025

 しばらく歩き、やがて角を曲がったところで、黒尾がさりげなく背後を確認した。往来には黒尾と名前の姿しかなく、誰かが後ろをついてきている気配もない。名前も黒尾と話しながら背後を気にしていたが、自分たち意外の気配や足音はまったく感じとれなかった。
 ほっと息を吐き出す。黒尾の登場によって安心こそしていたが、それでもまだ首から肩のあたりにかけて、名前の身体には緊張が固く残っているようだった。
「黒尾さん、ありがとうございました……」
 改めて礼を口にする。声はもう揺れていない。
「あれで合ってた? 苗字さんから返信あったとき、今駅出たところって言ってたから、追いつくかなと思って急いできたら、なんか緊迫感あってびびったわ。とりあえずあの場から離れた方がいいかと思って、俺が苗字さんについていく用事でっちあげたんだけど」
「ありがたかったです、本当に」
 もちろん名前は傘など黒尾から借りていない。あれは黒尾が咄嗟に機転を利かせただけだった。ああ言えば、黒尾が名前の家までついてくる口実ができる。そうなれば茂部が引き下がるだろうことも、黒尾には薄々予測がついていたのだろう。
 いきなりの状況で、即座にそこまで予測し行動した黒尾の対応力を、名前は改めて目の当たりにしたような気分になった。名前ひとりでは、あの場をうまく切り抜けられた自信がない。
 一歳しか齢は違わないはずなのに、黒尾は名前が持っていないものをたくさん持っている。自分ももっとしっかりしなければと、名前は決意を新たにする。
 と、そんな名前を無言で眺めていた黒尾が、
「さっきの人となんかあった?」
 やや気遣うように、遠慮がちに切り込んだ。
「え?」
「苗字さんさっきから、というか今もまだ顔が固まってるから。なんかあったかなと思ったんだけど」
 黒尾がじっと名前を見つめる。その目に吸い込まれるように、名前は黒尾を見つめ返した。
 白目がちにもかかわらず、黒尾の目は底知れなさや不安さといったものを、一切名前に与えない。そして今、そこに労わりの色がかれていることに気付き、名前は自分でも驚くほど安堵した。
 問いかけられてはいるものの、けして追及されているわけではない。名前が話したくないなら話さなくてもいいと、答えないことを許すだけの度量を備えていると、そう示すような瞳だった。
 名前は一度黒尾から視線を逸らす。くちびるを噛んで息を吐ききると、それからゆっくり静かに切り出した。
「ああ、ええと……茂部さんと駅で会ったので一緒にさっきのところまで帰ってきて……、それで、送っていくって言ってもらったんですけど、大丈夫だってお返事をしてもなかなか……」
 名前の言葉に、黒尾がわずかに眉の間を曇らせる。もしかしたら、いつも名前を送っている黒尾への当てこすりのようにも聞こえるかもしれない。そう思い、名前は慌てて「黒尾さんに送ってもらうときには、全然嫌だとか思わないんですけど」と付け加えた。
「それって、あの人には送ってもらいたくないと思ったってこと?」
「……私、人の厚意に対して、あまりにも感謝がなさすぎますよね」
「いや、別にいいんじゃねえの。要らない厚意の押し付けは普通に迷惑だろ」
 意外にも黒尾がばっさりと切り捨てたので、名前は瞬目した。黒尾ならば、もらえるものは有難く受け取っておけばだとか、そういうようなことを言うのだろうとばかり思っていた。
 思いがけず肯定され、名前は少し心強くなる。すると今度は、先ほどの茂部の普段とは違う様相が気になり、なんとも暗い気分になった。
「それにしても、ちょっと……なんというか、びっくりしました。茂部さんって、普段はすごくおだやかで優しい人なので」
「優しいねぇ」
 黒尾はあくまで懐疑的だ。露骨に不服そうなその返事に、名前は苦笑した。
「本当に優しいんですよ。黒尾さんと一緒で、年下の女子への親切な対応をしてくれるといいますか」
「あの人と一緒にされると、ちょっとさすがに複雑だな」
 そうぼやくと、黒尾は束の間思案するように黙り込み、おもむろに真面目な声音で名前の名を呼んだ。
「苗字さんさ、さっきの人の送っていきますとかもあれ多分、優しくされてるのとは違うぞ。ああいうのは、親切じゃなくて下心」
「……茂部さんいい人ですよ?」
「いい人だから下心がないってこともないだろ」
 そういうものだろうか。名前は首を傾げる。だがたしかにそう考えれば、腑に落ちることが多々あるのも事実だった。
 黒尾からの厚意や親切は素直に受け容れられるのに、茂部に同じことをされても違和感が先に立った。それが行為の根っこにあるものの違い――親切と下心の違いなのだとすると、名前にも納得がいく。他人の機微に敏いわけではなくても、望まぬ下心を嗅ぎ分けるくらいの嗅覚は、名前にだってあるということだ。
 名前が納得したのを見てとったのか、黒尾が軽く名前の肩を叩いた。
「次にああいうことされそうだったら、そのときは俺のこと呼んで」
「でも黒尾さん、忙しいじゃないですか。呼んだところで……」
「おい。まあたしかに忙しいけど、ひとりで何とかしようとすんのはやめたらって話。俺がすぐに来れるわけじゃなくても、何かちょっとくらい知恵貸せるかもしんないし。何より、いざって時に頼れる相手がいるってだけで、ちょっとは心強いだろ」
 そう言って黒尾は、にやりと笑って見せた。皓皓と光る月の光を受ける黒尾の顔を見て、名前は素直に頷いた。

 茂部がついてくる気配はなかったが、結局そのままマンション下まで黒尾に送ってもらうことになった。いつもはマンションの手前まで送り届けるだけだが、黒尾は何も言わずエントランスの前までついてきた。名前の表情のこわばりが解けたとはいえ、胸の中にまだ不安の種のようなものが燻ぶっていることに、敏い黒尾は気付いているのかもしれない。
「あの、今日は本当にありがとうございました」
「はいよ」
 名前にお裾分けの入った紙袋を手渡し、黒尾が頷く。だが長居をする気はないようで、
「じゃ、気を付けて」
 と一言残すと黒尾はすぐに踵を返した。その背に、はっとする。こんな夜に仕事帰りのスーツのまま、黒尾はわざわざ名前を送り届けてくれたのだろう。離れていく黒尾の背中には、何処となく疲労のようなものが滲んでいる。
 名前の家から黒尾の家までは歩いて二十分ほど。何のお礼もせず、疲れている黒尾をそのまま夜道に放り出すのは、いくら何でも気遣いというものが足りていないのではないか。大体、茂部との一件のお礼だって十分とは言い難い。
「あっ、あの、黒尾さんっ」
 思い切って、名前は黒尾を呼んだ。その声に反応して、黒尾が足を止め振り返る。
 数メートル離れた場所で、黒尾は今歩いた数メートルを引き返すべきか思案しているようだった。だがすぐに、名前のもとまでのんびり引き返してくる。黒尾を見つめる名前が余程、切羽詰まった顔をしていたからだった。
「ん、どうした?」
 自ら呼び止めたものの、いざどうしたと問われると、どう返事をしていいものか悩ましい。結果、ずいぶんと歯切れの悪い調子で、
「あの……お礼、というわけではないですけど……、その、うちに上がっていきませんか。お茶くらいなら出しますので」
 と及び腰に黒尾を誘った。
 こういうとき、黒尾に気を遣わせないうまい言い回しを当意即妙に得られる、頭の回転の速さがあればいいのにと、そう思わずにはいられない。だが生憎と、そんな武器を名前は持っていなかった。だから正直に、真っ向から黒尾に言葉を投げるしかない。
 黒尾は訝るように、名前のことを見下ろしている。その表情に、何故だか背すじを冷たい汗が伝った。
「あっ、もちろん黒尾さんがよければの話なんですけど……」
「いや、つーかさ、さっきの話の流れでそういうこと言っちゃうの?」
 あまりに名前がおたおたしたためか、黒尾は呆れ笑いを滲ませて、眉を下げて名前を見た。
「そういうことって、」
「だから、夜に男を家に上げていいのかってこと」
「でも、日が暮れてるってだけで、まだそんなに遅い時間じゃないですし。それに、黒尾さんは茶飲み友達なので……」
 夜に自宅に上げたからといって、何のあやまちも起きはしないだろう。名前にはその確信があった。何せ名前と黒尾を引き合わせたのは、ほかでもない黒尾の祖父母なのだから。
 万一あやまちを起こそうという気になったとて、黒尾ならば名前のような後腐れしかないような相手を選ぶはずがない。もっともそれ以前に、黒尾に限って不埒な真似をするはずがないと、名前は固く信じている。
「でももちろん、黒尾さんが嫌だっておっしゃるところ無理にとは」
「じゃあ、そうだな。お言葉に甘えてちょっとだけ」
「え……、いいんですか?」
 誘ったのは名前の側だが、いざ承諾されると驚いてしまう。ぱちくりと瞬きする名前に、黒尾は目を眇めて笑った。
「いいんですかって何ですか。俺がおもてなしされる側じゃないの?」
「あっはい、そうでした……。もてなさせていただきます」
「おいおい、大丈夫か」
 揶揄するような、面白がるような台詞を掛け、黒尾が名前にマンションに入るよう促す。名前ははっと我に返ると、慌てて鞄の中からマンションの鍵を取り出した。
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