024

 とある秋の日、名前はひとり大学からの帰路についていた。前日に自転車をアルバイト先に置いてきてしまっていたので、今日の通学は電車を利用した。そのため駅からの道のりも自転車ではなく徒歩になる。
 とっくのとうに日は沈んでいる。風が吹くたび路上の枯れ葉がかさこそと音を立てるのが耳につく、それほど静かな夜だった。夜気にふれた頬がひやりと冷える。名前はぐるぐるに巻いたマフラーを口元まで引き上げた。背中をわずかに丸めると、足早に歩き出す。
 まだ夜更けというには早い時刻だが、駅から少し離れるとぱたりと人けは途絶えた。暗闇を歩く自分の足音だけがいやに響く。つくづく静かな町であることを、歩きながら名前は実感した。こんな静かな町では、きっと空き巣や何かもかえって動きにくいのではないか。そんなことを思いながら、名前は家々の窓を眺めた。
 先日、黒尾からもっと警戒すべしという忠告を受けた名前は、律儀にそれを守っている。手始めに防犯ブザーと催涙スプレーを購入し、部屋の窓には防犯フィルムを貼り付けた。なにぶん根が真面目な人間なので、納得できる忠告にはできるだけ従うことにしている。
 それに、黒尾があそこまで真剣にいろいろ考えてくれているのだ。名前が何もしないというわけにはいかない。先日の黒尾の様子を思い出し、名前はひとりふくふくと笑った。
 名前にとって、黒尾は今やもっとも仲のいい友人のようなものだ。たとえ納得できない忠告だったとしても、だからといって無下にするつもりはなかった。
 ちょうどこの後、黒尾が名前の家に夕飯のお裾分けを届けてくれることになっている。名前が帰宅するくらいの時間に黒尾も来ると言っていたから、防犯グッズを用意したことはそのとき黒尾に話すつもりだった。
 ちらりと腕にはめた時計を見ると、あと十五分ほどで黒尾の指定した時間だった。自宅までは十分ほどの道のりなので、それほど急ぐ必要もない。
 そんなことを考えながら歩いていると、先ほどまでは自分ひとりきりの靴音だけが響いていたところに、もう一人、背後を歩く足音が増えていることに気が付いた。
 歩くペースを少し上げようか。名前がそう考えた矢先、
「名前ちゃん?」
 背後から声を掛けられて、名前はびくりと肩を跳ねさせた。足を止め、弾かれたように振り返る。と、振り向いた先にいた、暗がりの中でも分かるほどの人の良さそうな笑顔を見つけた瞬間、名前の身体を縛っていた緊張感はいっぺんに解けて消えてしまった。
「えっ、あれ。茂部さんじゃないですか」
「ああ、やっぱり名前ちゃんだった。後ろ姿だから違うかもしれないと思ったんだけど、人違いじゃなくてよかったよ」
 人違いでなかったとしても、夜道でいきなり声を掛けられればそれなりに驚くのだが。そう言いたくなるのをぐっと堪え、名前はそうでしたかと微笑んだ。
 駅の明かりはすでに遠く見えなくなり、辺りはちょうど商店と住宅の混在するエリアだった。まだそう遅い時間ではないが、駅前の繁華街と違いこの辺りは店じまいが早い。少し行った先にコンビニがある以外には、あいている店らしい店もない。そんな静かな夜の中に沈んだ茂部は、昼間に顔を合わせるよりも何処か陰があるように見えた。
「こんばんは、この時間ってことは大学かな」
「正解です。卒論がだいぶ佳境なので、ここのところはちょっと真面目に大学行ってます」
「名前ちゃんなら大丈夫だよ」
「ありがとうございます。そう言っていただけると大丈夫な気がします」
 余裕をもって真面目に準備に取り組んでいたため、名前の卒論は特に大きな問題もなく、提出に向けて練度を上げている。だがさすがにいざ提出が迫ると、多少はナイーブにもなるものだ。茂部は名前の大学生活はもちろん学部すら知らないはずだが、それでも励ましてもらえば多少は心強く感じられた。
 名前と茂部の家の方角が同じだということは、先日明らかになっている。どちらが何を言うこともなく、そのまま自然と一緒に帰ることになった。
「そういえば今日は自転車じゃないんだね。前に大学まで自転車で通ってるって、たしか聞いた気がするけど」
「そうなんですよ。『猫目屋』に置きっぱなしにしちゃって。昨日、夕方から雨だったから」
「そういえばそうだったね」
「屋根のあるところに入れてもらってるので大丈夫なんですけどね」
 当たり障りのない世間話をしながら、名前はちらりと茂部の様子を盗み見た。あの社交性のかたまりのような黒尾が、茂部に対しては何処かぎこちなく固い態度をとる。そのことが、名前は妙に引っかかっていた。
 人間としての相性といってしまえばそれまでだ。だが、こと黒尾に関することなので、何かもっと根深いものがあってもおかしくない。もっとも根深いものと言ったところで、名前に何か思い当たることがあるというわけでもないのだが。
 そのとき、名前の上着のポケットの中で、スマホがメッセージの着信音を短く鳴らした。
「ちょっとだけすみません」
 ひと言断って、名前はスマホを確認する。メッセージは黒尾からで、もうすぐ着くとのことだった。そういえば黒尾が夕飯のお裾分けに来てくれることになっていたのだと思い出す。茂部と話をしていたことで、すっかり忘れてしまっていた。
「大丈夫?」
 返信にスタンプを添えて送信した名前に、茂部が尋ねた。
「大事な連絡とかじゃなかった?」
「いえ、全然。黒尾さんでした」
「黒尾さんか……」
 その声にほんのかすかに険があることに、スマホに視線を落としていた名前は気付かない。そして名前がようやくスマホをポケットに戻すと、茂部がわずかに躊躇うように沈黙したのち言った。
「名前ちゃんは、黒尾さんと付き合ってるの?」
「えっ!?」
 思いがけないことを問われ、名前は驚き声を上げた。しかしすぐ、慌てて口を手で覆う。静かな夜の住宅街に、名前の声はいささか大きく響きすぎた。
 ひとり取り乱す名前に冷えた視線を投げかけながら、茂部はじっくりと言葉を重ねる。
「いやね、この間会った時にふたり、ずいぶん仲良く見えたから。前から仲が良かったとかではないんだよね?」
「そ、そうですね……たしか夏くらい? いや、春くらいからかな……」
 記憶を手繰り寄せながらも、名前は焦っているのか何なのか、嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。別にやましいことなど何もない。聞かれたことに答えればいいだけのことだ。それなのに、先日からやけにこの手の質問に動揺してしまう。嫌だというわけではないのだが、どうしていいのか分からない。
 付き合っていないし、今後付き合う予定もない。黒尾と名前の付き合い方は、そういう艶めいたものとは無縁の成り立ちだ。それでいいと思っているし、そうでありたいとも思う。
 男女がふたりで親しくしているというだけで外野から囃されるのは面白くない。たしかにそう思っているはずなのに。自分が何故これほどまでに動揺し、戸惑っているのか分からないことに、名前はさらに混乱した。
「付き合ってるの?」
 畳みかけるように同じ問いを繰り返す茂部に、名前はいつしか俯けていた顔を上げる。そして、自分を見つめる茂部の表情を見て、すっと背すじが冷たくなったような気がした。
 名前をまっすぐ見つめる茂部の顔には、見たこともないような苛立たしげな、穏やかさの抜け落ちた表情が貼り付いていた。
「そういうわけではないですが……普通に、仲良くしてもらってるというか……」
 思わず息をつめ、一歩後ずさる。茂部ははっとしたように、普段の穏やかな顔を取り戻した。
「そっか。彼、黒尾さん、かっこいいもんね」
「か、かっこいいから仲良くしてもらっているというわけではないですが……」
 そもそも黒尾と親しくなったのは、黒尾の祖母からの依頼があったからだ。だがそのことを知らない茂部の目から見れば、人目を惹く容貌と女性受けのよさそうな飄飄とした性格の黒尾に、年下の名前が夢中になっているように見えていてもおかしくはない。
 むろんそれは茂部の単なる思い違いに過ぎない。だが、だからといってここで名前が黒尾との出会いからをつまびらかにするのも、それはそれで不自然だった。何より、そこまでして茂部に弁明しなければならない理由が名前にはない。強いて言えば、黒尾にあらぬ誤解が降りかからぬようにというくらいだ。
「でも、そうはいっても普通にお茶して、そのあと送ってもらうくらいには仲いいんだよね」
「そうですね」
「そうか……」
 名前が頷くと、茂部は何か思案するように顎を手で摩り黙り込んだ。森閑とした町の中を、茂部と名前はふたり、もどかしくなるような歩調で歩いていた。名前の普段のペースよりも、ずっと遅い。本当はもっと速く歩きたいのに、茂部の歩くのが極端に遅いのだった。
 耳が痛くなるような沈黙と、焦れったくなるような歩調に、名前はだんだんと気詰まりになってくる。視線の先にコンビニの白々とした明かりが見えたとき、名前はようやくほっと気を弛めた。
「あっ、茂部さんのお宅あちらでしたよね」
 ちょうど目の前は、先日茂部とばったり出会った十字路だった。名前の家はここを直進だが、茂部とはここで帰り道が分かれる。
 ほっとしたのが顔に出ないように努めて、名前は笑顔をつくる。
「それでは、あの、また」
 だが手を振る名前に、茂部はにこりと笑って足を止めた。
「もう暗いし、名前ちゃんの家まで送るよ」
「えっ、いえ大丈夫ですよ。うち此処から本当に近いので」
「でももう暗いから。女の子ひとりで帰すのはちょっと」
「本当に、大丈夫です」
 きっぱりと断ったはずの声は、語尾が不自然に揺れていた。茂部の好意はありがたいが、本当に送ってもらうほどの距離ではない。
 名前が黒尾に送ってもらうのは、それがもはや習慣になっているからだ。だがそれはあくまで黒尾との間だけのことであり、誰彼構わず家まで送ってほしいわけではない。
「あ、あの……本当に大丈夫なので……」
 遠慮ではなく、本心から固辞している。ありがたいとは思うが、本当に送ってもらう必要などない。と、そこまで考えて、名前の胸が不自然に騒いだ。本当に、自分は茂部の好意をありがたいと思っているだろうか。家まで送ってくれるという言葉を、ありがたい親切だと受け止めているだろうか――
 思索の渦にとらわれかけたところで、名前ははっと我に返る。足を止めたままの茂部が、先ほどから黙りこくっていることに気付いたからだった。
 そらしていた視線を茂部へと向ける。茂部は夜の海をたたえたような黒々とした目で、じっと名前を見つめていた。
「え、茂部さん……?」
「僕は」
 名前の声に、茂部が譫言のように声をもらす。視線をそらすこともできず、名前はただ茂部に視線を返し続けていた。頭の後ろの方がこわばったように、名前はそこに立ち尽くす。茂部の薄く開いたくちびるが何か言葉を紡ごうと、そっと息を吸い込むのが分かった。
 そのとき。
「苗字さん」
 聞き知った声が、その場の奇妙に張りつめた空気を破り、名前と茂部との間に割って入った。今の今まで強張っていた頭と首が、途端に自由になったようだった。弾かれるように声の方に顔を向ければ、そこにはスーツ姿の黒尾が、ビニール袋を携え立っている。
「さっき電話したけど、気付かなかったかい」
「黒尾さん……」
「お裾分け、持ってくって言っただろ?」
 その声音に、優しく微笑む笑顔に、名前は何故だかむしょうに泣きたくなった。
 名前が黒尾に視線を注ぐ。図らずも、その目は縋るような必死さを帯びていた。黒尾が一歩足を踏み出して、名前の隣に立つ。そうして茂部と向かい合うと、すがすがしいほど爽やかな笑顔で、茂部に笑いかけた。
「どうも、こんばんは」
「……こんばんは」
 対する茂部は、あからさまに興覚めしたような顔をしていた。いつもと同じはずの笑顔からは、柔らかさや穏やかさが削げ落ちている。名前はその顔を見て、胸の中が薄ら寒くなるような気持ちになった。
 名前が半歩、茂部から距離をとるように後ずさる。その身じろぎ程度の動きに、黒尾は茂部から視線を外して名前を見据えた。そして笑顔を絶やすことなく、
「あ、苗字さん。傘持ってきてくれてねえの?」
 やおら名前にそう問いかけた。
「え? か、傘?」
「そう。この間貸したやつ。今日返してくれるって言ってただろ?」
 そんな約束をした覚えはなかった。このところ黒尾と雨の日に会った記憶はないし、傘を貸し借りした記憶もない。黒尾に返すものがあるとすれば、せいぜいがおかずのお裾分けをしてもらったときの保存容器くらいのものだった。
 戸惑い、名前は黒尾を見上げる。だが、黒尾と視線が交錯したその刹那、名前はふいに黒尾の意図を察した。
「あっ、は、はい。そうでした、傘ですね。あの、すみません、今日ちょっと家に忘れてきてしまって」
「おーい、まじか。じゃあこのまま傘返してもらいに家までついていっていい? 傘ないと俺が困るからさ」
「はい、もちろん大丈夫です」
 そして黒尾は、ごく自然に名前の家の方角へと身体を向けた。茂部の自宅の方向が名前と違うことを、黒尾もまた先日偶然知り得ていた。
 無言で名前と黒尾を見つめる茂部に、名前は一瞬悩んだ後、軽く頭を下げた。
「あの、それでは茂部さん。またお店で」
「うん、また」
 茂部の声は平坦で、そこから何の感情を読み取ることもできない。名前と黒尾は茂部に背を向けると、街燈の少ない夜道をやや足早に歩き始めた。
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