018

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 名前の自転車が角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、黒尾と研磨も自宅に向けて歩き出した。話をしている間にも夜空は一層闇を濃くし、すっかり夜のとばりがおりている。ぽつりぽつりと小さく光る星の間に、赤や青で飛行機のライトが点滅していた。
「クロがおれに知らない女の人紹介するの、珍しいね」
 しばらく無言で何か考えていた研磨が、ふいに口火を切った。研磨のその言葉に、黒尾は先ほどの狼狽うろたえた名前の様子を思い出す。くっくと喉の奥で堪えるように笑うと、その意地悪な笑い方に、隣を歩く研磨が眉根を寄せた。
「おもしれーだろ、苗字さん」
 研磨の視線に黒尾がかまわず言うと、研磨も素直に頷いた。
「クロの話から想像してた人とだいぶ印象違ったけど」
「どんなの想像してたんだよ」
 黒尾が研磨に事前に伝えていたのは、祖母の紹介で親しくなった女子大生がいるということと、その女子はなかなか面白いところもあるのだが、いろいろあって友人がいないらしいということだけだ。おおかた研磨は、友達がいないというところから、物静かな女子を想像していたのだろう。生憎と実際の名前は、淡々とはしていても物静かなわけではない。
「緊張してるっていうから、おれの仕事とか……肩書きとか、そういうのに身構えてるのかと思った」
「まあ、そういうのまったくないわけではないと思うけど。お前はどう思った?」
「いい人なんじゃないかな。世間話しただけだから、間違ってるかもしれないけど」
 夜道を並んで歩きながら、研磨はぼそぼそと言葉を紡いだ。
 研磨の交友関係はきわめて狭い。世間に名が知れ始めた今も、ビジネスを抜きに交流している人間はごくわずかだ。そもそも研磨の場合、たいていの物事は相手と対面せずとも画面越しの遣り取りで事足りる。
 その狭小きょうしょうな人間関係の中に、異性はほとんど存在しない。成功者にありがちな派手な交友関係を、研磨は一切求めなかった。むしろ煩わしさすら感じ、そうした世界とは距離を置きたがるほどだ。
 そんな研磨の性質を知っているから、黒尾はそのことについてとやかく口を出したりしない。まして、女性を紹介するなどこれまで一度もなかった。
「クロのこと気に入ってるんだなとは思ったかな。それに、クロも苗字さんのこと気に入ってる」
 研磨の言い方に他意や含みはない。それでも黒尾は、まるで変なものでも食べたような顔で研磨を見下ろした。
「違った?」
「や、それはそうなんだけど……、なんか、おまえの口から言われるとなんか変な感じするな」
「なんで。自分が引き合わせたんじゃん」
「それもそうだけども」
 実際のところ、あくまで友人としてではあるが、黒尾と名前はかなりうまく関係を築いている。だが、それを幼馴染の口から改めて言われると、多少の気恥ずかしさを感じるのはたしかだった。恋愛絡みならば茶化しようもあるのだろうが、ただの友人関係だけに尚更だ。
 複雑な顔をする黒尾の横で、研磨が重々しく溜息を吐いた。
「でもこういうの、本当はやめてほしい。苗字さんが悪い人じゃないのは分かったけど、初対面の人と話すの疲れる」
「じゃ、初対面じゃなくなった苗字さんとなら、二度目をセッティングしてもいいってこと?」
「なんでクロがそこまでして、おれと苗字さんを仲良くさせたいのか分かんない……」
 研磨は面倒さを隠そうともせず、じろりと黒尾を見上げて睨んだ。
「クロのお気に入りなら、クロが仲良くすればいいのに。おれを巻き込もうとするのやめて」
「俺は苗字さんと仲良くしてるだろ。ついでに言えば、研磨とも仲良くしてる。友達の友達は友達理論」
「その理論、おれには当てはまらないの知ってるでしょ」
「知ってるけども」
「クロと苗字さんが仲いいなら、そのままふたりで仲良くしてればいいんじゃない。おれは時々でいいよ。それに多分、苗字さんもそう思ってると思う」
「……なんで?」
 首を傾げる黒尾を、研磨はつと顎を上げて見上げた。束の間、研磨は探るように黒尾の顔を見つめた。暗がりの中であっても、これだけの距離ならばある程度くっきりと表情や瞳の動きを視認できる。
 だが観察するほどもなく、研磨は黒尾から視線を逸らした。妙な徒労感が研磨をどっと襲ったからだった。
「なんでって……なんとなく、そんな感じかなって思っただけだよ」
 溜息まじりに答えて、研磨はまた黒尾に視線を遣った。今度は観察するふうでもない、何ということもない一瞥だった。
「そもそも苗字さんだって、友達増やしたいわけでもないんでしょ。友達欲しいなら、大学で話せる人ともっと仲良くなろうとするんじゃないの。知らないけど」
 広い交友関係を求めない人間がいるということは、ほかの誰より研磨がよく知っていることだ。友達がいなくても楽しめる遊びは山ほどあるし、一人の方が気楽なことも多い。『仲間』はけして悪いものではないのだろうが、そもそも悪くないと思える、長く付き合える『仲間』に出会える人間はそれほど多くはない。
 その点研磨の所感では、名前と研磨はまったく違うタイプの人間だ。名前は別に、友達がほしくないわけではない。研磨と同じく積極的に他者と交流したがるタイプではないが、研磨ほど人付き合いを苦にはしていない。だからこそ、黒尾は名前に研磨を紹介したのだ。
 黒尾が返事をしないので、研磨は黒尾の顔色を窺う。そしてその表情を見るや、びくりと肩を揺らした。黒尾は悩まし気に目を細め、進行方向にある電柱を睨みつけていた。
「えっなに……」
「俺さー、自分で思ってたよりだいぶ、もしかしたらお節介なのかも」
「いまさら……?」
 聞きようによっては辛辣な研磨の言葉にも気付かず、黒尾はひと唸りしたのち切り出した。
「なんていうかな。俺は昔から研磨おまえのこと見てるから、ひとりで生きていけるタイプの人間がいること知ってるし、別に友達がいなきゃいないでそれなりの楽しみはあるとも思う」
「おれにも友達くらいいるんだけど」
「まあまあ。それは知ってる」
 研磨の不機嫌な反論を軽く流して、黒尾は続けた。
「苗字さんも、多分、わりと、そういうタイプなんだろうな。大学に友達いないって言ってたけど、それでも四年まで平気でやってきたみたいだし、宮城の友達とか親戚とかいればそれでって感じするし。いなきゃいないでどうにかするし、いたらいたで楽しくするしっていう」
「まあ、ちゃんと人から受け入れられたことがある人間なら、その辺割り切れたりするよね。合う人と合わない人がいる、みたいなことを」
「だよな。苗字さんしっかりしてるし」
 だから本来ならば、ネコがどうだと理由をつけて、わざわざ研磨と名前を引き合わせたりする必要はないのだ。子供じゃないのだから、友達が欲しければ名前が自分でどうにかするだろう。友達の友達は友達なんて理論を、名前はきっと求めていない。
「なのに、お前と引き合せたりしたのは、ただのお節介じゃねえのかなーみたいな」
「自信なくした?」
「いや、最初から自信満々じゃないんで」
「そういえばクロ、おれには人と引き合せるようなことしなかったよね。バレーには引きずりこんだけど」
「それはおまえ、でも、楽しかっただろ?」
「まあね」
 黒尾によってバレーに引きずり込まれたことにより、結果的に研磨の世界は広がった。今も変わらず交友関係が続いているのは、ほとんどがバレーを介して知り合って友人だ。
 だが研磨が黒尾にもたらされたのはバレーボールという道具、世界との繋がり方のひとつに過ぎない。そこから人と繋がったのは間違いなく研磨自身の意思であり、黒尾が研磨に意図なく個人を紹介したことは、これまで一度だってなかった。
 短い逡巡ののち、研磨は視線を落として言った。
「お節介かどうかって言われたら、まあ、正直お節介だと思うけど」
「うお、直球……ちょっとショック……!」
「でも、面倒見のよさはクロのいいところだと思うよ」
 存外分かりやすく言い切られ、黒尾は「お、おお……」と声をもらす。喜びたい気持ちもあるが、直前にお節介だとも言われている。そう考えると無条件に喜んでもいられない。
「それに、おれたちが考えたところで、結局お節介か決めるのは苗字さんだし。おれがここでクロをなんとなく励ましたところで、苗字さんがお節介だなと思ってたらどうしようもないし」
「なんとなく励ますな」
 だから励ましてないよ、と研磨が言う。
「……そもそも、クロがおれと苗字さんを引き合わせたのは、本当に苗字さんのためを思ってしたこと?」
「え、じゃなかったら何?」
「さあ、適当に言った。それっぽい理屈考えるのはクロのが得意でしょ」
「あっ、こいつ面倒になってやがる」
 知らぬうちに真面目くさった空気になっていたところを、黒尾はどうにか茶化して誤魔化した。最後は煙に巻かれてしまったが、それでも研磨がいつになく親身になってくれているのは分かる。研磨の言葉にはたとえ幼馴染相手であろうと無用な甘やかしは一切ないから、その一点だけを考えても、研磨の分かりにくい励ましは心強かった。
 だが、ひとつ憂いが晴れれば今度は別の憂いが首をもたげる。
「それにしてもさっきのアレはしくじったな……」
「さっきのって……ああ、植物を育てるってはなし?」
 尋ねる研磨に、それ、と黒尾は答えた。
 普段あまり感情をあらわにすることのない名前の取り乱した姿は、傍目に見ているとかなり面白くはある。だからといって黒尾には、それをいじってやろうという気などまったくなかった。
 あくまでも名前がひとりで狼狽しているのを見ているのが楽しいのであって、年下の女子を小突き回して面白がるような悪い趣味は黒尾は持ち合わせていない。まして、名前を傷つけるのはまったく本意ではない。
「別にいじってやろうとかそういう気はさらさらなかったし、驚きすぎてつい、いつものテンションで騒いだだけなんだけど、あれ苗字さん嫌だったかな……」
「まあ、嬉しくはないよね。ああいう騒がれ方は」
「あああ……久々のやらかし普通にへこむ……」
 すぐさま名前に謝りたいが、話が普通に流れた以上、黒尾の方からまた蒸し返すのも意地が悪いような気がした。このまま何事もなかったかのように、名前が自らその話をするまでそっとしておくのが、正しい大人の在り方のようにも思える。
 歩きながらも黒尾は悶々と思い悩んでいた。そんな黒尾を、研磨は興味深げに眺める。こと人間関係において、黒尾が大抵の場合そつなくこなしていくことを、研磨は誰よりよく知っていた。
「そもそも、クロが何にそんなにびっくりしたのかが、おれにはよく分かんない。花を育てるのとかって、一般的な趣味じゃない?」
 研磨がぼそりと、問いかけともつかない言葉を発する。黒尾は束の間足を止め、思案するように瞑目した。
「それはそうなんだろうけど、……けど苗字さんの場合、俺が冗談で言ったのを真面目に取り合ってるっていうのがあるからなぁ」
「別に、本人が嫌ならやらないだろうし、やりたいからやるんでしょ。クロちょっと自意識過剰だよ」
「えっ、うそ。俺これ自意識過剰か……!?」
「苗字さんも関係ないってことでいいって言ってたじゃん」
「それは関係あるってことだろ! 逆説的に!」
「逆説的に……」
 黒尾の言うことも間違ってはいない。だがやはり、研磨にしてみれば黒尾の考えすぎのように思えた。黒尾がたとえ何を言おうと、名前のような人間はおそらく、興味のないことにはとことん関心を示さない。植物を育てようと思ったのなら、それは名前がそうしたいからということに尽きる。黒尾はきっかけになったかもしれないが、逆に言えばただのきっかけに過ぎない。
 だが、そのことを指摘したところで黒尾の気が晴れるわけではないのだろう。自意識過剰気味な思考回路は、そうであったらいいという潜在的な希望によって形成されている。少なくとも研磨の目にはそう見えている。
「クロ、これからは軽はずみなこと言えないね」
 適当に黒尾に調子を合わせてやると、黒尾はやたらと真剣な顔で頷いて見せる。
「いや、本当そうだぞ。苗字さん見てると、適当な付き合い方できねえなと思うよ。今回は特に」
 そうして黒尾は、夜空を見上げて溜息を吐いた。
「俺もマリモ育てるか……」
「いいんじゃない?」
「おまえ、それ本当に思ってる?」
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