021

 結局キャンパス内の案内というよりは、ただ人気のないところを散策しただけというような逍遥しょうようを終え、名前と黒尾はふたたび大学祭のメインエリアへと戻ってきた。夕刻が近づきつつあるためか、先ほどまでよりも来客は心なしか減ったように見える。出店を見ながら歩いていても、人にぶつかることが少なくなった。
 おすすめされたじゃがバターの出店の場所はすでにチェックしてある。出店しゅってんしている女子バレー部は部員数が多いので、きっと出店にも力が入っているに違いない。もっとも名前は大学祭用に買ったパンフレットを読んではじめて、女子バレー部が大所帯であることを知ったのだが。
「そういや苗字さん、大学に友達いないって言ってたけど、さっきの法被の子とか普通に話してたな」
 思い出したように黒尾が言う。法被の子というのは、名前と黒尾を見かけて大盛り上がりしていた女子のことだろう。
「さすがに話くらいはしますよ。グループ課題がある講義もありますし、あとゼミが同じ子とか、ロッカーが隣の子とか」
「そういう子のこと、世間では友達って言わない?」
「学外で一度も会ったことないですし、お昼ご飯一緒に食べたこととかもないので……」
「なるほど、それはギリギリ知り合い判定」
「そういうことです」
 名前も意固地になって人との交渉を絶っているわけではない。当たり障りなく、角が立たない程度には周囲の人間ともかかわるようにしている。大方の知人とは、講義前に旅行先のおみやげのお菓子を配布していたら、名前にもひとつくらい分けてくれるくらいの距離感を保っている。
 無論、かつて名前が孤立する原因をつくった通称・女帝の影響を、彼女が卒業して三年経った今も色濃く受けている学生もいる。どういうわけか彼女たちは今も名前に敵愾心を抱いていた。名前とて誰とでもそこそこに親しくできているわけではない。だが、そういった手合いは今やごく少数だ。
「女バレにも学部の子いる? さっきの子みたいに苗字さんとも普通に話す子?」
「女バレに誰がいたのかがちょっと分からないんですが……」
 名前が学部の知り合いと話すのは、ほとんどが講義の前後だ。それも大抵は世間話か、講義の内容に終始する。たとえ普通に話をする相手であっても、彼女たちがどんな部活やサークルに所属しているかまでは知らない。
「なんだ、苗字さんの友達なら話しかけようと思ったのに」
 言葉ほど残念でもなさそうに黒尾が言った。名前は首をひねる。
「なんでですか。また変な噂立てられますよ」
「それは困る。俺じゃなくて苗字さんが」
「私も言うほど困りませんが。もう卒業まで何か月もないですし」
「半年くらいあるだろ。卒業を感じるのが早すぎるわ」
 そんな話をしながら、ふたりはじゃがバターの出店へと向う。キャンパス内の数ある大樹の中でもとりわけ大きな樹の横を通り過ぎたとき、
「あっ」
 前方に視線を向けていた名前が、唐突に短く声を発した。
「黒尾さん、ちょっと、ちょっとだけこちらへ」
 いきなり黒尾の腕を掴んだ名前は、そのまま黒尾を大樹の陰へとぐいぐい引っ張っていく。黒尾は驚きながらも、名前に引っ張られるまま木陰に隠れた。
「え、なになに。怖いんだけど」
「すみませんが、少しの間だけここに隠れていてください」
 木陰の根元にはちょうど珊瑚樹の生け垣が伸びている。名前がそこにしゃがみこんだので、黒尾も戸惑いながらそれにならった。大柄な黒尾が生け垣に身をひそめるにはかなり背を丸めなければならなかったが、生け垣の向こうに集中している名前は黒尾の苦労に気付くこともない。
 密集して葉がしげる珊瑚樹に視界を遮られ、黒尾と名前には生け垣の向こうを見通すことはできない。だがじきに数人の女子の集団が、生け垣沿いの道を歩いているのだろう声が聞こえてきた。
「聞いた? 苗字さん、これみよがしに彼氏連れてきてるって」
 やけにはっきり聞こえてきた声に、名前と黒尾は目を見合わせる。知り合い? と黒尾が小声で尋ねたので、名前は無言で頷いた。同じ学部の生徒だ。だが名前がわざわざ隠れたのは、彼女たちがかつて女帝の派閥に属していたからだった。
 今でもけして友好的な関係を築いているとは言い難い。その証拠に、彼女たちはすぐそばに名前が潜んでいることを知らず、堂々と名前の噂話――それもおそらく悪口だろう噂話に興じていた。
「彼氏じゃないって、友達だって言ってなかった?」
「そんなの、実際どうだか。いやだねー、最後の年になってまで見栄張らんでもいいのに」
「まあ、そんなかっこいい知り合いなら、彼氏じゃなくても自慢したくもなるんじゃない?」
「男の噂でしくじったんだから、わざわざ連れてこなくてもいいのにとは思うけど」
 聞こえてきたのはあからさまな侮蔑の言葉だった。名前は羞恥心を感じることもなく閉口する。
 これでも名前の通っている大学は偏差値の高い難関大学で通っている。しかし今生け垣の向こうにいる生徒の会話の内容は、意地悪を覚えたての小学生と何ら変わらないようなレベルだった。
「でも、正直意外だったよ。苗字さんって特待でしょ? ひとりで勉強ばっかやってるから、あんま恋愛とか興味ないと思ってた。ほら、一年の最初のときのだって、結局は因縁つけられてたようなもんだったじゃん」
 その言葉に、名前が目を瞬いた。女帝の派閥に属している以上、彼女たちは無条件に名前に非があるものと信じ込んでいると思っていた。だが意外にも、入学当初の騒動については名前が難癖つけられた側だと見做しているらしい。
 隣にしゃがむ黒尾からのもの言いたげな視線には気付き、名前はひとつ頷いた。熱心に盗み聞きしたいわけではないものの、彼女たちが通り過ぎるまではここに隠れているしかない。今ここで姿を現したら、それこそ卒業までの半年気まずい思いをし続けることは必至だ。
「まあ、実際因縁かどうかは知らんけど。でも、うちらのこと下に見てるのはたしかだよ」
「特待だからね、実際うちら下だよ」
「そりゃあ友達いなくてもいいんだろうね。私らじゃ友達として釣り合わないんでしょ」
「卑屈だなー」
 そうなの? とまた黒尾が口パクで問う。名前は首を横に振った。名前が熱心に勉強をしているのは、そもそも勉強するために大学に入学したからだ。ついでにいえば、友達がいないので勉強とバイト以外にこれといってすることもない。だから勉強しているだけで、それについて他人と比べてどうということを、名前はことさら考えたことがなかった。
 やがて彼女たちの声が遠ざかる。しばらくその場で待ってから、そっと生け垣から顔を出した。彼女たちの後ろ姿を確認すると、揃いで着ているシャツの背中には大学名とバレー部の文字が記されていた。
 しゃがんだときに衣服についた草を手で払い落しながら、黒尾が立ち上がる。
「ああいうの、言わせといていいの?」
「まあ、そうですね。どうでもいい人の言うことは気にならないので……」
「おお、ドライだな」
「ドライにもなるでしょ、友達いないんですよ私。ひとりで湿ったら寂しい人じゃないですか」
「湿ってなくてもいいけどさ」
 もしも名前にも身に覚えのある事実だけを悪しざまに話題にされていれば、多少落ち込みもするかもしれない。自覚していることを他人の口から改めて言われるのは、存外に傷つく。
 だが名前にとって、先ほど聞いた言葉はまったく心当たりのない空事そらごとでしかなかった。ならば心を痛めることもない。わざわざ訂正しようとも思わない。
 ふと黒尾が黙り込んだことに気付き、名前は黒尾の顔を見上げる。黒尾は呆れたような感心しているような、どっちつかずの複雑そうな顔で名前を眺めていた。
「なんですか、その微妙な顔……」
「一応言っておくけど、もし落ち込んでんなら落ち込んでるって言ってくんないと、こっちも慰めようないからな」
「本当に落ち込んでないので慰めてもらわなくても大丈夫です」
「あ、そう」
 短く呟いて、それから黒尾がふはっとおかしな笑い方をした。名前が首を傾げて黒尾を見上げると、黒尾はにやりと口角を上げて名前の肩を叩いた。
「じゃがバターやめて、ちょっと早いけど外に夕飯食いに行くか」
「いいんですか? じゃがバター、というか女バレを見ていかなくても」
「いいって。苗字さん何食べたい? 寿司?」
「回らないやつでもいいですか?」
「あー、まあ、いいよ。うん。いいだろうとも」
「嘘です。回るお寿司食べたいです」
 ちょうど大学の裏手に回転ずしのチェーン店があった。学生御用達の店だが、今日は大学祭が盛況なぶん、却って空いているはずだ。
 たらたらと歩きながら、名前と黒尾は裏門を目指して歩き始める。歩きながら、名前は自分の不甲斐無さについて思いを馳せていた。
 大学祭を見て回ったわりに、何も買わずに撤退することになってしまった。そのことに、名前は一抹の申し訳なさを感じる。じゃがバターをやめて外に買い物に出ようと黒尾が言いだしたのは、十中八九名前を気遣ってのことに違いない。名前の噂話をしていたのが女子バレー部の部員だということに、黒尾もまた気が付いたのだろう。
 だが当の黒尾はまったく気にした様子もなく、軽い足取りで名前の隣を歩いている。いつもと同じ、名前の普段の歩調よりもやや速く、しかし黒尾の歩調よりはきっと遅いであろうペース。名前と黒尾がふたりで歩くときの、お決まりのペース。
 裏門が見えてきた頃、ふと黒尾が切り出した。
「苗字さん、今度、研磨以外の友達にも苗字さんのこと紹介していい?」
 その脈絡の無い発言に、己の不甲斐無さについて沈思していた名前は、ぽかんと口を開け黒尾を見つめる。友達に紹介。その言葉の意味を、名前はうまく掴めず混乱した。
 そんな名前を黒尾は楽しそうに眺めている。面白がるような表情だが、名前を惑わせたり騙したりしてやろうという意思は感じられない。つまり友達に紹介というのは、そのまま文字通り、黒尾の友達に名前を紹介したいということなのだろう。
「私をですか? ……いや、なんで?」
「嫌ならいいです」
 あまりにもあっさり引き下がる黒尾に、名前は脱力した。それと同時に、黒尾の思惑にも察しがつく。大方先ほどの噂話を聞いて名前を不憫に思っただとか、その辺りなのだろう。名前が慰めを必要としない以上、励ますには言葉ではなく別のアプローチが必要、ということなのかもしれない。
 どこまでも世話焼き気質の黒尾にとって、名前はどう足掻いても世話を焼きたくなってしまう対象なのだろう。研磨を紹介された後なので、名前としてもその理由が分からないわけではない。
 嫌ならいいと引き下がったわりには、黒尾の視線は名前の返答を求めていた。短い思案ののち、名前は答えた。
「黒尾さんが紹介したいと思ってくれるなら、私は嫌ではないですよ」
「なんか含みありげな言い方だった?」
「含みというほどのものはないです」
 逆に言えば、含みとも言えないほどの気掛かり、いや気掛かりですらないような思いならばある。口に出すことも憚られるような、些細でつまらない思考だ。
「俺の友達と友達になりたくない? 研磨とはいい感じだなと思ったんだけど」
 重ねて問う黒尾に、名前は押し黙った。なんとなく、名前が素直に喜んでいないのだということを、黒尾は敏感に感じ取っているように思えた。
「正直に言っていいよ」
 黒尾のその声は、実際には、正直に言ってほしいという懇願の声に聞こえた。逡巡ののち、名前は言った。
「……正直に言えば、紹介していただくのは、孤爪くんだけでいいかなとは思います」
 裏門を抜け、道路に出た。辺りに人影はない。縁石に足を掛け、名前はその上を平均台を渡るように歩いた。それでもまだ、黒尾との身長差はかなりある。そろりと名前が黒尾を見上げると、黒尾は穏やかな顔で笑っていた。
「なるほど。ちなみにそれって、理由とかある?」
「……もともと大人数で遊ぶのが、そんなに得意じゃないというのもあるんですけど」
「けど?」
「私は黒尾さんとゆっくりお茶したり、こうやってふたりで話す時間が結構、かなり好きなので……。その、今はまだ、友達を増やさなくてもいいかなぁとか、思ったりもしていて。ああ、でも孤爪くんを紹介してくれたのは本当に嬉しかったんですが」
 紹介を受けること自体はけして嫌ではない。黒尾のことだから、きっと名前とノリの合わないような人間を、無理に名前に引き合わせたりはしないだろう。すでに名前は黒尾に一定の信頼を置いている。その黒尾から紹介される人物もまた、男女を問わずある程度信用のおける相手なのだろうと思う。
 だが紹介を受けるということは、黒尾が名前に割いてくれる時間の一部を、黒尾以外の人間も交えて過ごすということだ。先日研磨を紹介されたときのことを考えても、黒尾は間に入って会話をスムーズに運ぶことこそすれ、基本的には名前と相手が勝手に仲良くなるのに任せるだろうということが、容易に想像できる。
 見知らぬ誰かと仲良くなるために時間と労力を使うくらいなら、その時間で黒尾とひとつでも多くの言葉を交わしたい。ひとつでも黒尾との穏やかな時間を楽しむことに尽くしたい。
「だから、黒尾さんからの提案は大変ありがたいことだとは思っているんですが……って、ちょっと。何を笑ってるんですか」
 話を途中で切り上げて、名前はむすりと黒尾を睨んだ。黙って名前の話に耳を傾けていたはずの黒尾は、いつのまにか小刻みに肩を震わせ笑っていた。顔を背けてはいるものの、身振りからして笑いを堪えていることは一目瞭然だ。
「いや、笑ってない。全然笑ってない」
「うそ、笑ってるじゃないですか」
「いや、本当に笑ってねえって。ただ、ちょっとさ……苗字さんのこういうところを、さっきの大学の子らは知らねえんだなぁと思って」
「こういうって」
「苗字さんの可愛いところ」
 ようやく名前の方を向いた黒尾が、目を弧にして笑った。どこからどう見ても悪戯めいて、名前を揶揄うような表情だ。それなのに、名前には黒尾のその目がずいぶん優しげに見えた。今度は名前の方が気恥ずかしくなり、ぱっと顔を黒尾から背ける。視界の外で、黒尾が笑っているのが気配で分かった。
「黒尾さんの可愛いの基準、多分ちょっと変ですよ」
「なに、照れてる? 苗字さんもしかして照れてるのかな?」
「照れたらだめですなんですか。そんなの絶対照れるでしょ」
「存分に照れてどうぞ」
 心なしか黒尾の声が嬉しそうに弾んでいるように聞こえた。一体何が嬉しいのやら、名前にはさっぱり分からない。
 そんな名前の心の声に答えるように、
「言われてみればたしかに、俺もまだ苗字さんのことは隠しておきたいかも」
 黒尾がしれっと口にする。
「隠してるんですか。私、隠されてるんですか」
「そりゃあね。苗字さんはうちの秘蔵っ子ですよ」
 どこまで本気でどこから冗談かも分からないことを口走り、黒尾はまた嬉しそうに笑った。
- ナノ -