028

 胸が塞ぐような心地になって、名前はつと視線を逸らす。眉根を寄せそうになるのをすんでのところで堪え、かわりに口許に薄く笑顔を刷いてみせた。陽光のあたたかさとうらはらに、胸に広がるもやは冷たい。
「何か、とは」
 敏い黒尾に何一つ悟られぬよう、返答はできるだけ短く切り取った。黒尾の視線が、ちくちくと肌に刺さるのを感じる。黒尾は、んーと間延びした、気の抜けた声を喉の奥から出した。
「いや、苗字さんに何もないなら別にいいんだけど」
「……何かありげに見えましたか?」
「ちょっとなんか、しおれてんのかなって」
「萎れてはいないと思いますが」
「あ、そう? じゃあ俺の思い違いか」
 黒尾はあっさりと納得して、話をさっさと引き上げた。その潔さに、名前の方がぽかんとしてしまった。
 何も見抜かれないようにと身構えたのに、こんなふうに肩透かしをくらっては、緊張の持っていき場がない。ここで突き放すというのは、どちらかといえば意地の悪いやり方な気がする。
 先程はどうにか堪えた眉間の皺を、ついついはっきり刻んでしまった。むっと黒尾に視線を向けると、黒尾は何やらにやにやと面白がるように名前を眺めている。その瞬間、自分が黒尾にまんまと嵌められたのだと気付き、名前は愕然とした。うまく躱そうとしていたはずなのに、気付けば自分から手のうちを見せそうになっている。
「どうした? 苗字さんったら顔がおもしろいくらい百面相」
「おもしろくないですよ……」
「まあ、萎れてるよりはそっちのがいいけどな」
 さらりと話題を軌道修正され、名前は口をつぐんだ。
 結局、どれだけうまく躱そうとしてみたところで、黒尾にはうまく口を開かされてしまう。名前が本当に話したくないことはそっとしておいてくれるのだろうが、大学に友人がいないことを話すよう誘導されたとき然り、黒尾はそうした微妙な差異の嗅ぎわけが尋常でなくうまいのだ。
 本心ではきっと、名前は黒尾にすべてを打ち明けてしまいたいと思っているのだろう。自分すらはっきりと知覚していなかった思いに気付かされたことが悔しくもあり、何処か気持ちよくもある。
 名前は陽にまみれるネコに視線を向けると、「萎れてはいないんですけど」と枕詞を置いてから切り出した。
「その、ちょっとどうしたものかなと思っていることが、ありまして」
「一応聞くけど、俺が聞いていいやつ?」
 口を割るよう名前を誘導したわりに、黒尾は器用に気遣いも見せてくる。その律儀さに苦笑して、名前は「たぶん」と答えた。
「でも、もし黒尾さんが聞きたくないと思ったら、話の途中でも言ってください。そこで話すのはやめにするので」
「なるほど、了解」
 その短い確認だけで、黒尾は何か察したようだった。頷く黒尾を横目に見て、名前は続けた。
「萎れていたかと言われると微妙なんですが……、まあ、やきもちをですね、あのー、はい。妬いたんですけど」
「ちょっと待った。何だい、その語り口は」
 さっそく黒尾の茶々が入った。だがこれは名前も想定していたことだ。
「や、ちょっと普通のテンションでこんな話したくないんで、今日はこれで行かせてもらうんですけど」
「了解したんですけど」
 話題が話題だけに、気恥ずかしさが怒涛の勢いで胸にせり上がってくる。普通に話しているのでは、まともな精神でいられそうになかった。口調で茶化しでもしないと、悶え転がって縁側から転がり落ちたくなってくる。
 それでも、語り口を軽くし誤魔化したことで、いくらか気恥ずかしさは軽減した。言うべきことと伏せるべきことをり分けながら、名前は躊躇いがちに黒尾に語って聞かせた。
「私と黒尾さんって、茶飲み友達じゃないですか」
 視線をネコに向けたまま、名前はぽつりと言葉をこぼす。くつろぎすぎだと笑われ一度正した脚は、今また縁側から放り出し、昼下がりの陽にぬるめられた空気をかきまわすように、ぶらぶらと頼りなく揺れている。
「まあ、そうだな」
 黒尾が話を遮らない程度の相槌を打った。
 茶飲み友達。ほかの誰かに自分たちの関係を説明するときには使わないその言葉を、思えば名前も黒尾もずいぶんと便利に使ってきたものだった。ただの『友達』という言葉にはない、ふたりだけの間に通じる何かをひそませて、名前は黒尾の『茶飲み友達』でいたし、黒尾にも少なからずそういうところがあったのではないかと、名前は内心推察している。
 だが、茶飲み友達はあくまでも友達の枠内に存在する関係だ。それ以上でも以下でもない。そして名前にとって友達とは、何ら相手を束縛することのない、自由で気ままで、約束や契約のようなわずらわしさのない関係を指す言葉だった。
「普通茶飲み友達って、相手が素敵な女性と親しげであっても、妬かないじゃないですか。ていうか、そんな妬く意味がわからないというか、そういう権利がないというか」
 友達に自分より親しい友達がいるなんてことは、ごくごくありきたりな、ありふれたことに違いない。名前だって、今までの人生で一番親しくしている友人が黒尾というわけではなかった。今たまたま黒尾が名前のそばにいて、行き掛かり上親しくしているに過ぎない。
 それなのに、名前は妬心としんを胸に抱いてしまった。なおかつ、もっとも黒尾に近いはずの研磨ではなく、名前にとって同性で同い年の相手にだけ燃やした。黒く焦げ付き消えなくなるくらい、強烈に嫉妬した。胸のすすけは今も消えない。
 それが正しくないことは、名前にだって分かっている。
「茶飲み友達が妬くのって、正しくないじゃないですか。それって、正当な振る舞いではないじゃないですか」
 話をしていくうちに、どんどん心が重くなっていくのが分かった。
 てっきり話せば楽になるかと思ったが、名前の胸のつかえは取れるわけでもなく、ただただ苦しさを増していくだけだ。自分の嫌な部分を人前に曝け出すことは、楽になるためのみそぎなどではないことを思い知る。
 黒尾は黙って考え込んでいた。おそるおそる名前が黒尾の表情をうかがうが、眉間に皺は寄っておらず瞳に険もない。口許を手で覆っているため表情のすべてをつぶさに観察できたわけではなかったが、少なくとも黒尾が名前に対して戸惑いや嫌悪をあらわにしているということはなさそうだ。それだけでも、名前は少しほっとした。
 束の間の沈黙ののち、
「一個聞きたいんだけど、妬いた相手ってこの間会った俺の後輩?」
 黒尾が名前にただした。声音もやはり普段と変わらず、名前は安心して頷いた。
「前に会ったときに、仲がいいんだなと思って。会話がこう、気安い感じだったじゃないですか」
「気安いというか、まあ、あいつは誰にでもあんな感じだけどな」
「彼女もそうですし、黒尾さんもでしたよ」
 冷静に反論したつもりが、やけに拗ねた物言いになってしまった。すぐに「すみません、言い方が変でした」と名前は謝る。黒尾と後輩の女子が親密な関係にあるわけではないことは知ってる。それなのに妬いているだけでなく、そのうえさらに責めるようなことまで言いたいわけではなかった。
 言いたいだけ言ったら、むしょうに恥ずかしくなってきた。名前は両手で顔を覆うと、ううともああともつかない呻きを発した。顔を覆っているせいで、黒尾が面白いものを見るように自分のことを眺めていたなど、名前はまるで知る由もない。
 ともあれ。気恥ずかしさと罪悪感、自己嫌悪と胸のもやつきに打ちひしがれる名前に、黒尾は「そうだなぁ」とやんわり切り出した。
「苗字さんの極まった百面相を見てるのも、それはそれで面白いんだけどな。それはともかくとして……そもそも、妬くのに正しいとかある?」
 黒尾の問いかけに、名前は両手で覆っていた顔をはっと上げた。
「関係性に依らず、すべての焼きもち、嫉妬、悋気りんきは等しく正しいものではない……?」
「壮大な話になってない? そういう意味じゃないんで、ちょっと落ち着け」
 せっかく真理に達したような気がしていたのに違う一蹴されてしまい、名前はまたぞろ顔を赤らめた。「愉快だなぁ」と他人事のように言った黒尾は、名前のぶすりとした視線を受けて大きく一つ咳払いをした。
「いや、そりゃあね、茶飲み友達にいきなりあの女とはもう会わないで! 連絡先も消して! とか言われたら、さすがにちょっとびびるかもしんないけども。そういう話ではないんだよな?」
 もちろんだと、名前は食い気味に頷いた。黒尾は思案するように顎を撫で摩る。
「じゃあ別にいいんでないの。つーか俺だって、結構仲いいと思ってた友達に、自分より仲いいやつとかいたら普通に気になるしな」
「……そういうものですか?」
 疑わしげに名前が見ると、黒尾は小首をかしげて笑った。
「苗字さんは今まで違った?」
「ど、どうだろう……。秀くんの彼女や友達に嫉妬とかしたことないので……」
「いとこくん以外で考えたら?」
 そう言われ、名前は記憶の底を浚った。高校時代までは友人にも恵まれていたが、人付き合いで思い悩んだ経験に心当たりはなかった。さらに記憶を遡り、幼少期のことを思い出してみると、そういえばそんなこともあったような気がする。なにぶん幼いころのことなので確かな記憶ではなかったが、薄ぼんやりとした感情だけが記憶の縁に引っかかっていた。
「小さい頃は、そういうのもあったかもしれないです」
 名前が言うと、黒尾は得意満面で「な?」と口角を上げた。
「だからまあ、そういうこともあるだろ」
「なる、ほど……」
 よく分からないままに丸め込まれ、名前はひとまず首肯した。名前の抱えていた妬心は、黒尾によっていとも容易く肯定されてしまったらしい。黒尾が構わないというのであれば、もはや誰に対して罪悪感を感じる必要もない。黒尾の後輩に対してだけは、まだ申し訳なさを感じているものの、そもそも彼女と顔を合わせる機会など、今後二度とあるかどうか分からない。
「あ、本当にネコいるんですね」
 がらがらと背後の窓が音を立てて開き、赤葦と研磨が縁側に顔を出す。ネコは構わず寝転び続けており、赤葦がそちらを眺めて口許にゆるい弧を描く。
「仕事の話、終わった?」
「まあ、仕事といっても俺が何かするわけではないので」
 あぐらをかいた黒尾の問いに、赤葦が答える。さすがに全員が縁側に出てくると手狭で、名前はスマホだけを手に腰を上げた。
「すみません、お手洗いをお借りしてもいいですか」
「出て右側の二番目のドアだよ」
「ありがとうございます」
 赤葦と研磨と入れ違いに、名前は部屋の中に戻った。

 陽だまりを離れた廊下はしんと底冷えするようで、名前は足早に手洗いに向かう。歩いているうちに、やけに頬が火照り、胸がどきどきと脈打ち始める。先程の黒尾の言葉を、胸のうちで何度も反芻した。
 嫉妬することも、羨ましく思うことも、咎められたり嫌がられたりしなかった。それどころか、正しくないなんてことはないのだと、あっさり受け容れられすらした。黒尾のふところの広さは、名前の予想を軽々と超えていく。
 胸のもやは呆気なく散らされて、今は正体の掴めないふわふわとした気分が、身体の内側のうろの中を取って代わって満たしていた。
 それは友達に対して感じる気安さや親しみやすさではない。友達に抱く気持ちよりは、もう少し浮ついていて、なおかつ今にもプラスがマイナスに反転しそうな不安定な心持ち。何かこころよいガスのようなものが体内に充満し、今にも脳にまでしみこんでしまいそうな。
 そう、それはまるで――
 そこで名前はふと、廊下を歩く足を止めた。
「……やっぱり、そうなのかな」
 ぱちぱちと感情が弾ける胸に手を当てて、名前はひとつ大きく深呼吸する。自分の感情を冷静に見つめなおし、そしてそれが早合点や勘違いではないことを確認する。
 これまでも何度か考えなかったわけではない。黒尾の優しさはいつでも思わせぶりなくらいのものだったし、名前はその優しさに幾度も救われてきた。
 たとえ黒尾にとっては年下の女子に対する通常の対応だったとしても、名前にとって黒尾の優しさは、本来ならば与えられて当然と思えるような代物ではなかった。
 分不相応な優しさ。劇薬にも似たそれを、黒尾は無防備なくらい簡単に、名前に差し出し続けている。名前もいつしか、その劇薬を与えられることに慣らされてしまった。
 だがいくら慣らされようと、劇薬は劇薬なのだ。継続して与えられ続ければ、名前から黒尾への思いが変転するのは時間の問題だった。そもそも黒尾のような魅力的な異性に対し、好意を抱かないでいることの方が難しい。
 むしろ自覚しないようにという意識だけで、これまで気付かぬふりをできていたことの方が奇跡なのだろう。もちろんそこには、黒尾が繰り返し『茶飲み友達』という名前を名前との関係の上に糊塗ことすることで、名前に黒尾を意識させないよう気を配り続けていたという地道な努力がある。それもすべて水泡に帰したのだが。
「うーん、そうか。なるほどなるほど」
 小声でぼやくように呟き、名前は手洗いの扉に手を掛けた。もはや意識してしまったのだから、名前には否も応もない。粛々と己の気持ちを認める以外に、名前にできることも、すべきこともなかった。
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