027

 吹く風に冬の気配が濃厚に混ざり始めた、とある日。名前は昼過ぎに黒尾と駅で待ち合わせ、共に研磨の家に向かっていた。
 以前黒尾が研磨の家に行けば猫と触れ合えるなどと話していたことを、名前はその場限りの話だろうと軽く流していたのだが、黒尾はいたって本気だったらしい。名前の休日と自分の休日、研磨のオフが重なる日を探し出し、名前に声を掛けてきたのだった。
 駅で電車をおりると、そこから先はしばらく徒歩での移動が続く。研磨の家は喧噪と切り離されている、といえば聞こえはいいが、悪く言えば駅から離れた多少不便なところにある。
 駅からタクシーを使うという案もあったが、名前がその提案を断った。せっかくはじめて来た土地なのだから、まずは自分の足で歩いてみたかった。黒尾によれば徒歩でも無理のない距離だという。
「孤爪くんのお宅っていうので、もっと物凄い都会の高層マンションかと思っていたんですが、なんだか静かでいいところですね」
 歩きながら周囲に視線を巡らせる名前に、黒尾は心持ち意地悪く笑う。
「そりゃあ大都会の高層マンションでは地域ネコとのたわむれは無理だろ」
「たしかに」
 黒尾の案内する街並みは、閑静な高級住宅街といったおもむきだった。比較的年季の入っていそうな日本家屋が多いが、どこの家も立派な門構えをしており、そこには監視カメラと、セキュリティ会社のステッカーが貼られている。古い建物が多いのに古臭い感じがしないのは、どこの家も外壁や生け垣などの手入れに手を掛けていることがうかがえるからだ。
「苗字さん、疲れてない? 大丈夫?」
 いつもより少しだけ歩くペースを落としている黒尾が、ときおり気遣うように名前の顔を覗き込んだ。季節は晩秋だが、今日はすっきりとした晴天が広がっている。歩き続けていると汗ばむくらいの気温は、街を歩くのにちょうどいいくらいだった。
「大丈夫ですよ。今日は足元、スニーカーですし」
「そう? それならいいんだけど」
 あっさりと納得した黒尾の横顔を、名前はちらりと盗み見る。疲れてはいないし、まだまだ歩き続けられるくらいには元気だ。食事も睡眠もしっかりとってきたから、むしろ身体的には絶好調といってもいい。
 だがここのところ、黒尾と一緒にいると、名前の胸の中にある黒いしみが知らぬ間に広がり、胸を覆いつくしそうになっていることがある。そのことが気掛かりで、気を抜くと表情が暗くなりがちだった。
 もちろん名前も気を引き締めてはいるのだが、黒尾がやけに名前の体調を気遣うのは、きっと名前が発する何かしらのサインに気が付いているからに違いない。これほど個人的なことで黒尾に気を遣わせるなど、まったく名前の本意ではないのだが、黒尾の敏さにはかなわない。

 黒尾が研磨の実家で預かってきたという差し入れと、手土産のせんべいの入った紙袋を手に、歩き続けること三十分ほど。やがてふたりが到着したのは、木造平屋の一軒家だった。住宅街を抜けたためか、辺りにはいらかを争う家もない。敷地の周囲を取り囲む竹垣の向こうには、鬱蒼とした雑木林が続いていた。
 古い建物に見えるが、外壁のモルタルは明るい白色で、ひび割れてもいない。「引っ越す前にひと通りリフォームしてるから、建物自体は古いけど隙間風とかも入らないんだと」と、黒尾が説明してくれた。
 左手に縁側を見ながら、黒尾はインターホンも押さずにいきなり玄関の引き戸に手を掛ける。ガラガラと音を立てて戸を開けた直後、家の奥から人の話し声が聞こえた。
「ん? 来客ありとは言ってなかったけどなぁ……」
 三和土たたきには研磨が普段はいているのか、くたびれたスニーカーと便所サンダルが置かれている。そのわきに、明らかに男性ものの大きな革靴が一足揃えられていた。黒尾が上がりかまちを上がり、家の奥をのぞくように首を伸ばす。名前も黒尾に続いて家の中に上がった。
「黒尾さん、もしも来客中なら私たち、どこか別の場所で待っていた方がいいんではないでしょうか」
「まあ、そうなんだけど……この声、聞き覚えがあるんだよな……」
 ずんずんと廊下を進んでいく黒尾は、声の主に心当たりがあるようだった。研磨と黒尾は幼馴染だから、知り合いもかなり重なっている。来客が黒尾にとっても顔見知りならば、遠慮せず顔を出すつもりなのだろう。
 勝手知ったる我が家というような顔で進んだ黒尾は、いくつかの戸を通り過ぎ、やがて一番奥の部屋の引き戸に手を掛けた。そして寸分の迷いもなくそこを開け放つと、
「やっぱり。なんでお前ここにいんの、赤葦」
 と、呆れているような、それでいて面白がっているような、何とも複雑な声を発した。
 黒尾の背中ごしに名前が室内をのぞく。広々とした和室の中央には大きなこたつが置かれ、そこに足を突っ込むふたりの男性の姿が目に入った。
 ひとりはこの家の主の研磨。そしてもう一人は、太い黒髪を真ん中で無造作にわけ、飾り気のない太縁のめがねを掛けた男性だった。
 黒尾に赤葦と呼ばれたその男性は、黒尾の登場に驚く様子もない。
「ちょっと野暮用です」
 と、こたつから出て答えた。
「ご無沙汰してます、黒尾さん。いつぶりでしたっけ」
「おまえの夏休みぶりだろ。合宿に差し入れいった」
「たしかに。すみません、あんまりご無沙汰でもなかったです」
「ご無沙汰はいいんだって。それより、なんでお前がここにいんのか聞いてんの。いつのまに研磨とそんな仲良くなったんだよ」
 慇懃な物腰に反して発言はあくまでマイペースな赤葦に、黒尾は重ねて問いかける。こたつから出ようともしない研磨が、
「就職先の出版社にいる知り合いに、おれとの顔つなぎ頼まれてるんだって」
 と横から口を挟んだ。それから研磨は名前に視線を向け、座ったままでぺこりと浅く礼をする。名前も研磨に挨拶がわりに頭を下げた。
 そんな名前と研磨の無言の遣り取りをちらりと見て、黒尾はまた目の前の赤葦に視線を戻す。
「入社前からそんなこと頼まれんの?」
「まあ、内定者であることを利用した、個人的な頼みですよね……」
「赤葦も社会の歯車になろうとしているんだなぁ」
「こういう役回りは慣れているのでいいんですが」
 赤葦はそこで、視線を黒尾の後ろから顔をのぞかせる名前に向けた。一見眠たげに見えるが、よくよく見ると切れ長の鋭い目つきの赤葦に、名前はわずかにたじろいだ。
 赤葦と名前が視線を交錯させていることに気付いた黒尾が、身体をそっと半身にずらす。遮るものがなくなったことで名前と赤葦が正面から向き合った。黒尾と矢巾を見慣れている名前は、ことさら長身の男性に驚くこともない。赤葦の方が黒尾よりやや細身なのか、向かい合った時の圧迫感はそれほど感じなかった。
「苗字さん、こちら赤葦。高校時代からの知り合いで、今はまあ、……なんだ? 友達?」
「友達と言われると変な感じですね……」
 黒尾の雑な紹介にも、赤葦は生真面目な顔で対応する。そして赤葦は名前に視線を戻すと、丁寧な礼で頭を下げた。慌てて名前も頭を下げる。
「はじめまして、赤葦です」
「はじめまして、苗字です」
「苗字さんは俺と研磨の友達。大学四年生」
「じゃあ俺と同じ学年ですね」
 赤葦の穏やかな物腰に、名前も微笑みで返した。黒尾の知り合いというと、名前は今のところ研磨と例の後輩の女子としか面識がない。研磨のようなタイプは特例で、大抵の友人は後輩の女子と同じようなタイプだと聞いていただけに、落ち着いた雰囲気を醸し出す赤葦のたたずまいに名前はひそかに安堵した。
 初対面同士の自己紹介が済んだところで、黒尾が未だこたつから出ようともしない研磨にじろりと視線を向けた。
「つーか研磨、赤葦いんなら先に教えろよ」
「赤葦ならクロとも面識あるし、鉢合わせしても別にいいかなと思って」
「俺はいいけど、苗字さんがびっくりするでしょうが」
「あ、いえ。大丈夫です」
 唐突に名前を出され、急いで言葉を挟む。もちろん見知らぬ人物がいたことに面食らいはしたが、さいわい赤葦は初対面の相手を威圧したり、困惑させるようなタイプではない。むしろ赤葦は仕事の話で来ているのだから、遊びに来た名前の方が恐縮するくらいだ。
「黒尾さんと苗字さんは、今日はどういう用件で?」
「研磨んちの庭に来るネコ見に来た。最近毎日来るんだよな?」
 黒尾が尋ねると、研磨はうなずいた。
「今日もいると思うよ。おれはもう少し赤葦と話があるから、ふたりで好きにしていって」
「あ、はい。了解です」
「別に研磨んちのネコってわけでもねえからな」
 そう言うと、黒尾は部屋を突っ切ってガラス窓へと寄った。その先にぬれ縁が張り出していることは、先ほど玄関から入ってくるときに確認している。
「おお、いるいる。どうする? 見るだけなら縁側でよさそうだけど」
「じゃあ、そこで」
「俺、お茶いれてくるから苗字さん先に出てて。研磨、来客用の湯呑出すからな。あと手土産に持ってきたせんべいも出すぞ」
 てきぱきと仕切る黒尾を見遣り、名前も部屋を横断して縁側に移動した。お茶の準備などはこの家の勝手が分かっている黒尾に任せた方がいいだろう。
 窓の取っ手に手を掛けた名前は、ふと背後を振り返った。研磨は黒尾を手伝いに台所に立ってしまい、室内にぽつんと残っていた赤葦と目が合う。名前が浅くお辞儀をすると、赤葦も真面目な顔つきのまま、お辞儀を返してきた。その律儀さが妙に面白く、名前は頬をゆるめて縁側に出た。

 作庭どころか鉢植えひとつ置かない庭は、当然ながらひどく殺風景だった。ぬれ縁の前には畳石が敷かれているが、その隙間からは背丈の低い雑草が顔を出している。いかにも手入れを面倒がっている庭といった風情だ。
 それでも荒れ放題というわけではないところから、研磨なりに最低限の庭の整備はしているのだろうことが窺える。
 南向きの縁側には暮秋のやわらかな光が降り注いでる。ネコが二匹、玄関の前の畳石の上で日向ぼっこをしていた。あまり不用意に近寄ってはネコが逃げてしまうかもしれない。名前はネコから距離をとって縁側に腰をおろし、ぼんやりとそのふわふわとした毛玉ぶりを眺めた。
「人んちだってのに、ずいぶんなくつろぎ様」
 笑い声が頭上から降ってきて、名前は首をそらして上を見る。菓子盆と湯呑ののった盆を持った黒尾が、にやりと笑って名前を見下ろしていた。
「私ですか?」
「いや? ネコの話」
 そういうわりに、黒尾の視線はまっすぐ名前を向いている。たしかにくつろぎ過ぎていただろうかと、名前はぬれ縁からぶらりと投げ出していた足を上げ、居住まいを正した。「いや、冗談だし楽にして」と黒尾がまた笑った。
 黒尾は名前から少し離れたところにあぐらをかくと、ふたりのちょうど真ん中に盆を置いた。
 昼寝中のネコの一匹が大きく伸びをした。家の外壁に寄り添うわけでもなく、地面にぽとりと落っこちているように寝こけるネコを見ていると、心がまるくなっていくようだった。
 黒尾がかすかに笑った息の音が聞こえる。吹きつける風は冷たいが、手足を縮こめたくなるほどの厳しさではない。「起きないかねぇ」と黒尾が笑う。「起きなさそうですねぇ」と名前が答える。ぴたりと閉じた窓があるから、部屋のなかの声は聞こえない。「起きねーんだろうなぁ」と、また黒尾が呟く。
 竹垣の向こうの雑木林が、風で大きくさざめいた。ふいに吹き抜けていった突風に、名前は目を瞑る。背後のガラス窓が、がたがたと小刻みに震えて音を立てる。
 大きなかたまりが通り過ぎるような風だった。名前は風になぶられ乱れた髪を手櫛でなおし、何の気なしに黒尾の方を向く。
 すると名前の方をじっと見つめていた黒尾と目が合ってしまい、名前は小さく息を呑んだ。頭上を雲が押されるように流れていく。
「苗字さん、最近なんかあった?」
 名前の反応にかまわず、黒尾がやおら切り出した。口許には微笑が浮かんでいたが、言葉は確信めいている。名前の胸のしみがもやとなり拡がって、ずくりと疼くように蠢動しゅんどうした。
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