022

 あっという間に十月は過ぎ去って、いよいよ秋も深まる頃。薄暮の街を名前と黒尾はふたり並んで歩いていた。
 今日もまた、不定期のお茶会の帰りだった。この頃は日暮れが早くなったこともあり、もはや黒尾は当然の顔をして名前をマンション付近まで送り届けるようになっている。
 十一月の空気は冷たく澄み、時折吹く風は肌を切りつけるように凍えていた。今年は秋が短く、暑さがようやく弛んだと思ったら、あっという間に冬の気配を感じるようになった。名前は遠くにまだかすかに橙の残る夜空を見上げ、溜息ともつかない吐息を吐き出した。
「なんだか急に寒くなりましたねぇ」
 しみじみと呟けば、隣で黒尾も頷く。両手を上着のポケットに入れた黒尾は、名前に比べてずいぶん薄着だった。以前名前に暑がりなのだと話していた黒尾だが、それでもさすがに今日の寒さは堪えるのだろう。眉間に皺が寄っている。
「だな。言ってる間に冬だぞ」
「今年のクリスマスって何曜日でしたっけ」
「さあ、俺は予定がない人間なので存じ上げませんね」
「私だって存じ上げませんよ」
 黒尾も名前も、ともに恋人のいない者同士だ。東京に友人のいない名前はともかく、黒尾は何処かしらのパーティーに呼ばれることもあるのだろうが、まだクリスマスまでひと月以上ある現状では何の声も掛かっていなかった。
「苗字さんは今年のクリスマスどうすんの?」
 何の気なしに黒尾が問う。名前は頬に手をあてて、思案するように「うーん」と発した。
「どうしましょうね……、一応ケーキくらいは買って食べようかなとは思ってるんですけど」
「ひとりで?」
「ひとりで食べても美味しいものって沢山ありますからね」
 名前の言い分に黒尾が苦笑した。友達や恋人、あるいは家族と食べれば美味しさが割増しというのはよく聞く言説だが、真に美味しいものはひとりで食べてもみんなで食べても、当然美味しいに決まっている。理にかなっているような屁理屈なような、どうにも微妙なラインだった。
「ちなみに去年は何してたの?」
「去年はたしか、バイトが終わってさぁ帰ろうと思ってスマホ見たら、彼女と東京にクリスマスデートにきた秀くんから、鬼のような量の着信がきていたんですよね。わざわざ東京まで出てきてフラれたって言って。で、そのまま愚痴を聞かされながら一緒にケーキ食べてお酒飲むクリスマスでした」
「インパクトはすごすぎない? そもそもクリスマスに東京まで一緒に旅行に出てきて現地でフる女の人、ちょっと怖すぎるだろ」
「怖いというか、秀くん、いっつも振り回すタイプの女の人とばっか付き合うんですよね……」
「いとこくん、そういう性癖なの?」
「どうなんでしょう。いとこの性癖とか、ちょっとあんまり聞きたくなくて深掘りしたことないです」
「分かるけども」
 従兄弟の矢巾の女好きは小学生の頃からの筋金入りだ。彼の場合、見た目も悪くないためそれなりにモテるのだが、如何せん女性関係では軽薄なところが目につくため、一人の相手とあまり長続きしないのが常だった。
 そのうえ矢巾は昔から、何故か気の強い女性ばかりに惹かれる。それ故こっぴどく恋に破れて荒れた矢巾の自棄に名前が付き合わされたことも、これまで一度や二度のことではなかった。
「上京してからのクリスマスは、単発のバイトを入れたりして結構普通に過ごしてたんですけど、インパクトでいえば去年がぶっちぎりですね」
「そりゃ忘れられないクリスマスになるわ」
「しかも秀くん、酔うとめちゃくちゃ泣くんですよね……」
 その時のことを思い出し、名前は半笑いで言った。もともと情に篤いところのある矢巾は、酒が深くなってくると些細なことで泣く。特にその時は夢中になっていた恋人にフラれたことで、べろべろになるまで酔って泣いた。おかげで翌日は二日酔いのまま新幹線に乗ることになり、見送る名前も疲労困憊だったことをよく覚えている。
「苗字さんは酔うとどうなんの?」
「あんまり泥酔したことがないので分かんないですね」
「まじ? 外で飲むとき気を付けろよ」
 そんな話をしながら歩いていると、ふと黒尾が視線を前方に向けて固定した。隣を歩く名前がそれに気付き、首を傾げて同じく前を見る。名前には見覚えのない後ろ姿だったが、年若い背格好からして黒尾の知り合いなのかもしれない。
 名前と黒尾の視線を感じたのか、前を歩く女性がふいにくるりと振り返る。ぱっちりと大きな目と、名前の目がほんの一瞬、視線を交錯させた。
 が、その視線はすぐに名前を素通りし、その隣の黒尾の方へと向けられた。同時に、女性の端正な顔立ちに無邪気な笑顔がぱっと浮かぶ。
「あれ、黒尾さんじゃないですか! 何してるんですか、こんなところで」
 小さな歩幅で小走りに駆け寄ってくる女性に、黒尾が目を細めた。面倒くさげにも見える表情は親しさの裏返しだろう。その表情に、名前は黒尾と女性がそれなりに気心知れた間柄だと察した。
「いや、こんなところも何も、ここ俺の地元だから」
「そうなんですか? へー、あ、でも言われてみたらたしかにこのへん、黒尾さんっぽいですね」
「めちゃくちゃ適当言ってやがる」
 ころころと屈託なく笑った女性は、続いて名前に視線を戻した。その視線に、名前は慌てて頭を下げる。値踏みするような不躾な視線ではない。ただ、黒尾と一緒にいるので興味を持たれていることは、きらきら輝く大きな眼から明らかだった。
「苗字さん、こちら大学のときの後輩」
「はじめまして」
「はじめまして、苗字です」
 お互い名乗り合い、名前は顔を上げた。目線の位置は彼女の方が高いが、それはヒールの高さのためだろう。全身くまなく隙のない女ぶりに、名前はわずかばかり顔を赤らめた。何せこちらはバイト着に上着を引っ掛けただけの恰好だ。
 そんな名前の羞恥心になど気付くべくもなく、黒尾は女性と話を続ける。
「あれ、そういえばお前、俺の二個下だよな? てことは苗字さんのが年上か」
「あ、そうなんですか?」
「そう。苗字さん俺のひとつ下」
 話を振られ、名前と女性がふたたび顔を見合わせ、そして互いに曖昧に笑い合った。名前は相手を年上だと思っていたし、向こうは向こうで名前を年下だと思っていたに違いない。
 しかしよく考えれば、黒尾の後輩だと聞いた時点で相手が自分と同じ年か、あるいは年下だと気付いてもおかしくはなかった。
 目の前の相手が年下であることに衝撃を受ける名前を、相手はやはり楽しそうに見ている。やがてひとしきり見つめ合うと、
「ところで、おふたりはお付き合いしてるんですか?」
 にこやかに小首を傾げた。
 未だショックから立ち直り切らない名前は、口をはくはくさせ黒尾を見上げる。一方の黒尾は、微妙な質問に狼狽えることもなく、にっと口角を上げて名前を眺め下した。
「苗字さん、あれ、なんだっけ。俺たちの関係を第三者に表すときの、あれ」
 黒尾に問われ、名前は首を傾げる。目の前の女性のような可愛らしい仕草ではなく、本気で頭を悩ませているときの首の捻り方だ。黒尾が何を笑っているのか、そして何を問うているのか、つかの間、名前は真剣に思案する。
 ややあって、名前は黒尾の問いへの答えに、ようやく思い至った。
「もしかして『友達みたいな人』ってやつですか……」
「それ。そういうこと」
 我が意を得たりと言わんばかりのにやつきに、名前はがくりと脱力した。少し前にふたりで大学祭に行った際、名前が大学の知人に言った言葉を黒尾はいたく気に入っていたらしい。
「いや、私が言わなくても絶対に黒尾さん覚えてたでしょ。そんな特別な言葉じゃないですよ」
「だってそこは苗字さんが言わないと」
「なんですかそれ……」
 黒尾の考えていることがよく分からず、名前はまた首を傾げた。そんなふたりの遣り取りを、女性はなにか確かめるようにじっと眺める。
 やがて彼女は、黒尾と名前の会話が途切れたところで、これみよがしに溜息を吐いた。その盛大な溜息の音に、名前と黒尾が揃って視線を女性に向ける。女性は愛らしい瞳をすがめ、呆れたように黒尾と名前を見ていた。
「はあ、なんですか? その、身内だけで盛り上がって部外者を置いてきぼりにするノリは。かったるーい」
「かったるいとか言うな。初対面の相手に辛辣すぎるでしょうが」
「いや、かったるいのは黒尾さん」
「俺かよ! おい、先輩だぞ!」
「目の前でいきなりいちゃつくみたいな身内ノリやられたら、誰でも普通に辛辣になりますよ。そういうんじゃなくて、付き合ってるならちゃんと紹介してください」
「お前のその態度のでかさは何なの?」
 心底呆れたように言いつつも、黒尾は、
「苗字さんは、俺が最近仲いい友達」
 あっさりとそう紹介しなおした。名前が急いでもう一度頭を下げる。茶飲み友達ではなく、ただの友達でもない。最近仲いい友達と紹介されたことに、胸の中がむずがゆいような気分になる。
 だが顔を上げた名前を待っていたのは、女性の心底訝しげな顔だった。
「その紹介の仕方は、さすがにいやらしくないですか……!?」
「えっ!?」
「最近、仲がいい、友達? それっていやらしいやつですよね……!?」
 思いもよらないリアクションに、名前は絶句し固まった。名前が記憶する限り、名前と黒尾の関係はいやらしさとはおよそ無縁のものだ。とんでもない勘違いをされていることに気付き、名前はおろおろと狼狽えた。
 だが、言葉を失う名前とは対照的に、黒尾はこの手の表現に慣れているらしい。不機嫌そうな顔をしつつも、名前のように取り乱すようなことはしない。
「はー? 俺の話を聞いていやらしいと思うお前の頭がいやらしいんですけどー? 俺と苗字さんはまじの友達ですー」
 な、苗字さん。と黒尾に話を振られ、名前は大急ぎで首を何度も縦に振った。あまりに必死なその様子は却って怪しさを煽っているのだが、あいにくと今の名前にそこまで俯瞰して判断する理性はない。
 それでも名前が見るからに人畜無害そうな人間であることは、誰の目から見ても間違いなかった。黒尾が必死に否定するならばいざ知らず、名前の必死な様子はそれなりの説得力も持っている。
「ふうん、そうなんですかぁ? 別にいやらしい友達でもいいと思いますけど」
 しれっと言う女性に、「まだ言うか」と黒尾が呆れ声を出す。
「いや、でも実際『最近仲いい』って、その言い方がもうやらしい連想をするじゃないですか」
「さっきから言ってるけど、本当にそれはただただお前がいやらしいだけだからな」
 な、苗字さん。とふたたび黒尾に同意を求められ、名前は曖昧に微笑んだ。つい先ほど『最近仲いい』と紹介され喜んでいた名前としては、同じ言葉を聞いて即座にいやらしさと直結させる瞬発力に恐れすら感じていたが、さすがに初対面の相手にそんなことを堂々と言えるはずがない。
 ともあれ。
 どうにか自己紹介を済ませ、あらぬ疑惑も果たしたところで、会話は一周して最初の話題まで戻ってきた。
「で、お前は一体こんなとこで何してんの」
「友達んち行く途中です。私の『最近仲いい友達』がこのへん住んでて」
 途端に黒尾が眉間に皺を寄せた。
「お前、人のことどうこう言ったわりに……」
「なんですか。黒尾さんの真似して言っただけなのに」
「いや、だってお前のそれは本当にいやらしい時のやつだろ」
「否定はしないですけど」
「否定しないんかい」
 はたして『最近仲いい友達』の家に向かう途中だったという彼女は、その後ふた言三言交わしたのち、あっさりと黒尾と名前とわかれた。十字路を折れて去っていく美しく背筋の伸びた後ろ姿に、名前は何とも言い難い敗北感を感じる。圧倒されている間に嵐が過ぎ去ってしまったような、そんな感覚だった。
 いまだ呆然としながら、名前はほうけた声を出す。
「なんというか、……活力のみなぎった人でしたね」
「オブラート五百枚くらい包んでる」
 さすがに黒尾の知り合いを相手に、あまりあけすけな感想を口にするわけにはいかない。そう思っての配慮だったが、黒尾にはあっさりと看破されてしまった。
 名前の周りには、先ほどの女性のようなタイプの知人はいない。大学の知人の仲にはもしかしたらいるのかもしれないが、それほど親しくもない名前にそうした個人的な話をしてくるような人はひとりもいなかった。
 それを考えると、黒尾と女性はかなり親しい間柄なのかもしれない。そうでもなければふたつ年の離れた男女が、あれほどあけすけに個人的な事柄を話したりはしないのではないか。少なくとも、名前のうちにある価値観やものの常識にのっとれば、親しくなければあんな会話は生じない。
「俺らも行くか」
 黒尾がそう言って、また歩き出す。名前も歩調を合わせて黒尾の隣に並んだ。遠くに橙が見えていた夕空もいつのまにかすっかり日が暮れ、高いところに月が輝いている。雲の少ない天には、明るい星の少ない秋の夜空が黒黒と広がっていた。
「黒尾さんのお友達には、いろんな方がいるんですね」
 角の立たない表現を考えながら、名前はぼそりと呟いた。黒尾本人はあやしげな雰囲気に反して社交的な性格をしているが、幼馴染の友人として紹介された研磨はその対極をいくような内気な性格だった。先ほどの女性は、また別の方向に個性的だ。
 ひるがえって、黒尾の友人としての自分はどこに位置するのだろう。ふと名前は考える。どちらかといえば内向的だが、研磨ほど人付き合いをいとうわけではない。黒尾と研磨の間くらいだろうか。そんなことをぼんやり思い、だがそれもしっくり来ないとすぐさま打ち消す。
「あれはちょっと極端にゆるい例だけど」黒尾があたかも思案しながらという声で応じた。
「俺の周りの大学生っつったらああいうノリのが多かったからな。そう考えると、研磨もちょっと変わってるけど、苗字さんもあんま俺の友達にいないタイプかも」
 その言葉を一体どう受け止めるべきなのか、名前には分からなかった。手放しに喜ぶこともできず、さりとて悪い意味の言葉でもなさそうな表現に、名前の心はどっちつかずに揺らぐ。黒尾の手が、ぽんと名前の肩を叩いた。
「ああいうノリで生きてる苗字さんって、まったく想像できねーな」
 胸の中を針でつついたような、ちくちくとした痛みを感じて名前は顔をしかめる。幸い辺りは暗く黒尾に気付かれることはなかった。名前はそっと胸に手をあてて、騒ぐ心をそっとさすった。
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