016

 黒尾が店内に戻ってきたのは、席を立って数分経ってからだった。名前はそのとき閉店準備でコーヒーミルクやガムシロップを冷蔵個に片付けていたところだったが、戻ってきた黒尾に呼ばれ、片付けの手を一時止めた。
 黒尾はカウンター席に掛けなおすと、すっかり冷めたコーヒーを飲み干し言った。
「苗字さん、今日ってこのあと時間ある? よければ夕飯一緒に食わない?」
「時間はもちろん大丈夫ですが……、夕飯ですか?」
 戸惑う名前に黒尾が頷く。アルバイト終わりのお茶会ならば珍しくもないが、このタイミングで食事に誘われるのははじめてだった。
 カウンターの下で、黒尾が長い足を組みなおす。誘い方は穏やかだが、その表情には隠しきれない悪戯っぽさが滲んでいた。
「実は今、前に言ってた幼馴染が一人暮らし先からこっちに戻ってきてんだよ。それで今日、一緒に飯食う約束してるんだけど」
「はぁ」
 それが一体名前に何の関係があるというのだろうか。眉の間に困惑を浮かべ続ける名前に、黒尾がそれで、と意気込み続けた。
「で、この間映画行ったときに、苗字さんに幼馴染紹介するって言ったなー、と。だったら丁度いいし、ついでに今日どうかなーと」
 なるほどそれで。名前にも合点がいった。黒尾の幼馴染は学生で起業家で、そのうえ副業を多数抱える多忙な人だと聞いている。紹介云々については名前は話半分に聞いていたのだが、この分では黒尾は名前と幼馴染を引き合わせることに、かなり乗り気だったらしい。
 ちょうど良く今、黒尾の目の前には名前がおり、この後は幼馴染と会う予定もある。せっかくだから今日、引き合わせてしまおうということだろう。
 名前としても、黒尾の幼馴染のことがまったく気にならないわけではない。学生起業家なんて人種は名前の身の回りにはいない。どういう人間が起業などするのか、多少興味があった。
 だが何せ、急な話だ。初対面の相手、それも普通以上の肩書を持つ相手と挨拶をするというには、名前の身なりはあまりに頓着していなさすぎた。制服のエプロンを一枚とってしまえば、アルバイト着と通勤着を兼ねた量販店のシャツにジーンズという、飾り気のなさすぎる服装だ。
「私、こんなバイト着の適当な恰好なんですが」
 おそるおそる名前が尋ねると、黒尾がわずかに眉根を寄せた。
「あ、もしかして紹介とか嫌?」
「違います。そういうわけではないです」
 どうやら服装を理由に、遠回しに紹介を断ろとしていると思われたらしい。名前は軽く首を横に振った。
「そうではなくて、こんな恰好では失礼にあたるのではないかと」
「大丈夫、そういうの気にするやつじゃないし、そもそも飯っていってもどっかで軽く食べるだけだし。もし苗字さんが気になるなら、もちろん着替えてきてもらってもいいけど」
 名前の家とこの『猫目屋』とでは、それほど距離も離れていない。今日は自転車で通勤してきたので、着替えに帰ってまた戻ってきてもそれほど時間はかからないだろう。
 だが名前は少し考えてみてから、結局「いえ」と答えた。
「いえ、大丈夫です。ただ、お会いする前にちょっとだけ、髪の毛と化粧を直してもいいですか? さすがにこのままだと色々、適当すぎるので」
「了解。つーか飯だと、あいつ面倒くさがって来ねえかな……。電話の声、さっき起きたばっかりっぽかったしな。一応約束はしてるけど……、今日のところはここで、いつもみたいにお茶会にしておくか。苗字さん、それでもいい?」
「私は全然、なんでも大丈夫です」
「了解。じゃあ研磨にもここに来るよう言っておく。苗字さんもうバイト上がりだよな。もう少ししたら研磨来ると思うから、そしたら適当に待ってる」
 話が一段落したところで、茂部がレジにやってきた。会計はすでに済ませているのでその旨を伝えると、茂部は笑顔で頭を下げて店を出ていった。
 帰り際、店内を振り返った茂部と黒尾の視線が交錯したことに、テーブルを片付けにいった名前は気付かなかった。

 ★

 シフトの終了時間まできっちり仕事に勤しんでから、名前は急いでバックヤードに戻った。人と会う予定などなかったから、必要最小限の身だしなみ用品しか持ち合わせていない。だが何もしないよりは格段にましだ。
 髪型を整え、服の皺を伸ばす。茂部から借りた雑誌を鞄の中にきちんと収めなおしてから、名前はバックヤードを出た。オーナーがまかない代わりのコーヒーを淹れておいてくれたので、礼を言ってからカップを手に取る。
 ホールを覗くと、出入口に近い席に黒尾と、もうひとり猫背の青年が座っているのが見えた。カウンターからテーブルに移動したらしい。茂部が帰ったので、店内に客は黒尾たちだけのようだ。
 青年は名前に背を向けるように座っている。男性にしては長髪だ。背に垂れた髪の、中央から毛先にかけてだけが脱色したような金に染められている。その明るい髪色が、学生起業家という肩書とあわせ妙にちぐはぐな印象を名前に与えた。
「お、噂をすればご本人登場。苗字さん、こっち」
 名前に気付いた黒尾が、こっちこっちと手招きする。青年は振り返らず、名前に背を向けたままだ。名前は少し緊張しながら、ふたりの方へと近寄った。
「バイトおつかれーぃ」
「黒尾さんもおつかれさまです」
「俺? 俺は別に、普通にここでコーヒー飲んでただけだけど」
 青年と黒尾は四人席につき、テーブルを挟んで向かい合って座っている。名前は自分がどこに掛けるべきか一瞬悩んだ。が、いきなり初対面の人間の隣の席というのもおかしいだろうと、黒尾の隣――青年のはす向かいの席の、椅子の後ろに名前は立った。
「はじめまして、苗字名前です」
 座る前に簡単な挨拶を済ませる。黒尾の幼馴染だという青年が、慌てて腰を上げ、
「はじめまして。孤爪研磨……です」
 ぼそぼそと小さな声で挨拶を返して、またすぐに椅子に座りなおした。切れ長の瞳は伏せられて、今は名前から視線を外している。名前は不躾にならないよう気を付けながら、そっと研磨を観察した。
 節税として高級車を購入し、それを惜しげもなく幼馴染に貸し出す大学生。成功した学生起業家と聞いて名前が抱いていたイメージは、目の前にいる青年からかなり大きくかけ離れていた。内気で人見知りが激しいとはこういうことかと、名前はひそかに得心する。
 中性的な雰囲気は、顔立ちと髪形のせいだけではないだろう。仕草はどことなくぎこちないが、視線の遣り方まで含めて研磨の動きは最小だ。黒尾も動作がうるさいタイプではないが、上背があって腕も長いので、些細な動きが大きく見える。その点研磨は、かぎりなく動きが静かだった。
 内気というか、目立たないようにしているって感じ。そんなふうに第一印象を固めて、名前は研磨の顔の下あたりに視線を置いた。
「孤爪さんとお呼びしてもいいですか」
 返答の言葉はないが、ごくごく小さな頷きがひとつ返ってきた。
「それでは、孤爪さんと呼ばせていただきますね。孤爪さんは黒尾さんのひとつ下なんですよね。私もなので、孤爪さんと私、学年同じですね」
「……はい」
 今度は返事が返ってきた。ただし声は依然として消え入りそうなほどか細い。これまで黙って成り行きを見守っていた黒尾が、見かねたのか、はたまた面白がっているだけなのか、たどたどしいふたりの会話に「固いわ。見合いか」と割り込んだ。
「悪いね、苗字さん。こいつ、わりと誰に対してもこういう感じだから。悪気はないし、むしろいいやつだし、ただ究極の人見知りってだけだから」
「私も結構人見知りするタイプなので、なんとなく分かります。むしろ私の方こそ、うるさかったらすみません。私、多分孤爪さんと反対なんですよね。緊張するといらんことをどんどん喋ってしまうタイプで……」
「え、苗字さんってそういうタイプなの?」
「そうですよ。緊張すると口数増えるタイプです」
「へえ、それは知らんかった。だって苗字さんって、結構いつも淡々としてない?」
「淡々と、口数が増えるんです」 
 名前と黒尾が話をしている間も、研磨の視線は手元のカップに向けられている。だが話を聞いていないわけではなさそうだということは、研磨の発する雰囲気から何となく分かった。そもそも研磨は黒尾の幼馴染なのだ。そういう意味では名前ははなから、研磨に対して嫌な人かもしれないというような疑念は抱いていない。
 いきなり名前と研磨の話が弾むということはないだろうと、ひとまず黒尾が間に入って会話をうまく回すことにした。黒尾と研磨の幼少期のエピソードや、名前と黒尾が知り合うに至った経緯など。後者に関しては研磨はすでに黒尾から聞いていそうな話題だったが、それでも面倒そうな顔をせず、研磨は小さく相槌を返した。
「いや、でもこの年になって俺もまさか、じいちゃんばあちゃん経由で友達が増えるとはって感じだよ」
「私も茶飲み友達なんて黒尾さんくらいしかいませんよ。まあ、私の場合は友達がそもそも少ないんですが」
「どうしたどうした。今その話すんの? 持ちネタ?」
「すみません、ちょっとうっかり口が滑りましたね……。今のは聞かなかったことにしてください」
 名前の失言に、研磨はひとつ頷く。
「おれも友達そう多くないし、別に気にすることないんじゃないかな……」
「初対面の人に励まされてしまった……」
「研磨に励まされるって相当だぞ」
「……き、気を悪くしたなら、ごめんなさい」
「悪くしてないです。大丈夫です。元気が出ました」
「まじかい」
 そうして話をしているうちに、しだいに研磨の口数も増え──といってもあくまで淡々と、そして訥々とした調子ではあったが、どうにか三人での会話もそれなりに続くようになった。
 場があたたまってきたところで、名前はまだ、自分がもっとも肝心なことを話していないことに気が付いた。それまでの会話が一区切りになったタイミングを見計らい、名前は「そういえば」と切り出す。
「遅くなりましたが、先日は試写会のチケットを譲っていただきありがとうございました。ネコ、可愛かったです」
 椅子に掛けたまま、名前は浅く頭を下げた。そもそも名前に研磨を紹介することになったのは、映画のお礼を自分の口から伝えるということに端を発している。実際にはチケットを譲り受けたのは黒尾だが、名前もその恩恵にあずかっている以上、きちんとお礼を言わねばと思っていたのだった。
 研磨は一瞬記憶を探るような顔をしたあと、「ああ」と小さく呟いた。名前が言い出すまで、黒尾にチケットを譲ったことも忘れていたのかもしれない。
「こちらこそ、チケット使ってもらえてよかった。おれ、あんまり劇場とかいかないし……でも、貰い物だから空席つくるわけにもいかなくて」
「今はもう人気作も少し経てば家で配信で見られますもんね」
「……うん」
 研磨が出不精だと黒尾が以前言っていたことを、名前は思い出す。多忙の身であれば劇場まで足を運ぶこと自体難しいということもあるだろう。
「孤爪さんはネコ、お好きですか」
「好きだけど、自分で飼うほどではないかな」
「そうですか」
「……うん」
「そういやおまえんちって、ペット飼える物件なの?」
「飼えるけど、庭に来るネコをちょっとかまうくらいでいいよ」
「ネコがお庭に来るお宅、いいですね……」
「この辺でも、一軒家なら結構普通に来るよね」
「だな。おれんちにも時々来る」
 黒尾と研磨の言葉に、名前は「いいですねぇ」と羨ましげな声を出した。名前の一人暮らし先はマンションだし、マンションの周囲で餌付け等しないようにと規則で決まっている。
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