020

 話をしつつ歩いていると、じきに白い仮設テントが並ぶエリアにやってきた。
「この辺りに飲食系の出店が固まってるっぽいですね」
 パンフレットを見ながら名前が説明する。もっとも大きな教育棟のあたりに飲食系がかたまっているのは、作業スペースを教育棟内に用意しているからだろう。しだいに食べ物のにおいが濃くなってくる。夕食時にはまだ早いが、否応なしに食欲が刺激されるにおいだった。
「どうしますか。とりあえず何か買って食べますか?」
「んー、そうだな……」
 名前が黒尾の前にパンフレットを差しだす。黒尾は一旦足を止めると、キャンパス内の見取り図に出店の情報が書き加えられた地図を、腰をかがめて覗き込んだ。
「そんなに腹減ってるわけでもないから、何か買って食べるなら軽めか……」
 パンフレットに視線を落としたまま、黒尾がひとまずの方針を立てたその時。
「あれ、名前ちゃん?」
 ふいに声を掛けられ、名前はパンフレットから顔を上げた。辺りに視線を走らせると、人混みの間を縫うようにして法被はっぴ姿の女子が名前の方へと寄ってくる。
 名前と同じ学部、同じ学年の女子だった。
「どうしたの? 学祭期間中はゼミもないでしょ?」
 不思議そうに首を傾げ、女子が言う。その口ぶりから、名前が大学祭に興味を持っていないことは端からバレているようだった。相手は法被姿なのだから、当然大学祭を満喫しているところなのだろう。少しばかりばつが悪い思いをしながら、
「そうなんだけどね。ちょっと知り合いの人がキャンパス内の見学したいそうで」
 と名前は答える。そこで初めて、女子の目が名前の隣の黒尾へと向いた。黒尾が視線に気付き、口許に笑みを浮かべる。
「どうもこんにちは」
「こ、こんにちは……」
 明らかによそ行きの笑顔を浮かべている黒尾に、名前は黒尾に抱いた第一印象を思い出した。雰囲気があり格好いいが、かぎりなく信用ならなさそうな男性。アルバイト先の常連客の孫というお墨付きがなければ、どうにも近寄りがたい雰囲気のひと。
 名前は乾いた笑いを漏らしたが、女子は黒尾の雰囲気にあてられて、ぽーっとうわの空になっていた。彼女をうつつに引き戻すべく、名前が法被の袖を引く。途端に彼女ははっとして、それから頬を紅潮させたまま黒尾に頭を下げた。
「こちらの子は苗字さんの知り合い?」
「はい。同じ学部の子です」
 名前は女子をさらりと紹介する。紹介された格好の女子は、頬を紅潮させたままで名前と黒尾を交互に見た。そして、
「こちらはその、もしかして名前ちゃんの彼氏さん……?」
「違うよ。黒尾さんはアルバイト先の……いや、普通に友達みたいな人かな」
「俺、苗字さんにとって友達みたいな人なんだ?」
「あれ、違いますか?」
「まあ、そうといえばそうなんだけど」
 名前と黒尾の遣り取りに、女子は不思議そうに首を傾げる。だが、名前は自分と黒尾の関係を説明するのに、「友達みたいな人」以上に適切な言葉を思い付くことができなかった。茶飲み友達という名称がもっとも正しいのだろうとは思うものの、事情を知らない相手に正しくニュアンスが伝わるとも思えない。
 女子はまだ話を聞きたそうにしているが、名前はあっさりとこの話題を打ち切ることにした。
「私たち今来たばかりなんだけど、食べ物系のお店って何がおすすめ?」
「うーん……、あ、あっちのバレー部が出してるじゃがバター、さっき食べたけど美味しかったよ」
 じゃがバターなら重くなりすぎないし、何より女子バレー部が出店しているというのが気になる。キャンパスの下見は大学祭に来る口実だと黒尾は言ったが、それでも顔を繋いでおくに越したことはない。名前は黒尾を見上げた。
「じゃがバター、どうですか。黒尾さん」
「いいんじゃない? 買いに行こうぜ」
「ついでに女バレの人と話したりとかもしますか」
「いや、それはいい。仕事っつってもあくまで俺は勉強として後ろで見学してる感じだし、今回は余計なことしない」
「なるほど」
 名前は改めて女子の方に向き直る。
「教えてくれてありがとうね」
「ううん、たの、楽しんで!」
 言うが早いか、法被姿の女子はさっさと人混みに紛れてしまう。しばらくその後ろ姿を追いかけると、やがて彼女は立ち並ぶテントのうちのひとつに戻り、名前も見たことのある数人と合流した。
 さらに観察し続けていると、彼女は大袈裟な身振り手振りで何事かを集団に伝えている。その会話の合間に、集団はちらちらと名前と黒尾を盗み見しているようだった。それだけでも彼女たちの間で今現在、どういう話が交わされているのか大体の察しがつく。
「黒尾さん、見ましたか。彼女ものすごい勢いで、後ろに控えてた同じ学部の子のところに駆けていきましたね」
「あれ、いいの? なんか俺のこといろいろ言われたりする感じ?」
 黒尾は気にした様子もなく、余裕の表情でにやにやと笑っている。噂されることに慣れているのか、それとも笑っているだけで腹のうちでは呆れているのか。どちらともとれる表情だ。
「ご迷惑でしたら今のうちに口留めしておきますが。多分あれ、この後ぶわっと広がりますよ」
「苗字さんがいいなら、別にいいよ。俺は正直、バレー以外でここの大学とかかわりないんで」
「私も別にいいです。じゃあ、じゃがバター買いに行きましょうか」
「その前にちょっと色々見て回んない? まだそんなにお腹空いてないだろ」
「そうですね。それでは少し、大学内を案内しますね」
「よろしくお願いしまーす」

 一旦テントの並ぶエリアを離れると、途端に賑やかさは遠退いてしまう。辺りに満ちる静けさは、本来の教育機関として持つ静謐さだった。緑がゆたかなキャンパス内はこの時期、色とりどりの落ち葉でアスファルトを飾られている。
 名前の通う大学は歴史が古く、キャンパス内にはそこかしこに時代をしのばせる佇まいが残っている。建物はほとんど改修して現代風になっているが、あまり使われていない棟や一部の建物は外装をそのままにしているため、知らずに迷い込むとタイムスリップしたような気分を味わうことになる。
 名前と黒尾は、そうした古い建物の方へと足を向けていた。明確な目的地があるわけではないが、大学内を見るのであれば、古い建物を見せた方が面白いだろう思ってのことだ。
「へー、ここが苗字さんの通う大学か」
「女子大っていっても、そんなに共学と変わらないですよね」
「いや、でも女子大ってだけでなんか俺は心がウキウキする」
「ウキウキされても何もないですよ」
 あるのは年代ものの建物と、冬に向け葉を散らす大樹ばかりだ。どちらも見ごたえはそれなりにあるが、ウキウキするようなものではない。
「あっちは?」
 名前たちの行く手にある建物を指し、黒尾が問う。名前がああ、と相槌を打った。
「図書館ですね。行ってみますか?」
 取り立てて見どころのある図書館でもないが、ここもやはり建物だけは古い。名前もよく利用している図書館であり、学生証を持った名前と一緒ならば部外者の黒尾も中に入ることができる。案内しようと思えばできるが、黒尾はすぐに首を横に振った。
「いや、真面目に勉強してる人たちに悪いしやめておく」
 存外まじめに返事をされ、名前は少し面食らった。たしかに大学祭ムードに染め上げられたキャンパス内でも、メインエリアから少し離れれば普段と変わらず大学としての機能は働いている。当然、図書館に勉強しにきている学生や職員もいるだろう。
 だがまさか、そのことを黒尾が気に掛けているとは思わなかった。黒尾はここの学生でも教員でもなく、今日はただ大学祭を目当てにやってきただけの一般客だ。
「……ウキウキしていても、黒尾さんは黒尾さんなんですね」
 名前がそうコメントすると、黒尾が呆れたように笑った。
「そりゃあ、ウキウキくらいで羽目外し過ぎたりするほど若くないですから」
「私とひとつしか違わないじゃないですか」
「だから苗字さんも羽目外したりしないだろ」
 そんなふうに言われてしまうと、名前は何も返せない。自分が黒尾に対していいなと思っているところを、黒尾も当たり前に名前に見出してくれている。そのことを思うと、なんだか妙に気恥ずかしくなった。
 と、歩みが遅くなった名前の前を歩いていた黒尾が、
「っと、ここ段あるから気を付けろよ」
 道の段差に気付き、名前に手を差し出した。自分に向けられたその手を、名前は取ることもなくまじまじと眺める。そんな名前をさらに黒尾が眺める。そしてはたと気付いたように、黒尾は出した手を引っ込めた。
「いや、ここの学生なんだし言わなくても分かるか」
 黒尾のことだから、考えるより先に手を差し出していたのだろう。だが黒尾でなければ多少きざったらしい仕草にも見える。実際、黒尾もそう思って手を引っ込めたのかもしれない。
 しかし名前が黒尾の手を取らなかったのは、段差があることを知っていたからでも、まして黒尾の行為をきざったらしいと思ったからでもなかった。
 名前はただ驚いていたのだ。黒尾がごく自然に、名前が躓かないよう気にかけてくれたことに。
 驚いていたから、うっかり手を取るのを忘れてしまった。
「……ありがとうございます」
 寸時ののち、名前が頼りなげに呟いた。
「気を配っていただいたこと、その、びっくりしましたが、嬉しかったです」
 最初の驚きが引き、名前の胸にはじわじわと嬉しさがこみ上げていた。黒尾にとっては何の気なしの、身に沁みついた気配りの技のひとつなのかもしれない。だが名前にとっては、男性から差しだされた手を取ることは、当たり前のことなどではなかった。
 黒尾の手を取りそびれた自分の手を見下ろす。途端にぽぽぽと顔が熱くなるのが感じられた。
 黒尾はいつもこんなふうに女性に親切にしているのだろうか。名前はそれでも黒尾を茶飲み友達だと思っているからこの程度の照れで済むが、場合によっては本気で女心を弄ぶような事態に陥ってもおかしくない。
 そんな名前の考えを補強するように、
「こんな気配りでよければ、いつでもするけど」
 と黒尾は事も投げに言う。思わず名前は黒尾を凝視した。黒尾がややたじろぐ。名前は構わず、一歩踏み出し黒尾の隣に並んだ。
「黒尾さんのそういうところ、とても素敵だなと思います」
「どうも?」
「ただ、時々優しいというよりも思わせぶりに近いんじゃないかなと思うこともあって、今がそれでした」
「え? いや、そうか?」
 黒尾にその自覚はないらしい。だが名前も引かなかった。自分の恋愛方面への疎さを差っ引いても、なお黒尾の親切は危うさを孕んでいる。
「そうです。少なくとも秀くんは、ほかの女の子に対してはしてるのかもしれないけど、私には絶対にこういう優しさは見せないので……」
「笑うところ?」
「納得するところです」
 しかしそう言いながら、名前はふと気付いてしまった。たしかに従兄弟の矢巾は名前にこの手の親切心を見せることを滅多にしないが、反面親戚らしい気の置けなさで名前を気遣うことはしばしばある。黒尾は以前「年下の女子にはこのくらいの気遣いをする」と言っていた。
 優しさにも適材適所のようなものがあるとするのなら、黒尾が今名前に見せている優しさは年下の女子に対する標準であり、逆に年下の女子以外にはここまで懇切丁寧に優しさを披露したりはしないのかもしれない。
 その『年下仕様』に、いちいち色恋を持ち込む自分の方が、もしかしたら無粋なのではないか。年下を慈しむ心と恋愛を同一視するのは、邪なものの見方なのではないか。
「……すみません。思わせぶりだという発言は撤回します」
「どうした?」
 急に前言撤回した名前に、黒尾が首を傾げた。
「私の心が邪でした。年下の女子に対する男の人の普通って、こんな感じなんですよね? 前に黒尾さん、そう言ってましたもんね」
「あー、うん。まあそうだな……」
「そう考えると、秀くんは同い年だからこういう優しさがなくても、それはそれで普通なのかもしれないですね」
 むしろ今更矢巾に度が過ぎるほどに気遣われても、名前の方が困ってしまう。優しさの適材適所、適量というのはやはりあるのだろう。名前はひとりうむうむと納得し、どこか釈然としないような顔つきの黒尾をにこりと見上げた。
「さ、そろそろじゃがバター買いに行きましょうか」
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