017

「でもこの間のネコ映画は、なんつーか、思ってたより殺伐とした内容だったよな?」
 ちょっと首を傾げる黒尾に、名前は頷いた。
「そうですね。映画館のスクリーンいっぱいに映されたセミを捕食しようとするネコ、あれはちょっと、なかなか凄まじかったですしね」
 『世界・ネコ散歩ザムービー』は世界中のネコの散歩風景を映したものだったため、シーンによっては狩猟の姿も映されている。昆虫をなぶるように仕留めるネコの姿は、大画面だとかなりの迫力だった。
「そう考えるとたしかに、あれは自宅鑑賞の方がいいのかも……」
「苗字さん、研磨んちにはなんとでかいスクリーンある。だから映画館ほどではなくても、まあまあの迫力で映画も観られるんだな」
「そうなんですね。それなら丁度いい具合のセミの捕食が見られますね」
「いや、セミの捕食は見ない、かな……多分……」
 戸惑い視線を逸らす研磨に、名前はにこにこと微笑んだ。研磨と名前も少しずつ打ち解け、場はなごやかな雰囲気に包まれている。
 だが名前の笑顔を、黒尾が見咎めた。訝しげに眉を顰めた黒尾は、そのまま名前を観察するように見つめる。
 正面からの視線ならばともかく、隣の席から注がれる視線はどうにも無視しづらい。やがて名前は無言の圧に耐えかねて、顔から笑みを消し、眉根を寄せた。
「なんですか、黒尾さん。何か注文したいならオーナー呼びましょうか」
「いや、そうじゃないけど」
「じゃあ何でしょう。そんなにがっつり視線を向けられると、さすがにちょっと気になります」
 控えめに苦言を呈す名前に、黒尾はうーんと唸る。そして、
「苗字さん、まだ緊張してんの?」
 名前の目を覗き込んで、そう尋ねた。
「緊張しているように見えますか?」
「いや、なんか今日は笑顔がよそゆきだなと思って。あと口数多いから」
「そうですか……? 最初に緊張すると口数が増えるってうっかり言ってしまったので、話し過ぎないように気を付けてたんですけど」
「そこまでバラしちゃってどうすんの」
「……どうしましょうね」
 失言に失言を重ねる名前に、くっくと黒尾が笑った。名前はコーヒーを啜り、居た堪れなさを誤魔化す。そんなふたりの遣り取りを、研磨は注意深く、名前と黒尾の間あたりに視線を向けて観察する。
 やがて研磨は、「あの、さ」と、こわごわ切り出した。その声音から研磨の言葉が黒尾ではなく自分に向けられたものだと気付き、名前はカップを置いた。
「あの、苗字さん」
「はい」
「……おれなんかに緊張しなくていいよ」
 卑屈になっているわけではないのだろうが、そこはかとなく下手に出た物言いだった。黒尾が表情をあらためて、さりげなく名前に視線を向ける。その視線はあたかも名前が研磨に対してどう出るのか、その出方を窺っているかのようだった。
 名前はきょとんと研磨を見つめる。研磨の言葉の意味が分からないわけではない。ただ、どうして研磨がそんな発言をするに至ったのか、その理由が分からないのだった。
「いや、そうは言っても、緊張はするものじゃないですか……?」
「それは研磨が違う世界の住人だから?」
 そう尋ねたのは研磨ではなく黒尾だった。割り込んだのは、不穏な空気を避けるためだろうか。だが名前は、黒尾の問いに首を横に振った。
「いや、そうではなくて。だって、孤爪さんは黒尾さんの仲良しの幼馴染じゃないですか。友達の友達を相手に粗相があったらどうしようって、そりゃあ普通に思いますよ……」
 たしかに研磨の肩書は、名前から見て特異といえる。住む世界がどうとは考えていないが、今後名前が普通に日常生活を送っていて、研磨のような人種と親しくなることはそうそうないだろう。そういう意味では、住む世界とまでは言わずとも、生活圏や文化の異なる相手かもしれないと、そう思わないこともない。
 しかし今名前が気にしているのは、研磨の社会的な肩書についてではなかった。
 研磨は黒尾が社会人になった今も大切にしている、幼馴染かつ親友なのだ。そんな相手に失礼があってはならないし、無礼だったり気が利かない人間だとは思われたくはない。そこに研磨の社会的な立場や肩書などはまったく無関係だ。
「友達の友達にいい印象を残したいと思うのは……なんというか、不純かもしれないですが……それに、うっかり私が粗相を働いたせいで黒尾さんにけちがつくみたいなのも、孤爪さんはそんなことされないと思いますが、やっぱり考えてしまうというか……」
 話しているうちにだんだんと言い訳じみてきて、名前は溜息で言葉を締めくくった。黒尾と研磨がほんの一瞬視線を交わす。研磨はいつもと変わらない無表情に近い顔つきだが、黒尾の方はあからさまに面白がるような笑顔を隠そうともしていない。だが顔を俯けがちにしていた名前には、隣の席の黒尾の表情に気付くよしもない。
 名前が言い訳ともつかない言葉を引き取ったので、束の間テーブルには沈黙が落ちた。名前は言いたいことを言い終えて、沙汰を待つような面持ちで口を閉ざしている。やがて研磨が、
「粗相がどういうことを指してるのか、おれには分からないけど」
 静かにそう切り出した。名前を慰めるわけでもなく、その声音はあくまで淡々としている。
「おれはあんまり、そういうこと気にする方じゃないから……本当に、気にしないでほしい。むしろ気を遣われると、こっちも話しにくい、……かもしれない」
「そういうものですか? その、社交辞令的なものではなく」
「……うん」
 研磨が浅く頷いた。視線はやはり合わないが、嘘や慰めで言っているのではなさそうだということは、その語り口から察することができた。
「……分かりました。ではあの、多少の粗相があっても目を瞑ってください」
「分かった」
「話がまとまったのはいいんだけど、おまえら着地地点そこで合ってんの?」
 黙って成り行きを見守っていた黒尾が、ついに耐え切れず突っ込んだ。

 六時の閉店にあわせて店を出ると、すでに外は薄暗闇に沈んでいた。今日は自転車で来ているので、黒尾と研磨に送ってもらう必要はない。
「じゃあ自転車まで送るよ」
 と黒尾が言うので、三人で店の裏手にとめてある名前の自転車まで歩いて行くことになった。もっとも、送るといってもたかだか十秒程度の距離しかない。名前はかばんを自転車のかごに詰め込んで、改めて研磨と黒尾に向けお礼を言った。
「お忙しいところを今日はありがとうございました」
「いやいや、こっちこそいきなり紹介とか言って引き留めて悪かったな」
 黒尾はにこにこと機嫌よさげに返事をする。と、その視線がふいに名前の鞄に向けられた。
「ん、苗字さんガーデニングとかすんの?」
「え?」
「いや、だってそれさっき店の客から借りてた雑誌だろ?」
 黒尾が名前の鞄を指さし言う。その指の先に視線を遣ると、鞄の持ち手の間からはちょうど今日茂部に借りたばかりの雑誌が、表紙に書かれた誌名が見える程度に顔を出していた。
 そのことに気づいた瞬間、名前の表情が凍った。黒尾はしげしげと雑誌を眺めている。
「苗字さんち、マンションなのに植物とか育ててんの?」
「えっ!? い、いえ、全然今はそういうことはしていませんが……!」
「じゃあこれからすんの? まあ、土弄るなら寒くなる前のがいいのか」
 何の気なしに放たれる黒尾の言葉に、名前はにわかに顔が熱くなるのを感じた。別に、照れるようなことは何もない。やましいことも何もないし、ここで照れたり狼狽えたりする方が、むしろ余程どうかしている。
 それなのに、何故だか名前は妙に思えるほどの恥ずかしさに、全身くまなく襲われていた。
「苗字さん?」
 名前が黙りこくっていることに気付き、黒尾が名前の顔を覗き込む。名前はその視線から逃れるようにすっと視線を逸らした。
「え、なに。俺なんか悪いこと言った?」
「いえ、そ、そういうわけでは」
「じゃあなんで目ぇ逸らしてんの。おーい、おーい苗字さん?」
 こういうとき、黒尾はやけにしつこくなる。名前は視線を逸らし、しばらくの間ごにょごにょと言葉を捏ねていた。だが黒尾からの弛むことない追求に、ついには根負けした。
「部屋に」
「部屋?」
「部屋に緑があると和んでいいのではないかと、先日黒尾さんからそんなような話を聞いたので……」
 名前は恥を忍んで、そう答えた。驚くような早口と、蚊の鳴くようなか細い声だった。対して黒尾は、遠慮なく「えっ」と声を上げる。
「えっ、それで借りたのか? 『趣味の園芸』観葉植物特集号を?」
「だって、ネットでちょっと調べてみたんですけど、情報量が多すぎて何処から手を付けたらいいものやらか分からなかったですし……。お店の常連さんに詳しい方がいたので聞いてみたら、初心者におすすめの雑誌があるって言うので、貸していただいたんです」
 三人のあいだに束の間の沈黙が落ちた。近くで秋の虫が鳴く声が響き、やたらと風流な空気になる。
 たっぷり十秒ほどの沈黙が流れ、そして。
「いや、真面目か!」
 沈黙に耐えかねて、黒尾がつっこんだ。名前も負けじと反論する。
「だって黒尾さんが先に植物栽培とか言い出したんじゃないですかぁ!」
 名前はわぁっと声を上げて抗議し、両手で顔をおおった。その様子に、研磨がぷすっと笑いをもらす。黒尾は笑うより呆気にとられているようだった。自分の軽口をまさか名前がここまで真面目にとらえているとは、さしもの黒尾も考えもしなかったに違いない。
「いやいや、話の流れで軽くネタにしただけだろ! そんな真面目に勉強……」
「目上の人間の助言を無下にはできないですよ!」
「そんなちゃんとしたもんでもねえけど!」
 黒尾にしてみれば話の流れで少し冗談を言っただけのつもりだったのだろう。だが、生き物を飼うのは難しくても植物の栽培ならば手を出しやすいというのは、冗談を抜きにしても筋が通っている。
 そのうえ名前は緑ゆたかな宮城の片田舎の出身なのだ。植物の手入れをするのも、名前にはそれほど苦にならない。考えれば考えるほど、黒尾が冗談として提案した植物の栽培は、名前の生活と性質に合う、なかなかいい案のように思えた。
 だが名前とて、黒尾が本気で植物の栽培を勧めたわけではないことくらい、さすがにちゃんと分かっている。だからこそ、黒尾には知られたくはなかったのだ。
「ていうか私が植物を栽培したらダメなんですか!? 黒尾さんが勧めるし、想像してみたらちょっとたしかに素敵だなと、そう思ったのはダメですか!?」
「いきなりキレんなよ、落ち着け」
 柄にもなく取り乱す名前を黒尾が宥める。その表情が半笑いなのを見て、名前は一層顔を赤くする。
「半笑いじゃないですかぁ」
「いやいや、笑ってない笑ってない」
「半分笑ってる!」
「半分くらいは大目に見て」
 ごほんとわざとらしく咳払いをして、黒尾は続けた。
「そもそも植物育てるのがダメとか、誰も言ってない。ただ、そんな俺なんかの言葉を重く受け止められると思わないだろ」
「別に、黒尾さんから言われたから育てるってだけじゃないです。黒尾さんに勧められたのはきっかけに過ぎないというか」
「だったら照れる必要ないだろ。堂々としてろって。な、研磨」
 黒尾がおざなりなパスを研磨に投げる。研磨は一瞬面倒そうな顔をしてから、視線を伏せた。
「うん。まぁ初心者いじりされると恥ずかしいし、嫌な気持ちになる気持ちは分かるけど」
「えっ、俺そんな感じだった!?」
「そこまでではなかったけど、多少」
「あー、茶化す気はなかったんだけど」
「いいですよ……なんかもう、一人で恥ずかしくなって馬鹿らしくなってきたので」
 研磨の静かな声のおかげで、名前もようやく平静を取り戻した。顔の熱はまだ散らないが、ひとまず乱れた気持ちは落ち着いた。さりげなく鞄を整えて、はみ出していた雑誌を隠す。雑誌には何の罪もないが、これ以上居た堪れない気分になるのは嫌だった。
 黒尾はすでに半笑いも消し去って、神妙な顔で腕組みをしている。そしてやおら溜息を吐き出したかと思えば、
「いや、でもなんか、色々と思うところはあるな……。軽率な俺の発言の影響力について」
 やはり真面目くさった顔で言うのだった。だが、それが黒尾なりの取り繕い方だということは名前にも分かる。今まさに名前がひと通り恥をかいたので、今度は自分がふざけてバランスをとろうということなのだろう。
 そんな黒尾の考えが透けて見え、今度は名前が溜息を吐く番だった。
「もういいですよ。というかこの件に関しては、黒尾さん関係ないです。そういうことにしておきましょう」
「関係なくはないだろ!」
「言い出しっぺはクロなんだから、クロも責任とってなんか育てたら」
「責任って何。誰に対する責任だよ」
「でも孤爪さんの言うとおり、黒尾さんも何か育てたらどうですか。マリモとかいいんじゃないですか」
「それ前に俺が苗字さんに勧めたやつ。そっくりそのまま返すんじゃない」
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