019

 ある日の夕刻、名前がアルバイトを終えバックヤードから出てくると、何時の間にやってきたのか、カウンター席に黒尾がひとり座っていた。今日は休みだったらしく、ラフな服装に身を包んでいる。
 お茶会だろうか、名前はちらりと考える。だが先日名前が研磨を紹介されてから、まだそう何日も経っていなかった。ということは黒尾は名前と関係なく、ただコーヒーを飲みに来ただけだろう。
 名前はぺこりと頭を下げて、黒尾のわきを通り過ぎる。そのまままっすぐ出入口の方へと向かおうとしたところで「いやいやいや、待ちなさい」と背後の黒尾に声を掛けられた。
「こんにちは、黒尾さん」
「はいこんにちは。バイトおつかれさま」
 挨拶と労いの言葉を交わしたところで、黒尾が名前に手招きした。
「苗字さん、ちょっとそこにお座りよ」
 そう言われ、名前もカウンター席に着く。黒尾に何か飲むかと聞かれたが、それは丁重に断った。黒尾と茶飲み友達になって早数か月。黒尾がこういう絡み方をしてくるときにはろくな話が出ないということを、名前もそろそろ学習しつつある。
 そして案の定、黒尾の切り出した話題は名前にとって、あまり歓迎できる話題ではなかった。
「ちょっとちまたで小耳にはさんだんだけど、来週末、苗字さんの大学で大学祭があるというのは本当かい」
「……どこの巷で聞いてきたんですか?」
「そりゃもう、勿論うちのCEO界隈ですとも」
「孤爪さんって何でも知ってますね」
「まあね、彼は生き馬の目を抜く業界で成り上がる現代っ子だから」
 身内のことだからか、何処か誇らしげに黒尾は言う。研磨の副業については、名前も先日ざっくりと内容を教えてもらったばかりだ。いろいろ手広くやっているが、今回は配信者としての活動のなかで得た情報なのだと、黒尾は名前に説明した。
 人気の配信者は芸能人顔負けの集客力を持つ。彼らには日夜数多のオファーが押し寄せるが、大学祭のゲスト出演もそのオファーの中には含まれる。現在研磨は積極的に顔だしをしていないから、その手の依頼はギャランティの額を問わずすべて断っているのだが、その断った依頼先のうちのひとつが名前の大学の大学祭実行委員会なのだった。
 そこまで話を聞いたところで、名前はなるほど頷く。そして、
「先に言っておきますが」
「一緒に行こうぜ」
「なんで先に言わせないんですか……」
「だって苗字さんと一緒に行きたいから」
 ぬけぬけと言ってのける黒尾に、名前はがくりと項垂うなだれた。今の話しぶりからして、名前が渋ることを黒尾は想定していたに違いない。そのうえで一緒になどと言うのだから、黒尾も大概強引だった。
 そもそも何故、黒尾は急に大学祭の話など始めたのだろうか。大学祭が近々開催されるからといっても、急に行きたがるというのは黒尾にしては不自然だ。
 そんな名前の胸中を読んだかのように、黒尾は「これには深い理由があってだな」などと胡乱うろんなことを言い始める。
「苗字さんの大学って女子バレー部強いだろ」
「……そうなんですか?」
「知らない? 秋季リーグ結構頑張ってんだけど」
 そう言われても、名前にはいまひとつぴんと来なかった。なぜなら名前の大学生活は、学業に専心しているといっても何ら瑕疵かしのないような代物なのだ。アルバイトこそそこそこにしているが、大学内のこととなると限られた範囲にしか興味がない。
「すみません、部活とかサークルとか、そっちのことにとことん疎くて」
「まあそうだろうなとは思ったけどな」
 さしてがっかりした風もなく、黒尾が言った。
「苗字さんが知らなくても、バレー部が強いのは事実。で、知っての通り俺はバレー協会の人間なわけです。そういう関係で今度一回、おたくの大学と仕事で絡みがありそうなんだよな」
 なるほど、それで。そういう事情ならば、黒尾がいきなり名前の大学についてどうこう言うのにも得心がいった。それが大学祭にどう繋がるのかは別として。
 名前のいぶかる視線を受けて、黒尾が苦笑いして続けた。
「で、俺としては仕事で行く前に一回キャンパス内歩いておきたいなーと。そう思ってたところで、そういやここって苗字さんの通ってる大学だよなーと思い出したんだよ。ついでに大学祭だという話まで聞こえてくる、と、まあこういう事情です」
 ひと通り黒尾の話を聞き終えた名前は、おもむろに長く息を吐き出した。
「なるほど。それで、今の話のどこまで本当で、どこからが大学祭に行くための口実でしょうか」
「仕事で足運ぶことになりそうなのは本当。つっても、俺は女子バレーの方は全然で、今回は一年目だし勉強がてらについていくだけ」
「じゃあ別にキャンパス歩いて下調べとかいらないんじゃないですか……」
「まあまあ、細かいこと気にすんなって」
 平然と笑う黒尾に、名前はふたたびがくりと項垂れた。要するに、仕事の下調べにかこつけて大学祭に遊びに行きたいという、ただそれだけの話ではないか。しかも案内人として名前のことを駆り出そうとしている。
 黒尾には以前、夏祭りや映画に連れて行ってもらったし、黒尾が名前のためを思って連れ出してくれていることは、名前もちゃんと分かっている。感謝ももちろんしてはいる。だが、今回ばかりは話がどうにも違う。名前は母校の大学祭に、まったくもって興味がなかった。
 涼しい顔をしている黒尾に向け、名前はじろりと恨めし気な目を向ける。断ることももちろんできる。勝手にどうぞとねつけたところで、名前が悪者になることはないだろう。
 だが一方で、名前は黒尾に様々な場面で恩を感じている。食事を奢ってもらったこともある。その借りを名前はまだ返していなかった。黒尾が貸しを笠に着るようなことはないだろうから、これは単に名前の気持ちの問題でしかないのだが――ともかく。
「この頃黒尾さん、遠慮がなくなりつつありませんか……?」
 項垂れたまま悔し紛れに呟くと、黒尾は「そうか?」などとしれっと言う。
「そうですよ。夏頃の控えめで慎重な黒尾さんはどこに行ってしまったんですか……」
「けど、苗字さんが遠慮されすぎると嫌だみたいなこと言ったんだろ」
「そうだけど、そうだけれども……!」
「この間、植物育てる云々で俺がやらかしたのを後から謝った時も、結局広い心で許してくれたしな」
「あれくらいのことは許すも許さないもないですけど、蒸し返すのはやめてください」
 にやつく黒尾に名前は肩を落として溜息を吐いた。
 研磨を紹介された日の晩、帰宅してしばらくした頃、黒尾からわざわざ詫びる電話がかかってきた。あの時は気分を害したわけでもなかったし、むしろ黒尾に気を遣わせたことに恐縮してしまい「気にしてないです」と言ったのだが、こんなことならばもっと強気に出ればよかったのかもしれない。今更ながらに名前は反省する。
 そんなことを考えていると、
「そんなに嫌?」
 黒尾がふいに名前に尋ねた。肩を落としたついでに伏せていた顔を上げると、身体ごと名前の方に向けた黒尾の目と視線がぶつかる。その瞬間、名前がぎくりと顔をこわばらせた。
 黒尾の顔に張り付く表情は、先程までの名前を揶揄って楽しむような笑顔ではない。そこにあったのは、柔らかな笑顔ながらも名前を気遣っていることが分かる淡い微笑。気遣いの表情に、いつしか取ってかわっていた。
「まあ、大学祭も無理にとは言わんよ。無理強いしてまで苗字さんと大学祭回りたいとは俺も思わねえしな」
「……ど、どうして、そんな」
「ん?」
「ずるい……遠慮で引き気味になるのをやめたと思ったら、今度はそうやって気遣い……、何、その……ええっ?」
「おお、壊れた。最近よく取り乱すなー」
「だっ、誰のせいだと思ってるんですか……。だいたい私だって、黒尾さんと大学祭、行きたくないわけじゃないですし……」
「これはまた古いタイプのツンデレを」
「ツンデレじゃないです」
 大学祭に興味がなく、従って行きたいとも思わないのも本音だが、黒尾と一緒に大学祭を回るのは楽しかろうというのも、掛け値なしに名前の本音だ。ただ、正直な心情としては行きたくない、面倒くさいの方がやや勝っているというだけの話だった。
 だが黒尾は名前からの言質げんちを取ったことで、すっかり一緒に大学祭に行く気になっている。
「嫌じゃないならよかった。じゃあ来週末、俺をキャンパスに連れてって」
「そんな『南を甲子園に連れてって』みたいに言われても」
「お、通じた。苗字さん、『タッチ』分かんの?」
「この台詞しか知らないです」
 タッチ名作だよ、というオーナーの声がカウンターの奥の調理スペースから聞こえてきて、名前は覇気のない笑みをこぼした。

 ★

 翌週末、名前は黒尾と待ち合わせをして、自らの通う大学へと赴いていた。
 名前の通う女子大学は、他大学に比べ学部数も少なければキャンパスの面積も小さい。だが大学祭ともなれば、キャンパス内も大いに華やぐ。名前は普段の穏やかかつ厳粛な教育研究機関としての大学しか知らず、賑やかなキャンパスが見慣れぬ場所のようで早速気おくれした。
 そんな名前の気持ちを敏感に察知してか、黒尾がにやりと笑った。
「俺も大学生のときは結構いろんな大学もぐりこんでたけど、さすがに女子大ははじめて入るな」
「黒尾さんみたいな男の人がキャンパス内を闊歩してたら、ちょっと悪目立ちが過ぎますもんね」
「女装しても無理だろうか。いや無理だな」
「そもそも女装してまで女子大にもぐりこもうとしないでください」
 開放された正門を通り、ふたりは大学の敷地内に足を踏み入れた。名前の手には事前に大学祭の実行委員会から購入した、食券つきのパンフレットが握られており、ところどころには付箋とマークがつけられている。
 黒尾と一緒に大学祭を見て回るのは気が進まない。だが行くとなれば準備は念入りに、用意周到にすべきというのが名前の考えだった。特に今回は黒尾に案内人としてあてにされている。頼りがいのあるところを見せなければならない。
「一応言っておきますけれども、大学祭といっても、うちの大学は共学の大きな大学みたいに派手なことしないそうですよ?」
「ああ、そうなんだ。じゃあぐるっと見て、どっかで飯食って帰る?」
「それ大学祭来た意味ありますか? ご飯だけでよくないですか?」
「すべきことをした後に食うからこそ、飯はうまいんでしょうが」
「大学祭に行くのって、すべきことですかね……」
 張り切ってみたものの、黒尾の考えがどうにも読めない。名前は肩を落とした。名前がいくら考えてみたところで、そもそも黒尾が具体的に何を見たい、何をしたいということがひとつも言わないのだから、分かりようもない。キャンパスの下見をしたいというのが口実に過ぎないということは、すでに先日黒尾が自ら白状している。
 とはいえ、すでにふたりはキャンパス内にいるのだ。来てしまったものを今更どうこう言っても仕方がなかった。黒尾は名前の隣を歩きながら、物珍しげにきょろきょろ辺りを見回している。
「へえ、なんか結構手作り感」
「主に大学祭の実行委員が頑張ってるらしいですが、結構いろいろ大変だったみたいですよ。学祭間近は泊まり込みだそうで」
「すべてに『らしい』とか『みたい』とかついてるんだけど」
「しょうがないじゃないですか、私はこういうのの内幕をあんまり知らないんですよ。大学祭期間も、休講でラッキーとしか思ってなかったですし」
 大学祭の開始期間は、一週間まるまる休講になる。大学院の研究室はこの間も通常通り開いているのだろうが、学部生の名前にとってはありがたい秋休みだった。
「一、二年の頃とかも全然参加しなかった?」
「していると思いますか? この私が」
「まあ、そうだわな」
 呆れた様子もなく、黒尾が真顔で頷いた。大学に友達のいない名前には、大学祭などまったく無縁のイベントだった。
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