026

 エレベーターで上階に上がると、名前は黒尾に玄関先で待ってもらい、大急ぎで部屋を片付けた。もともとそれほど物の多い部屋ではないから、朝出掛ける前に出しっぱなしにしていた細々したものをさっと片付ければ、一応は人を招くのに恥ずかしくない程度の状態になる。
 よくよく考えれば、この部屋に矢巾以外の男性を上げるのは、これがはじめてのことだった。矢巾にしたところで、男性という以前に彼は親族だ。矢巾が名前を女扱いしないのと同様に、名前もまた矢巾を男と数えてはいない。
 いや、でも、黒尾さんのことだって、男性という前に『茶飲み友達』として招いてるわけだから。
 余計なことを考えそうになる自分の頭と心を戒め、名前は玄関を開いた。玄関の前で手持無沙汰な様子で待っていた黒尾は、名前がドアを開けると「もういいの?」と笑った。
「お待たせしてすみません、どうぞ、上がってください」
「どうもどうも。お邪魔しまーぁす」
「大したものはありませんが……」
 黒尾の分のスリッパを出し、名前は黒尾を部屋へと通した。
 ぱたぱたとスリッパの足音を立て、黒尾が名前の後ろをついてくる。玄関から短い廊下を抜けると、メインの居室に至る。室内にはソファーもあるが、お茶をするとなると床にそのまま座った方が都合がいいだろうか。そう考え、クローゼットから矢巾くらいしか使っていない来客用の座布団を出し、黒尾にはそこに座ってもらうことにした。
「今、お茶いれますね」
「これはどうも」
 居室内のカウンターキッチンで、急いでふたり分のお茶をいれた。茶葉を蒸らしている間、座って待っている黒尾の様子を盗み見る。黒尾は遠慮がちに室内に視線を巡らせていたが、名前の視線に気が付くと、
「苗字さんの部屋って感じだな」
 と、褒めているのか貶しているのか分かりづらいコメントを口にした。
「なんですかそれ」
「真面目な女子大生が暮らしてそうな部屋って聞いて、俺なりに想像してみた部屋と大体一緒」
「凡庸でつまらない人間ですみません……」
「いやいや、きちんと整頓されてて素晴らしいってことです」
 果たしてそんな感じの言い方だっただろうか。大いに疑問の残るところではあったが、名前は深くは追及しないことにした。自分が面白みに欠けた人間だということは承知している。それに散らかっているだとか落ち着きがないだとか、そういう印象を抱かれるよりはまだましだ。
 淹れたお茶を座卓に運び、買い置きのスナック菓子とともに出した。黒尾のはす向かいになる位置に、名前も腰をおろす。自分に馴染んだものばかり置かれた自分の部屋で、黒尾がお茶を飲んでいる。今更ながら、その光景に不思議な感慨をおぼえた。
 この部屋に矢巾がいても、名前は特に違和感を覚えない。せいぜいが大きくて場所をとるなと思う程度だ。だが、黒尾がここにいることには、とてつもない違和感を感じる。そわそわして落ち着かない。
 それこそ矢巾のように、黒尾が何度もこの部屋に足を運ぶようになれば、この違和感もいつしか薄れていくのだろうか。そんなことを思い、だが同時に黒尾を何度もこの部屋に招くようなことがあるだろうかと、冷静に考えたりもする。
 黒尾もまた、何処か落ち着かない風情でお茶をすすっている。
「今更だけど、大学生の一人暮らしって考えたら、ここって相当上等なマンションだよな」
 唐突に黒尾が言った。落ち着かなさを紛らわせるためか、黒尾にしては適当な話題選びだった。
 名前の借りている部屋は一般的なワンルームだが、単純に部屋の面積そのものが広い。対面のキッチンが居室の中にあり、ベッドとソファと座卓、収納棚や本棚がわりのカラーボックスを置いてもまだ十分に余裕がある室内は、東京で大学生が一人暮らしをする部屋としては十分すぎるほどの広さだ。独立した脱衣所も備えている。
「私もいい部屋を借りられたなと思ってます。就職のときにここ出るか聞かれたんですけど、家賃とか立地とかいろいろ考えると、どう考えてもここ以上の物件なんてないじゃないですか」
「そりゃそうだ」
「部屋を貸してくれている親戚も、知ってる相手に貸してる方が安心だってことで、引き続き部屋を貸してくれることになったので、よかったなぁと思って」
「普通に借りたらそこそこするよな?」
「そうですね。ここって単身向けですけど、入居者で学生なのは私くらいじゃないかな」
「だよなぁ。いや、でもいいな、一人暮らし」
 と、話をしている黒尾の目がふと名前のすぐそばにあるカラーボックスに留まった。そこには漫画や小説のほかに、大学で使っている教科書や資料集、それにレジュメをまとめたファイルなどが収納されている。
「それ大学の? 見ていい?」
「いいですけど、あんまりきれいじゃないですよ」
 名前が身体をひねり、カラーボックスからファイルを一冊取り出した。いくつかの講義のレジュメや資料をまとめて保管してあるので、背幅の太い二穴ファイルいっぱいにプリントが詰まっている。講義ごとにまとめて見出しをつけてあるファイルを、黒尾はぺらぺらと興味深げにめくって眺めた。
「はー、こういうのちゃんと保管してんだ」
「単位と関係なく、普通に講義を聞きたくて受けてたものも多いので……。というか、これなんか恥ずかしいですね……」
「なんで?」
「なんでって」
 黒尾がじっくり、自分の書き込みを眺めているからだとは言いにくい。部屋に上げたことよりも、ともすれば自分の勉強の成果をまじまじ眺められることの方が、名前にとってはよほど恥ずかしいことだった。
 しかし名前の動揺に気付かず、黒尾はさらにレジュメの束をめくる。テレビも音楽もつけていない室内では、紙をめくり擦れる音だけがやけに大きく響く。
 黒尾さん、いつもと全然変わらないな……。
 気付けば、そんなことを考えていた。本来どこよりも落ち着く場所であるはずの自室で、黒尾がいるというただそれだけのことを理由に、名前は帰ってきてからずっと落ち着かない気持ちを味わっている。その点、黒尾は何処にいようと、一定の温度を保ち続けているように見えた。
 人を招くのに不慣れだからということばかりが、この落ち着かなさの理由ではないことくらいは名前にも分かっている。黒尾が落ち着いていて、自分が落ち着かない理由。けれど名前は、その理由を考えないようにしている。考えてはよくないものだと、そう感じている。
 ほんの一瞬、名前の脳裏に先日会った黒尾の後輩女性の顔がよぎった。軽やかで、黒尾と同じく名前の持たない、持てないものをたくさん持っていそうな女の人。名前の知らない、黒尾とその周囲を知っていて、なおかつ自分も自然にそこに存在できるひと。
 あの日胸にこごってできた黒点は、薄れることのないしみになったまま、ずっと名前の胸にあり続けている。そしてそれはふとした瞬間にも、じわじわと元のもやに戻り胸の中を覆いそうになる。
「うわっ、すげえきっちりメモとってる」
 大袈裟な黒尾の声で、唐突に現実に引き戻された。胸の黒点から意識をそらし、名前は黒尾と視線を合わせた。
「なあ、これもしかして、このファイルだけじゃなくてそっちの同じようなファイルとかも、もしかして全部大学の?」
「そうですよ。一年のときのから全部。多分とってた講義のレジュメ全部あるんじゃないかな。皆勤賞なので」
 直前まで心ここに在らずになっていたことと、誉められたことへの単純な気恥ずかしさから、ややぞんざいな返答になった。だが黒尾はようやく手元に向けていた視線を上げたかと思えば、感心しきりの顔で名前を見る。
「皆勤って、苗字さんすげえな。大学生で皆勤のやつってあんまりいなくない?」
「黒尾さんは結構サボったりしてました?」
「いや、俺はわりと真面目に出てた方だと思うけど、それでも寝坊したり、部活の集まりで出られないときはあった」
 大学生の頃の黒尾の様子は、名前にも何となく想像できるような気がした。黒尾は名前と違い要領がいいから、きっとうまく休んだりさぼったりもしていたことだろう。
 だが、黒尾に限って払ってもらった学費を無駄にするタイプとは思えない。黒尾は名前を真面目だ、すごいと誉めそやすが、黒尾もおそらくはかなり真面目な大学生だったのではないか。名前はぼんやりと、そんなふうに推測する。
「いくら苗字さんがサークルとか部活とかやってないって言っても、これはすごいな」
 なおも言葉を重ねる黒尾に、名前は先ほどまでとは別の気恥ずかしさを感じ、顔を熱くした。友達が極端に少なく、また普段は淡々と日常を営む名前は、こうして手放しに褒められることに慣れていない。
 そもそも大学生が大学に真面目に通い、真面目に講義を受けるなんてことは、本来褒められるほどのことでもない。実家を出てまで進学したのだから、名前としては当然すべきことをしているに過ぎなかった。
 恥ずかしさと居心地悪さが綯い交ぜになり、名前は曖昧に微笑んだ。
「いや、あの……まあ、そうですね。友達がいたら代筆とか頼むんでしょうけど、私、友達がいないので……」
「そんな理由かい」
 黒尾が口許をゆがめて笑う。見慣れたその表情に、名前は少しだけほっとして、いつもの調子を取り戻した。
「それが全部ではないですが、もちろんそれもありますよ」
「代筆、してもらえるならしてもらった?」
「うーん、どうでしょう。ただ、レジュメの貸し借りとかは出来た方が楽だったかもしれないとは思いますね」
 黒尾が訝しげに首を傾ける。ほら、と名前は続けた。
「講義を休んじゃったら、誰かにレジュメをコピーさせてもらわなきゃいけないでしょう。それに、聞き逃してしまったかもしれない大事な情報とか、そういうのをわざわざ人に聞いたりするのも、迷惑かなって。自分の不手際で人に迷惑かけるのは、やっぱり嫌じゃないですか」
 あくまで淡々と、名前は黒尾に説明した。もしも親しい友達がいたのなら、何かあった時に助け合えばいい。だが名前にはそういう相手がいないから、何かあっても自分で対処するしかない。
 もっとも確実なのは、講義を休まないことだ。そうすればレジュメや資料をもらいっぱぐれることもない。試験や講義について、大事な情報を聞き逃すこともない。
 誰かに教えてもらわなければならないような、そんな自体には陥らない――誰にも迷惑をかけずに済む。自分がしっかりしてさえいれば。
 名前の話を聞きながら、黒尾は黙って、手にしたままのファイルに視線を落とした。
 整然と並んだ皺のないプリントは、名前が誰にも迷惑をかけまいと大学に通った日々の証だ。きっちりと書き込まれた手書きの文字は、誰を頼らずとも試験や成績で困ることのないよう努力した証拠。
 名前の四年間の、自分だけですべてをこなしてきた記録。
 黒尾の視線が、また名前へと戻された。ほんの一瞬、黒尾が座った姿勢から腰を浮かそうとする。だが、両手でファイルを支えていたことで、うまく立ち上がれなかったようだった。ふたたび座布団に座りなおし、しばし口をつぐんだのち、黒尾は言った。
「多分だけど、苗字さんは友達がいるとかいないとか関係なく、できるだけ皆勤賞だっただろうし、真面目に講義受けてたんじゃないのかなーとね、俺は思うよ」
 唐突に投げられた言葉は、名前の耳には根拠も何もないふわふわとした励ましに聞こえた。もしかして、友達がいない自虐ネタがすべったのだろうか。遅ればせながらそのことに気付き、名前はひやっとした。
 しかし名前をひたと見据えた黒尾の目はいたって真剣で、言葉に欺瞞や取ってつけたような胡散臭さは感じない。あるいは励まそうとする気負いすら、黒尾からは微塵も感じ取れなかった。
 つまるところ、「俺は思う」という黒尾の言葉の通りのことでしかない。それはただの感想、思考であって、それ以上でも以下でもない。そもそもが仮定の話だから、何かの役に立つわけでもない。ただ、黒尾が思ったというだけのこと。黒尾が、名前を真面目だと思った。それだけのことだ。良い悪いという言葉すらない。
 それでも、名前にとっては何にも代えがたい言葉だった。黒尾に真面目だと、そう思ってもらえることは名前にとって価値のある、心強い励ましだ。それだけでも、四年間頑張ってきてよかったと思えるほどには、黒尾の気負わない言葉が嬉しかった。
「……私も、そうだといいなとは思います」
「うん。だから苗字さんは大丈夫」
「大丈夫とは」
「大丈夫なもんは大丈夫」
 何の根拠も責任もない台詞に、名前はふっと顔を綻ばせた。直後、一瞬ぽかんとした黒尾が口許を手で覆い、言葉ともつかない呻き声を上げる。
「何度でも言うけど、本当に苗字さんは女子大に進学して正解だったよ」
 黒尾がそんな脈絡のない呟きをこぼす。その呟きに、名前は今日、まだ黒尾に防犯対策に注力した話をしてないことを、やっと思い出したのだった。
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