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 東京某区、繁華な観光地を擁する駅からさらに数駅先で電車を下車し、一方通行の細い路地をしばらく道なりに進んでいった先に、名前がアルバイトをする喫茶店『猫目屋』がある。
 平日の昼下がり、店内にはほとんど客はいない。唯一埋まったテーブルでは、常連の老夫婦がコーヒーカップを手に、カウンター内のオーナーと世間話に興じている。
 長く使い込まれて飴色になったテーブルに濡れ布巾をかけながら、名前は常連とオーナーの会話を聞くともなく聞いていた。
「希望通りの職種で就職できたのはいいのだけど、まだ社会人一年目の春だっていうのに、ずいぶん仕事が忙しいみたいでねぇ。今って何処もそういうものなのかしら」
「鉄朗くんももう社会人かぁ。元気な子だから、就職しても全力なんだろうね」
「全力はいいんだけど、休日も暇さえあればなんだかんだって出掛けちゃうんだから。もう家になんて寄り付きもしない」
「彼女でもいるんじゃない?」
「それが違うのよ。全然、そういう話ならどれだけよかったか。ねえ、お父さん」
 そうこぼして溜息を吐き出すのは、夫婦のうち夫人の方。お父さんと呼びかけられた高齢の亭主は、口を開かないまま寡黙に頷いた。
 ご主人、いつも全然話さないな。名前は夫人ばかりが喋り倒している夫婦の会話を、不思議な心地で聞いている。と、そうして聞き耳を立てながら手を動かしていると、
「名前ちゃんは就職しても仕事と遊びと上手くやんないとだめよ?」
 ふいに名前の方に話題が投げられ、慌てて顔を上げた。夫人が茶目っ気たっぷりの顔で、名前に笑いかけていた。
「あはは、そうですね」
「今大学四年生だったでしょう。もう一年もしたら就職? それとも進学?」
「就職ですね。宮城には帰らず、このままこっちで」
「ここに来ても名前ちゃんと会えなくなるのかと思うと、寂しくなるわねぇ」
「バイトは卒業しても、就職したらお客としてここに通いますよ。そしたら黒尾さん、私と一緒にお茶してくださいね」
「そうね、約束よ」
 ころころと可愛らしく笑う夫人に、名前もにこにこと笑い返した。
 大学一年から三年間この『猫目屋』でアルバイトをしている名前は、常連客には下の名前で呼ばれて可愛がられている。名前が今借りているマンションは店からそれほど離れておらず、卒業後に引っ越す予定もなかったから、今の話もあながち常連客へのリップサービスというわけではなかった。
 この店の常連客は、ほとんどが近所に住む地域住民だ。だからこんなふうにして、愚痴とも世間話ともつかない会話が常に店内に飛び交っている。
「うちはこの人もそうだけど、男の人ばっかりの家だから。名前ちゃんと話をするのが楽しくて」
「あ、嬉しいです。こちらこそですよ」
 大学進学を機に上京してきた名前にとっては、こうして常連客に可愛がってもらえるのもありがたいことだ。特にこの黒尾夫妻の夫人は、名前と年の近い孫息子と同居しているらしく、何かと名前を気に掛けてくれる。
 いつもと同じく愛想よく微笑んで、名前はテーブル清掃を再開した。だが、
「そうだ。名前ちゃん、うちの孫と話してくれない?」
 唐突に放られたその言葉に、名前は手元に落としていた視線をふたたび夫人の方に向け、え、と気の抜けた返事をした。
 亭主がわずかに眉をひそめ、オーナーは呆れたように笑う。
「いやいや奥さん、またそんなお見合いみたいなことを」
「いやねぇ、お見合いだなんてそんな大層な話じゃないわよ。名前ちゃんだってまだ学生さんなんだし、そんなこと言われたら重たいでしょう?」
 はあ、と訳も分からず名前は呟く。重たいもなにも、そもそも言われている意味がよく分からない。
 困惑する周囲を置き去りに、夫人はただひとり妙案だとばかりに楽しげにしている。
「そう大袈裟な話をしたいわけじゃないのよ。ただ私と話をするみたいに、うちの孫とも話してみてくれないかな、ってだけのことよ。あの子だって仕事ばっかしてないで、息抜きも大事でしょう。名前ちゃんはお茶を飲んで話に付き合ってくれたらそれでいいから」
「いやー、ははは……」
「ねえ、まずは一回ここで会うだけでいいから。祖母の私の目から見ても、あの子いい子なのよ」
 そう言われても、会ったこともない話したこともない相手とお茶をするなんて気が進まない。困った名前は助けを求めて、カウンターの内側でパンを切り分けるオーナーに縋るような視線を送った。
 さほど広くもない店内で、まさか名前の視線に滲む困惑を読み落とすはずもない。しかしオーナーはひとつ溜息を吐き出すと、
「まあ、いいんじゃない? お孫さん、ああ、黒尾さんちのお孫さんは鉄朗くんというんだけど、ぼくも小さいころから知ってるいい子だよ」
 いい子といっても、もういい大人だけど、と付け加え、オーナーが苦く笑った。オーナーの後押しをうけて、いよいよ夫人は顔を輝かせる。気付けば名前は、断る糸口をすっかり見失っていた。
「ね。今度名前ちゃんのアルバイトが終わるくらいの時間に、ここに来るように言っておくから」
「はあ……」
 なんだかおかしなことになってしまった。そう思いはするものの、名前には黒尾夫人の期待を裏切ることなど、けしてできはしなかった。

 ★

 大学四年のゴールデンウイーク明けといえば、就職活動全盛の何かと忙しい時期だろう。だが人より一足先に就職活動を終えた名前は、必要単位もほとんど取得し終え、悠々自適のアルバイト生活を送っている。
 アルバイトはいくつか掛け持ちしており、そのうちのひとつがここ、喫茶『猫目屋』での給仕だ。週末も含めて週のうちの四日は出勤しており、ただひとりのアルバイトとして重宝されている。

 金曜の午後五時。その日のアルバイト時間がそろそろ終了という頃、木製のドアにかかったドアベルを外から鳴らす客があった。
「いらっしゃいませー」
 カウンター内で水とおしぼりを用意しながら、名前は入店客に声を掛ける。建物の設計上それほど高くないドアから、腰をかがめて暖簾をくぐるように入店してきたのは、なかなか見ないほど長身の男性だった。
 ラフだがだらしなさを感じさせない身ぎれいな男性に、名前は一瞬目を奪われた。長身のせいか、立っているだけで雰囲気がある。大学生、ではないだろう。何らかの組織の看板を背負っていそうな、そんな風格を感じさせた。
 しかし名前が目を奪われたのは、その特異な雰囲気だけが理由ではなかった。
 この人、どこかで見たことがあっただろうか。名前は男性の顔を見上げ、まじまじと見つめる。が、男性がひとつ気まずげに咳払いをしたので、はっと我に返った。席案内もせずに初対面の相手の顔を凝視するなど、不躾にもほどがある。
「おたばこ吸われますか?」
「いや、吸わないです」
「こちらのお席へどうぞ」
 気を取り直し、男性を空いていた席へと案内する。店内にほかの客はいない。
 男性は席にちらりと視線を遣った。しかし、その場を動こうとはしない。名前は首を傾げた。
「ええと、お客様……」
「あー、『名前ちゃん』っていうのは、お姉さんですかね」
 唐突に下の名前を呼ばれ、驚いた名前は男性をまたも凝視する。直後、名前の頭の中で何かがつながった。
「あっ、もしかして黒尾さんのお孫さんですか」
 寡黙な亭主に似た長身とおもざし、気さくで軽やかな夫人の物腰に似た口調。
 飄飄としていて独特の空気を纏った男性は、含みありげな笑みを浮かべて瞠目する名前に、
「どうも。はじめまして、黒尾の孫です」
 短くそれだけ、自己紹介をした。
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