023

 ちくちくとした胸の痛みは、しばらくすると潮が引くように去っていった。だが痛みが引いたその後には、重く立ち込めるようなもやつきだけが重苦しく残っている。
 知らず、名前はちょっと眉根を寄せた。
 もやつく理由に、大体の見当はつく。しかしそれを認めることは、名前にとって苦しく難しいことだった。黒尾の『茶飲み友達』という立場に立脚したとき、もやつきは必ずしも正しいものではない。それどころか、本来抱いてはならない感情だ。
「なに難しい顔してんの?」
「わっ!」
 歩きながら黒尾に顔を覗き込まれて、名前はびくりと肩を揺らした。自分でも気付かないうちに、感情が表に出ていたらしい。
「わっ、て。今、魂抜けてたな」
「ちょっと……そうですね……」
 ばくばくとうるさく鳴る心臓に驚きながら、名前は目を見開いて黒尾を見つめた。ただならぬ色を湛えた名前の瞳に、不思議そうに名前を見つめる黒尾の姿がうつる。
「気ぃつけろよ。足元暗いしこけても知らねーぞ」
 そう言いつつ、黒尾はわずかに歩くペースをゆるめた。言葉とは裏腹に、黒尾の態度はいつでも一貫して親切そのものだ。名前は胸の中のもやが、ぎゅっと範囲を狭めていくのを感じた。小さく小さくなっていく代わりに、もやの濃度はぐっと濃く増す。そしてそれは、黒点のように名前の心に一点のしみを作る。
 歩きながらもむっつりと黙り込んだ名前に、黒尾がちらちらと視線を寄越していた。名前の気掛かりを見抜いたうえで、声を掛けるべきか思案しているに違いない。
 黒尾本人はさりげなく見ているつもりなのだろう。だが黒尾が自分で思っている以上に、黒尾の些細な所作は名前の目を惹く。当然、名前は黒尾から遠慮がちに向けられる視線に気付く。
 いっそ自分の方から何か言うべきかと、名前が悩み始めたそのとき。名前の視界をふいに横切る、見知った人物の姿があった。
「あれっ、茂部さん」
「あ、名前ちゃん」
 半ば無意識に名前を呼ぶと、呼ばれた茂部も名前に気が付き足を止めた。茂部の温和そうな表情が一瞬驚きに染まり、すぐに穏やかな笑みを取り戻す。名前が茂部に数歩近寄ると、黒尾もそのまま名前の横を陣取ったままついてきた。
「こんばんは。茂部さん」
 こんばんは、と茂部が愛想よく返す。部屋着に上着を引っかけただけというような恰好から、家の近所のコンビニにでも行った帰りなのだろうか。名前はそう推察した。とはいえ名前も上着の下はバイト着なので、着ているものは茂部と大差ない。
「近くにお住まいとは聞いていましたが、ご自宅こっちの方なんですね」
「そうなんだ。駅からはちょっと離れるけど、その分ここら辺は家賃が安いから」
 照れたように言う茂部に、名前は大きく頷いた。
「たしかにそうですよね。それに繁華街とは離れてますから、夜も静かですし」
 しみじみと実感のこもった声で相槌を打つ。もともと音駒は古い町ゆえに住民同士も顔見知りが多い。防犯意識も高いので、比較的治安のいい土地ではある。
 それでも繁華街のあたりに出れば、その筋の人間が時折うろついているという噂がある。その点、名前や茂部が住んでいるあたりは、住宅が密集している地域で物騒さとは無縁だ。
 と、茂部の視線が、名前から黒尾へと移動する。黒尾もまた、茂部に視線を向けていた。
 どちらも『猫目屋』の常連であり面識もあるが、こうして改まって面と向かい合ったことはない。ふたりを交互に見ているうちに、名前はようやくそのことに思い至り、遅ればせながら互いを紹介した。
「茂部さん、こちらは常連さんのお孫さんの黒尾さんです」
「どうも、黒尾です」
「どうもこんにちは、茂部といいます」
「茂部さんも常連さんです」
 茂部が先に頭を下げ、そのすぐあとに黒尾も頭を下げた。
 そういえば黒尾は以前、名前が茂部から雑誌を借りたのを目撃していたはずだ。ふと思い出し、名前はまた顔が赤らむのを感じる。幸い辺りは暗いので、茂部にも黒尾にも名前がひとりで勝手に照れていたことは気付かれずに済んだ。
 車が一台通り、三人は道の端に寄る。車は通り過ぎ、それ以上特に話題もなかったが、なんとなく誰も「それじゃあまた」とは切り出さなかった。その場を立ち去る気配もない。
 茂部は黒尾との挨拶を友好的な微笑みで済ませると、その微笑みのまま、
「ふたりで何処か出掛けてきたの?」
 名前に向けて尋ねた。
「いえ、バイトの後に少しお茶して、その帰りです」
「ああ、そうなんだね。黒尾さんもご自宅こっちの方なんですか」
「はい、地元の人間なので」
 黒尾の答えに、名前は首を傾げた。
「こっちの方って言っても、『猫目屋』から見たら反対方向ですよね。ご近所の範囲ではありますが」
 黒尾の答えは、茂部の問いに対してどこかちぐはぐだった。案の定、名前が言葉を足すと、茂部が意外そうに瞬きをする。
「あ、黒尾さんそうなんですか。なるほど」
「……いやー、ははは」
 黒尾が乾いた笑い声で応えるのを見て、名前はますます首を傾げた。まったくの他人同士ということを差し引いても、茂部に対する黒尾の態度はどこか固くてぎこちない。これまで名前の大学の知人ともそつなく接する黒尾を見ている名前には、その固さはいささか不自然な態度に映る。
 もしかして、黒尾さんは茂部さんのことのことが苦手なタイプとか……?
 一瞬そんな考えが名前の脳裏を過ぎった。だが茂部は、見るからに温厚で人あたりもいい。黒尾にしても、余程の曲者でもない限りは、表面上の付き合いを誰とでもうまくやれるタイプだろう。苦手な相手だからといって、それをいきなり態度に出すとは思えない。
 そんなことを名前が考えている間にも、黒尾と茂部のぎこちない空気はますます拡大していく。そのくせどちらも、その場を立ち去ろうとは言い出さない。
「ええと……あ、暗くなるのがずいぶん早くなりましたね」
 苦し紛れに、名前は天気の話など持ち出し、ふたりの様子を窺った。口許だけで微笑む黒尾に対し、茂部は「そうだね」と笑顔をつくり答える。
「この辺りは家が多いわりに街燈が少ないから、名前ちゃんも夜道を歩くときは気を付けてね」
「ありがとうございます。あ、でも今日は黒尾さんが送ってくれるので大丈夫ですよ」
 名前のその答えに、茂部の眉がわずかに上がった。
「……黒尾さんのご自宅は反対方向なのに?」
 やっぱりそう思うよね、と名前は内心頷いた。最初に黒尾に送ってもらったときに、名前もまったく同じことを思ったからだ。
「年下の女の子には優しくしてくれるそうです。ねえ、黒尾さん」
「ちょっと、苗字さん。それだと俺が年下の女子にしか優しくないみたいに聞こえるでしょうが。俺は全人類に等しく優しい」
「生きとし生けるもの、神羅万象に優しいそうです」
「……黒尾さんは博愛の人なんですね」
「よく言われるんですよね」
 冗談めかして場を和ませたつもりだったのに、またしても空気がぴりついた。まさか黒尾の親切心を茶化したのが悪かったのだろうか。名前は内心慌てふためいた。黒尾ならばこのくらいの茶化したところで、軽く受け流してくれると思ってのことだったというのに。
「で、でも実際、黒尾さんと夜道歩いてると安心なんですよ。ええと、夜道で黒尾さんより大きくて強そうな人に出くわすって、あんまりなさそうじゃないですか」
「苗字さん、もしかして俺のことでかいだけだと思ってない?」
「思ってないです。でも黒尾さんが大きいのは事実じゃないですか」
「俺の真の魅力は身体の大きさより、むしろ器の大きさだからな」
「そういうのは、あんまり自分で言わない方がかっこいい気がします」
「だって苗字さんが言ってくんないから、そしたらもうあとは自分で言うしかないだろ」
 他愛ない話に白熱するふたりを、茂部は柔和な笑みを浮かべたままで、しばらくそのまま眺めていた。やがて茂部を置き去りに会話していることに気付いた名前が口をつぐむと、茂部はいっそう表情を和ませた。
「ふたり仲がいいんだね」
「私が黒尾さんに仲良くしてもらってるというか……」
「それじゃあそろそろ……。僕の家はこっちだから。また『猫目屋』で」
「はい、また。おやすみなさい」
 手を振り、去ってく茂部を見送る。茂部は一度振り返って頭を下げると、そのまま暗がりの中へと消えていった。

 残された名前と黒尾は、茂部の姿が見えなくなるまで待ってから、ふたたび名前の家に向けて歩き出した。時間にすればそれほど長く立ち話をしていたわけではないはずだが、名前はどっと疲労に襲われる。
 おそらく黒尾と茂部の間に立ち、慣れないなりに気を遣ったりしたからだろう。改めて、普段黒尾と一緒にいるときには、自分は楽をさせてもらっているのだと思い知る。
「それにしても、今日はこの短い距離のあいだにいろんなやつに会うな」
 黒尾がぼやくように言った。茂部が去ったことで態度のぎこちなさは取れたものの、まだどこかさっぱりとしないものが、声の中に余韻として滲んでいる。
 名前はふと、自分の胸に残った黒点のしみと黒尾の声に残る余韻に、何処か似通ったものがあることに気が付いた。だが、その意味を考えるところまで思考を押し進めるより先に、黒尾がふたたび口を開いた。
「さっきの人、家この辺って言ってたよな」
「茂部さんですよね。そう言ってましたね。マンションは違うみたいですけど、この辺りって結構古いアパートとかありますから」
 名前の一人暮らし先のマンションはまだ築浅だが、古いアパートや賃貸はそこかしこに立っている。この辺りの賃貸物件が、治安がよく静かな土地にもかかわらずそれほど高い賃料をとらないのは、駅から離れていることに加えて、古い建物が多いからでもある。
 そう考えると、親戚の管理するマンションを借りている自分はつくづく恵まれている。名前はそんなことを考えていたのだが、黒尾は名前とはまったく違うことを考えているようだった。
「俺が言うことでもないのかもしんねえけど、あんまり人に家の場所とか知られないように気を付けろよ」
 周囲に人影はなかったが、黒尾はいくらか声をひそめて言った。まるで誰かに聞かれてはいないかと警戒するように低めた黒尾の声に、名前は、はぁと曖昧な返事をする。
「一応気を付けてはいますけど……、でも、うちのマンションはオートロックですし、不審者には気を付けてますから。そんなに心配してくださらなくても大丈夫ですよ」
「うーん、まあそうなんだろうな……。苗字さんしっかりしてるもんな……。ただなぁ……」
「なんですか?」
 珍しく煮え切らない様子の黒尾に、名前は訝しげに問う。
「いざとなったとき、苗字さんが頼れるあてが少ないのは心配だなーと、友達として多少思ったりもする」
「頼るあてというと、実家が遠方だからとか、そういう話ですか?」
 それならば、あまり心配することもない気がする。マンションを管理している親戚もすぐ近くに住んでいるし、『猫目屋』のオーナーもいる。だからこそ名前は東京での一人暮らしを許されているのだ。だが黒尾は、あまり納得していないように難しい顔を崩さない。
「それもあるけど、なんかのときにちょっと避難できる友達の家とか、そういうのが苗字さんにはないだろ」
「それは、まあ……」
 そう言われれば、名前も頷くしかない。要するに、大事にならずにちょっと頼ることができる相手というのが、名前にはまったくいないのだった。
「んー、やっぱ近々研磨んち連れてくか。あいつんちなら部屋数余ってるし、有事ならさすがに文句も言わんだろうしな。うちでもいいけど、それはそれで変な話になるし。距離的にも研磨んちのがいいんだろうなぁ」
 眉根を寄せて話を進めていく黒尾のそでを、名前はちょいと引っ張った。思索に耽っていた黒尾は、そこではたと気付いたように名前に視線を落とした。名前は困惑の目を黒尾に向ける。
「あの、黒尾さん、さっきから物凄く真剣に私の有事の際の心配をしてくれていますけど、上京して四年目で、今のところそんな危険に見舞われたことは一度もないですからね」
「それでも、いざって時のセーフティーネットの確保、大事だぞ。まして、女の人の一人暮らしなわけだから」
 いたって真剣に言う黒尾に、名前は短い沈思ののち素直に頷いた。多少心配しすぎのきらいがあるような気はするが、黒尾の言うことももっともだ。いくら治安のいい土地柄とはいえ、一人暮らしをしている以上は用心しておくに越したことはない。
 だが、それはそれとしても、黒尾の心配はやや過保護な気がする。名前とひとつしか違わない男性が、女子大生の一人暮らしに対してこれほど真剣に考えるものだろうか。
 名前本人以上に真面目に考えている様子は、傍から見れば親族か何かにしか見えない。いや、親族の矢巾ですらここまで名前の身の安全に思いを馳せたりはしない。この世話焼き気質は、長年研磨の世話を焼き続けてきた賜物か。
「黒尾さんって、生きとし生けるもの神羅万象への親切が時々行きすぎて、ちょっとお母さんみたいになってますよね」
「俺のことを東京の母だと思っている?」
「それはまったくないですが」
「ないんかい」
 苦笑いした黒尾に、名前は相好を崩した。とっぷり暮れたあとの夜道を歩きながら、名前は胸の中心にできた夜空のように黒いしみのこともすっかり忘れ去っていた。
- ナノ -