいですか?」
黒尾も名前も、もとより望んでこの場を設けたわけではない。頼まれ、流され、こうして向かい合っているだけだ。名前から黒尾への印象はけして悪くなく、黒尾さえよければ、今日のようにお茶を飲みながら話をするくらい構わないかと思い始めていた。だが、だからといって必要もないのにお茶に誘うほどではない。
しかし意外にも、名前の言葉に黒尾は異を唱えた。
「その話なんだけど、俺としては第二回もぜひ開催してほしい。もちろん、苗字さんさえ良ければ、だけど。だめ?」
その成人男性にしてはいささか可愛すぎる物言いに、いささか戸惑いつつ、名前はじっと黒尾を見据えた。
腹の底が読めない。黒尾にとっての利点も、これといって思いつかない。名前は慎重に、黒尾の言葉の理由を探った。
「それは……ええと、理由をお聞きしてもいいですか?」
「俺が可愛い女の子とお茶したいからです」
「……」
「いや、褒めてんのにその顔はどうなの」
褒められるのは嬉しいが、あからさまにお世辞と分かっている言葉に喜ぶほど、名前は親切ではない。そのまま無言で黒尾を見つめていると、黒尾はカップにわずかに残っていたコーヒーを飲み干してから、観念したかのように眉を下げた。
「苗字さんの話をさ、俺にしたときのばあちゃんが、まあ嬉しそうだったから。実際俺はあちこち顔出してて、休みだからってじいさんばあさん孝行してるわけでもないしな。ばあちゃんの気に入ってる苗字さんとこうやってお茶飲んで、それでばあちゃんが喜んでくれるなら、俺としてはありがたいなと思うんだけど」
名前から視線を逸らし、黒尾はそっぽを向いている。向いた先には壁があるだけで、特に面白いものがあるわけでもない。
その横顔を眺めているうちに、ふと黒尾の耳の付け根のあたりが妙に赤くなっていることに、名前は気付く。ああ、なるほど照れ隠しかと、名前はこっそりと微笑んだ。照れることなどないと思うが、年下の女子に祖父母孝行の話をするのは、成人男性にとっては多少気恥ずかしいことなのかもしれない。
黒尾のその姿に、名前も心を決めた。
「私も、黒尾さん……おばあ様にはお世話になっているので、こんなことでよければ、というか私でよければ、いつでもお茶くらい付き合います」
名前が言うと、黒尾がそっぽを向いていた顔を名前の方に戻した。にこりと含みありげな笑みを浮かべると、黒尾はおもむろに名前に向けて手を差し出した。シャツから伸びた腕はしなやかで無骨。その腕が、名前のいらえを求めていた。
名前もまた、テーブルの上に手を差し出した。簡単な握手をかわし、掌はすぐにほどけた。
「ありがとうな。それじゃあまあ、茶飲み友達ってことでどうぞよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「あ、あと茶飲み友達なんだからもっと砕けた話し方でいいよ。俺もさっきから普通にため口で喋ってるし」
軽い調子で、黒尾が言う。
「でも、黒尾さんって年上ですよね」
「年上っつってもひとつしか違わないだろ。部活じゃあるまいし、一緒にコーヒー飲んで喋るだけの関係に、年上とか年下とか逆に煩わしくない?」
たしかに黒尾の言い分にも一理あった。逡巡のすえ、名前は頷いた。
「じゃあ、あの。多少は改めますけど、いきなりため口はきついので」
「真面目か」
「お言葉ですけど、私がちゃらく見えますか?」
「見えない。全然見えない」
わざとらしく繰り返して、黒尾はくしゃりと笑って見せた。笑うと優しくゆるむ目元は、彼の祖母によく似ていた。